October 141997
夜なべする大阪に音なくなるまで
浦みつ子
針仕事だろうか、あるいは家計のための軽作業だろうか。とにかく、昔の人はよく働いた。夜の遅い時間を表現するにはいろいろとあるが、作者の発想はユニークである。夜中まで忙しい商都大阪の音がなくなるまでというのだから、夜も相当に更けていることがわかる。これが他の都市名だったら、ここまでの味わいは出ないだろう。「大阪に音なくなるまで」は、作者の実感だ。実感だから、少しも無理がないのである。ところで「夜なべ」という言葉、現代の子供たちにわかるだろうか。(清水哲男)
October 131997
野菊挿しゐて教室に山河あり
谷口美紀夫
新聞の投句欄はなるべく読むようにしているが、なかなかコレという作品にお目にかかれない。やはり、新聞には「座」がないからだと思う。投句者もひとりなら、選者も孤独だ。お互いに素顔が見えないので、どうしても熱気に欠けてしまうのである。この句は昨日(1997年10月12日)の「朝日俳壇」金子兜太選第一席作品。兜太の評には「類想はあるが、叙述が独特なので紛れることはない。『教室に山河あり』の、正眼に構えた物言いが潔い」とある。その通りであり、私も好きになった。が、すぐに飽きてしまいそうなテクニックでもある。新聞俳句欄のレベルではいっぱいいっぱいの、善戦健闘句には間違いないけれど。(清水哲男)
October 121997
木の実落ち幽かに沼の笑ひけり
大串 章
地味だが、良質なメルヘンの一場面を思わせる。静寂な山中で木の実がひとつ沼に落下した。音にもならない幽かな音と極小の水輪。その様子が、日頃は気難しい沼がちらりと笑ったように見えたというのである。作者はここで完全に光景に溶け込んでいるのであり、沼の笑いはすなわち作者のかすかなる微笑でもある。大きな自然界の小さな出来事を、大きく人間に引き寄せてみせた佳句と言えよう。大串章流リリシズムのひとつの頂点を示す。大野林火門。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)
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