ワ酬句

October 09101997

 柳散る銀座に行けば逢へる顔

                           五所平之助

の取り柄もない句だが、そこが取り柄。秋風が吹いてくると、突発的発作的に人恋しくなるときがある。誰かに会いたい、ちょっとした話ができれば誰でもかまわない。そんなときに、酒飲みは常連として通っているいつもの酒場に足が向いてしまう。その場所がたまたま銀座だったというわけだが、銀座名物の「柳散る」が作者の心象風景を素朴に反映していて好もしい。五所平之助は『煙突の見える場所』(1953・椎名麟三原作)などで知られる映画監督。そういえば、この句には懐しい日本映画の一場面のような雰囲気もある。(清水哲男)


October 23101998

 鯛焼やいつか極道身を離る

                           五所平之助

者は『煙突の見える場所』などで知られた映画監督。本邦初の本格的トーキー映画『マダムと女房』(1931)を撮った人だ。「旅」と「カメラ」と「俳句」を趣味とした。その昔、前田普羅の「加比丹」同人だったこともある。「鯛焼」と「極道(ごくどう)」との取り合わせが面白い。それも取り合わせの妙というのではなく、しごく自然な時の流れのなかでのことなのだから、面白いというよりも泣き笑い的な淋しさがあると言うべきかもしれない。若いころにはそれなりに「ワル」だったと自認してきたが、いつしか「ワル」としての突っぱりにもくたびれてしまい、気がついたら、なんとふにゃらふにゃらと「鯛焼」なんぞを嬉しそうに食っている。……ザマはねえ。我が青春は、はるか遠くに過ぎ去ったという感慨だ。が、当今流行の赤瀬川原平風に言うと「老人力がついてきた」句ということになる。これからはますます老人の句や文芸が増えてきそうだが、あまりに早く、過ぎ去った年月を抒情するのは危険だ。余命が長すぎて、そこから先に進めなくなる。そういうことは、十二分に「老人力」がついてからにしたほうがよさそうである。『五所亭俳句集』(1969)所収。(清水哲男)


February 0222005

 面体をつゝめど二月役者かな

                           前田普羅

月は生まれ月なので、今月の句はいろいろと気になる。この句もその一つで、長い間気にかかっていた。多くの歳時記に載っているのだけれど、意味不明のままにやり過ごしてきた。「二月役者」の役者は歌舞伎のそれだろうが、その役者が何をしている情景かがわからなかったからである。で、昨日たまたま河出文庫版の歳時記を読んでいたら、季語の「二月礼者(にがつれいじゃ)」の項にこうあった。「正月には芝居関係、料理屋関係の人々は年始の礼にまわれないので、二月一日に回礼する風習があった。この日を一日(ひとひ)正月、二月正月、迎え朔日、初朔日といった。正月のやり直しをする日と考えるのである」(平井照敏)。例句としては「出稽古の帰りの二月礼者かな」(五所平之助)など。読んだ途端に、あっ、これだなと思った。つまり「礼者」を「役者」に入れ替えたのだ。そういうことだったのかと、やっと合点がいった次第。積年の謎がするすると解けた。いくら人に正体を悟られないように「面体を」頬かむりしてつつんではいても、そこは役者のことだから、立居振る舞いを通じて自然に周囲にそれと知れてしまう。ああ名のある役者も大変だなあと思いつつ、しかし作者は微笑しているのだろう。大正初期の句だが、私などにはもっと昔の江戸の情景が浮かんでくる。なお、「二月」は春の季語。中西舗土編『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


May 2652006

 売られゆくうさぎ匂へる夜店かな

                           五所平之助

語は「夜店」で夏。作者は、日本最初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』や戦後の『煙突の見える場所』などで知られる映画監督だ。俳句は、久保田万太郎の指導を受けた。掲句はありふれた「夜店」の光景ながら、読者に懐かしくも切ない子供時代を想起させる。地べたに置かれた籠のなかに「うさぎ」が何羽か入っていて、それを何人かの子どもらが取り囲んでいる。夜店の生き物は高価だ。ましてや「うさぎ」ともなれば、庶民の子には手が届かない。でも、可愛いなあ、飼ってみたいなあと、いつまでも飽かず眺めているのだ。このときに、「うさぎの匂へる」の「匂へる」が、「臭へる」ではないところに注目したい。近づいて見ているのだから、動物特有の臭いも多少はするだろうが、この「匂へる」に込められた作者の思いは、「うさぎ」のふわふわとした白いからだをいとおしく思う、その気持ちだ。「匂うがごとき美女」などと使う、その「匂」に通じている。この句を読んだとたんに、おそらくは誰もがそうであるように、私は十円玉を握りしめて祭りの屋台を覗き込んでいた子どもの頃を思い出した。そして、その十円玉を祭りの雑踏のなかで落としてしまう少年の出てくる映画『泥の川』(小栗康平監督)の哀切さも。『五所亭句集』(1069)所収。(清水哲男)


November 21112012

 冬の田のすつかり雨となりにけり

                           五所平之助

植直前の苗が初々しく育った田、稲が青々と成長した田、黄金の稲穂が波打つ田、稲が刈り取られていちめん雪に覆われた田ーー四季それぞれに表情が変わる田んぼは、風景として眺めているぶんにはきれいである。しかし、子どものころから田んぼ仕事を手伝わされた私の経験から言うと、きれいどころか実際はとても骨が折れて決してラクではなかった。平之助は雨の日に通りがかりの冬の田を、道路から眺めているのだろう。似た風景でも「刈田」だと秋の季語だが、今やその時季を過ぎて、稲株も腐りつつある広い田園地帯に降る冬の冷たい雨を、ただ呆然と眺めている。見渡しても田に人影はなく、鳥の姿も見えていない。それでなくとも何事もなく、ただ寂しいだけの殺風景な田園を前にして、隈なく「すつかり」ただただ雨である。ここでは「冬田つづきに磊落の家ひとつ」(友岡子郷)の「家」も見えていなければ、「家康公逃げ廻りたる冬田かな」(富安風生)の「家康公」の影も見えていない。ただ荒寥とした田んぼと雨だけである。詠み手の心は虚ろなのかもしれないとさえ思われてくる。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


April 0342013

 花ぐもり机に凭れ空ろなる

                           五所平之助

之助は映画「マダムと女房」「煙突の見える場所」などで知られる名監督。若い頃には身辺に文学青年が多く、「柏舟」という俳号で句会によく顔を出し、先輩に可愛がられたという。脚本を書き、映画をつくるうえで俳句から多くを学んだ、と述懐している。「ぼくの映画には必ず季節感をとり入れた」とも語っている。ところで、今年の桜の開花は例年よりもかなり早くて、東京では三月末以前にもう満開をむかえた。花ぐもりで外気はまだ寒ささえ感じられるのだろうが、花見に出かけることもなく書斎で机に凭れて、しばし空ろな気持ちになっている。花の宴をよそに、静かな書斎で身をやすめて、花見の様子に思いをめぐらしているのかも知れない。それもまた花見どきの人の心のありようを表わしている。年々歳々、花見に出かけて行ってもバカ騒ぎをすることにも飽きて、缶ビールを飲みながら何とはなしに、しばし「空ろ」の時間に身をあずけている自分に気づくことがある。平之助には句集『わが旅路』(1979)がある。他に「花明りをんな淋しき肩を見す」がある。(八木忠栄)




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