1997N911句(前日までの二句を含む)

September 1191997

 向き合へる蝗の貌の真面目かな

                           松浦加古

の季節の稲田に大挙して押し寄せる蝗(いなご)は、農民にとっては天敵である。畦道を歩いていると、しばしばこちらの顔にぶつかってくるほどの数だ。現在の方法は知らないが、こいつらを退治するのに、昔は一匹一匹手で捕まえるしか方法がなかった。主として子供たちの仕事で、用意した紙袋にどんどん捕まえては入れ、そのまま焚火で焼き殺す。そんな仕事中に、たまには餌食の顔をまじまじと見てしまうということも起きた。この句のとおり、彼らは極めて真面目な表情をしている。真面目に人間に害をおよぼしているのだ。そこのところがなんとなく哀れでもあり、可笑しくもあった。蝗をうまそうに食べる人もいるが、私は駄目だ。天敵とはいえども、同じ土地の空気を吸って共に生きた間柄だからである。(清水哲男)


September 1091997

 秋晴の踏切濡らし花屋過ぐ

                           岡本 眸

鉄沿線の小さな踏切を、花屋のリヤカーが渡っていく。線路の凸凹に車輪がわずかに踊って、美しい花々が揺れリヤカーから水がこぼれる。こぼれた水の黒い痕。それもすぐに乾いてしまうだろう。見上げると空はあくまでも高く、気持ちのよい一日になりそうだ。都会生活者のささやかな充足感を歌っている。読者もちょっぴり幸福な気分になる。『朝』所収。(清水哲男)


September 0991997

 脇ざしの柄うたれ行く粟穂かな

                           加藤暁台

台は十八世紀江戸期の俳人で元尾張藩士。粟は人の腰の丈より少し高いところくらいにまで生長するから、刀をさした者が粟の畑近くを歩けば、このような情景になる。なんだか時代劇の一場面を見ている気持ちにさせられるけれど、二百年前のこの国のまぎれもない現実なのだ。と、頭ではわかっても、やっぱり不思議な気持ちになる。ところで、粟は米よりも味があわいので「あわ」と言ったという説がある。薄黄色の粟餅は私の好物だったが、このところとんとお目にかかれない。五穀のひとつである粟も、作る人がいなくなってしまったのだろう。脇差はとっくに消え、粟もまた消えていく。時世というものである。(清水哲男)




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