1997N925句(前日までの二句を含む)

September 2591997

 闇にただよふ菊の香三十路近づきくる

                           中嶋秀子

ろうとして床につくが、なかなか寝つけない。部屋に活けた菊の濃密な香がただよっていて、心なしか息苦しい感じさえする。思えば、三十路も間近だ。もうそんなに若くはないのだから、もっとしゃんとしなければという自戒の念。三十路に対しては、男よりも女のほうが敏感だろう。このとき作者は結婚しているが、現代の「結婚しない女たち」にとっても、三十路に入る心境は複雑なようだ。新聞や雑誌が、繰り返してそんな女性たちのレポートを載せている。『花響』所収。(清水哲男)


September 2491997

 馬が川に出会うところに役場あり

                           阿部完市

市の句に、意味を求めても無駄である。彼は人が言葉を発する瞬間に着目し、その瞬間の混沌の面白さを書きとめる。無意味といえばそれまでだが、人は意味のみにて生きるにあらず。人と話すにせよ文章を書くにせよ、最初に脳裡に浮かぶ言葉には意味はない。私たちはそのような言葉の混沌を意味的に整理しながら、やおら言葉を吐き出しにかかるのである。したがって、如何に結果的に理路整然とした文脈に感じられようとも、その源をたどればすべてが初発の混沌に行き着くのだ。この句を時系列的に読めば、作者はまず馬のイメージをを拾い上げ、その馬の動きを追っていくと川に出会い、そこに役場が出現する。そういうことだが、作者の混沌のなかでは、馬も川も役場もが同時的に一挙に出現したものなのである。だから不思議な抒情性があり、面白い味が出てきている。そして、私たちがそう感じ取れるのは、この不思議の源が、実は既に読者自身の言語的混沌のなかに内包されているものだからだと思う。『軽のやまめ』所収。(清水哲男)


September 2391997

 はたをりが翔てば追ふ目を捨て子猫

                           加藤楸邨

たをりは、チョンギースと鳴く「きりぎりす」のこと。声が機を織る音に似ていることによる。捨てられた子猫も、虫が飛び立てば本能的に目で追うのだ。その可愛らしい様子が哀れでならない。実は、この子猫、作者と大いに関係がある。前書に「黒部四十八ヶ瀬、流れの中の芥に、子猫二匹、あはれにて黒部市まで抱き歩き、情ありげな人の庭に置きて帰る 五句」とあるからだ。とりあえず子猫の命は救ったものの、旅先ではどうにもならぬ。そこで「秋草にお頼み申す猫ふたつ」となった次第。捨てたのではなく、置いたのではあるが……。楸邨は常々「ぼくは猫好きではない」と言っていたそうだ。が、結婚以来いつも家には猫がいて、たくさんの猫の句がある。ふらんす堂から『猫』(1990)というアンソロジーが出ているほどだ。『吹越』所収。(清水哲男)




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