ヘ掲j句

October 11101997

 死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ

                           河原枇杷男

に見頃があるように、何につけ頃合いというものがある。だから、我々人間にも「死に頃」があってもよいわけで、老人が「そろそろお迎えが来そうだ」というとき、彼ないし彼女はそのことをひとりでに納得しているのだと思う。そしてこのことは、白桃が旨いという生きているからこその楽しさとは矛盾しない。作者はそういうことを言っている。一読難解のようにも見えるが、むしろ素朴すぎるほどの心情の吐露と言えるだろう。永田耕衣門。『河原枇杷男句集』(1997)所収。(清水哲男)


March 0231998

 我も夢か巨勢の春野に腹這へば

                           河原枇杷男

養がないとは哀しいもので、句の「巨勢」を、はじめは作者の造語だと思い、春の野の圧倒的な生命感を暗示した言葉だと思っていた。結果的にはそのように読んでもさして間違いではなかったのだが、念のために辞書を引いてみたところ、「巨勢」は「こせ」と読み、現在の奈良県御所市古瀬あたりの古い地名だとあった。古代大和の豪族であった巨勢氏に由来するらしい。いずれにしても、作者は圧倒的な生命力もまた夢に終ることを、我と我が身で実感している。古代に君臨した豪族の存在が夢のようであったからには、私自身もまた夢のようなそれなのだろうと達観しかかって(!)いる。この句に接してすぐに思いだしたのは、啄木の「不来方ののお城のあとの草に臥て/空に吸はれし/十五のこころ」だった。枇杷男の句は六十歳を過ぎてのそれで、同じように「野に腹這」っても「草に臥て」も、ずいぶんと心持ちが違うところが切ない。栄枯盛衰は権力の常だと歴史は教えている。が、権力にかかわらぬ個々人は、歴史にしめくくってもらうわけにもいかないから、このように自分自身でしめくくりにかかったりするのだろう。『河原枇杷男句集』(1997)所収。(清水哲男)


June 0661998

 蛇苺われも喩として在る如し

                           河原枇杷男

から禁じられても青い梅などは平気で口にしていた悪戯小僧たちも、蛇苺だけには手を出さなかった。青梅は腹をこわすだけですむけれど、蛇苺は命を失うと脅かされていたからだ。敗戦直後の飢えていた時代にも、蛇苺だけはいつまでも涼しい顔で生き残っていた。別名がドクイチゴ。そういう目で見ると、たしかに蛇苺の赤い色は相当に毒々しい。命名の由来は知らないが、べつに蛇が食べるからというのではなく、たぶん人々が蛇のように忌み嫌ったあたりにありそうだ。つまり、れっきとした苺の仲間なのに、苺とは見做されてこなかった。苺なのに苺ではないのだ。ここを踏まえて、作者は自分も蛇苺と同じように、人間なのに人間じゃないような気がすると韜晦(とうかい)している。人間の喩(ゆ)みたいだと、自嘲しているのである。枇杷男のまなざしは、たいていいつも暗いほうへと向いていく。性分もあるのだろうが、人間存在の根底に流れているものは、そんなに明るくないことを絶えず告知しつづけてきた表現には、ずしりと胸にこたえるものがある。なお、蛇足ながら蛇苺はまったくの無毒であり、勇気を出して食べた人によると「極めてまずい」のだそうである。『蝶座』(1987)所収。(清水哲男)


September 1692001

 或る闇は蟲の形をして哭けり

                           河原枇杷男

の音しきりの窓辺で書いています。窓外は真っ暗と言いたいところですが、東京の郊外といえども、どこかしらに光りがあって、真の闇は望むべくもありません。でも、虫の声の聞こえてくるあたりを見やると、そこはたしかに闇の中という感じがします。あちこちに、とても小さな真の闇がある。その意味では、都会の闇には、いつもそれなりの「形」があると言ってもよいだろう。むろん揚句の闇は、巨大なる真の闇である。鼻をつままれても、相手が誰だかわからないほどの……。だから、この闇には形などないわけで、そんな闇に「蟲(むし)の形」を与えたところが手柄の句。そして「哭(な)けり」の主語は「蟲」ではなくて、あくまでも「闇」そのものだ。平たく言えば、たまたま「闇」が「蟲」の形をして、いま「哭」いているのだよという見立て。したがって、句の「蟲の形」は明確な輪郭を持つものではない。いわば心眼をこらせば「蟲の形」をなしてくる「或る闇」なのだ。見ようとしなければ絶対に見えない「形」だし、見ようとすれば見える感じになる「形」である。故にたとえば「或る時」に「或る闇」は、たまたま人間の形になって哭くこともあるだろう。そんな方向に読者を連れていくのが、この句の大きな魅力だと思った。『密』(1970)所収。(清水哲男)


October 28102003

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も

                           河原枇杷男

語は無い。無季句だ。もちろん「桃(の実)」は秋の季語だけれど、こういう場合の分類は忌日がメインゆえ、それを優先させる。では「枇杷男忌」が四季のいずれに当たるかということになるわけだが、それが全くわからない。なぜなら、枇杷男は現在関西の地に健在存命の俳人だからである。もっとも彼には「死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ」という句があって、西行の「花の下にて春死なん」じゃないけれど、どうやら桃の実の熟するころに死にたいという希求はあるようだが、希求はあくまでも希求であって確定ではない。勝手に自分の命日を決めてもらっては困る。……とまあ、ここまでは半分冗談だが、けっこうこれは方法的には恐い句だ。中身としては、人の忌日だというのにあまりにも健康そうに熟した桃が、恥じておのれの色艶をもて余している情景である。本当は喪に服して少しは青く縮こまっていたいのに、なんだかやけに溌剌として見えてしまう姿をどうしようもないのだ。おお、素晴らしき善なる桃の実よ。私が恐いというのは、やはり自分の命日を自分で作って詠むというところだ。辞世の句なら生きているうちに詠むのが当たり前だが、たとえ冗談や遊び半分、あるいは悪趣味のつもりでも、そう簡単に自分の命日を詠めるものではない。論より証拠、試してみればわかります。私も真似してみようと思ったけれど、すぐに恐くなって止めてしまった。よほど日頃から自分の死に対して、人生は生きるに値するかの答えの無い命題を真摯に考え、性根が坐っている人でないと不可能だと思われた。その意味で、掲句の方法は作者の生き方につながる文芸上の態度を明確に示したものだと言わなければならない。枇杷男を論ずるに際しては、欠かせない一句だろう。『河原枇杷男全句集』(2003)所収。(清水哲男)


July 1872011

 何もなく死は夕焼に諸手つく

                           河原枇杷男

際、死には何もない。かつて物理学者の武谷三男が亡くなったとき、哲学者の黒田寛一が「同志・武谷三男は物質に還った」という書き出しの追悼文を書いた。唯物論者が死のことを「物質に還る」と言うのは普通のことだが、追悼文でそう書かれてあるのははじめて見たので、印象に残っている。そのように、死には何もないと私も思うけれども、自分が死ぬときに意識があるとすれば、何もないとすっぱり思えるかどうか、ときどき不安になることもある。句の作者は唯物論者ではなさそうで、だから西方浄土の方向に輝く夕焼けに埋没していくしかないと、死を冷静にとらえてみせているのだろう。ここには厳密に言えば、何もないのではなくて、夕焼けに抒情する心だけはある。何もないと言いながらも、やはりなおどこかに何かを求めている心があるということだ。すぱっと物質に還るとは思い切れない人の心の惑いというもののありかを、句の本意からは外れてしまうが、つよく思わされた句であった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)




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