1997N105句(前日までの二句を含む)

October 05101997

 それぞれの部屋にこもりて夜長かな

                           片山由美子

の句は有名になり、あちこちの俳書に収録されている。それほどいまの家族の光景を見事にとらえている、といってもいいのだろう。「孤」独な光景というよりも、親も子もそれぞれ部屋にこもって、本を読んだり、音楽を聞いたりしている。それもいいじゃない、という感じなのだ。でも個室がある家とはうらやましい。わが家には私の部屋はないのです。だからいつも遅く帰るのだ。片山さんは1952年生れ。鷹羽狩行門。この人も私の好きな俳人のひとりである。(井川博年)


October 04101997

 また夜が来る鶏頭の拳かな

                           山西雅子

るほど、鶏頭は人の拳(こぶし)のようにも見える。黄昏れてくれば、なおさらである。同類の発想では、富澤赤黄男の「鶏頭のやうな手を上げ死んでゆけり」という戦争俳句があまりにも有名だ。作者はこの句を踏まえているのか、どうか。踏まえていると、私は読んでおきたい。つまり作者は赤黄男の死者を、このようなかたちでもう一度現代に呼び戻しているのである。このときに「また夜が来る」というのは、自然現象であると同時に人間社会の「夜が来る」という意でもあるだろう。あるいは赤黄男句と関係がないとしても、この句の鶏頭の「拳」には人間の怒りと哀れが込められているようで、味わい深く忘れがたい。『夏越』(1997)所収。(清水哲男)


October 03101997

 登高ののぼりつめればラーメン屋

                           大野朱香

野朱香さんは1955年生れの女流俳人。「これはもう裸といえる水着かな」という句で知られる。亡き江國滋さんが『微苦笑俳句コレクション』に何句も採っているのもうなずける。江國さん、好きだったんだ。私も好きな俳人です。「登高(とうこう)」は秋の季語。もともとは重陽の節句に、文人が高きに登って詩を詠じた故事をいう。最近は秋の気候の良い頃のハイキング気分の語となっている。その坂道ののぼりつめたところがラーメン屋だったんだ。なんだ、なんだ、といいながら、それでも食べるラーメンは、きっと美味しいだろうなあ。(井川博年)




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