1997N924句(前日までの二句を含む)

September 2491997

 馬が川に出会うところに役場あり

                           阿部完市

市の句に、意味を求めても無駄である。彼は人が言葉を発する瞬間に着目し、その瞬間の混沌の面白さを書きとめる。無意味といえばそれまでだが、人は意味のみにて生きるにあらず。人と話すにせよ文章を書くにせよ、最初に脳裡に浮かぶ言葉には意味はない。私たちはそのような言葉の混沌を意味的に整理しながら、やおら言葉を吐き出しにかかるのである。したがって、如何に結果的に理路整然とした文脈に感じられようとも、その源をたどればすべてが初発の混沌に行き着くのだ。この句を時系列的に読めば、作者はまず馬のイメージをを拾い上げ、その馬の動きを追っていくと川に出会い、そこに役場が出現する。そういうことだが、作者の混沌のなかでは、馬も川も役場もが同時的に一挙に出現したものなのである。だから不思議な抒情性があり、面白い味が出てきている。そして、私たちがそう感じ取れるのは、この不思議の源が、実は既に読者自身の言語的混沌のなかに内包されているものだからだと思う。『軽のやまめ』所収。(清水哲男)


September 2391997

 はたをりが翔てば追ふ目を捨て子猫

                           加藤楸邨

たをりは、チョンギースと鳴く「きりぎりす」のこと。声が機を織る音に似ていることによる。捨てられた子猫も、虫が飛び立てば本能的に目で追うのだ。その可愛らしい様子が哀れでならない。実は、この子猫、作者と大いに関係がある。前書に「黒部四十八ヶ瀬、流れの中の芥に、子猫二匹、あはれにて黒部市まで抱き歩き、情ありげな人の庭に置きて帰る 五句」とあるからだ。とりあえず子猫の命は救ったものの、旅先ではどうにもならぬ。そこで「秋草にお頼み申す猫ふたつ」となった次第。捨てたのではなく、置いたのではあるが……。楸邨は常々「ぼくは猫好きではない」と言っていたそうだ。が、結婚以来いつも家には猫がいて、たくさんの猫の句がある。ふらんす堂から『猫』(1990)というアンソロジーが出ているほどだ。『吹越』所収。(清水哲男)


September 2291997

 壷の花をみなめしよりほかは知らず

                           安住 敦

も植物の名に明るくないので、しばしばこういうことになってしまう。壷に挿された数種の花のうちで、わかるのは「女郎花(「をみなへし」あるいは「をみなめし」とも)」だけであるという句。最近では新種の花が増えてきたので、花屋の花を見てもますますわからなくなってきた。横文字の名前が多いのも、覚えにくくて困る。女郎花は『万葉集』にも出てくるし、秋の七草としても有名だ。謡曲に女郎花伝説あり。山城国男山の麓の野辺の名草女郎花の由来として、小野頼風という男の京の愛人が、頼風の無情を恨んで放生川に身を投じたところ、その衣が朽ちて花に生まれ変わったというのである。この伝説を下敷きにして眺めると、女郎花のいささか頼りなげな風情も納得できる。(清水哲男)




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