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November 13111997

 焚火せる子らは目敏く教師を見

                           森田 峠

者は高校教師(市立尼崎高校国語科担当)だったから、焚火をしているのは高校生たちだ。下校途中の空き地か河原あたりの情景だろうか。「ウチの生徒だな」と作者が気がつくのと同時くらいに、いやそれ以前にか、もう生徒たちは目敏く(めざとく)も自分の姿を認めてしまっている。いつの時代にも、教師と生徒との関係はこんな具合であるようだ。雑踏のなかを歩いていても、いちはやくお互いを発見してしまえるのも不思議といえば不思議である。何か特殊なテレパシーでも働くのだろう。日常的に、それほどの緊張関係にあるということである。同じ作者に「うしろにも眼がある教師日向ぼこ」がある。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


November 25111997

 類焼の書肆より他に吾は知らず

                           森田 峠

つもよく通る町の一角が火事になった。現場にさしかかると、何軒かの店が無惨に焼け落ちている。しかし、知っている店といえば書肆(書店)だけで、隣の店もその隣も、はてどんな店だったのか。作者は思い出せず、そのことに驚いている。火事でなくても、こういうことはしばしば経験する。新しい建物が建つと、以前はここにどんな建物があったのか、しばらく考え込んだりする。ことほどさように、人間の目は不確かなものだ。見ているつもりで、自分に必要な対象以外は、ほとんど何も見ていない。この句を読んで、私もよく出入りする本屋の隣の店が、何を商っているのかを知らないでいることに気がついた。話は変わるが、昔から「三の酉」まである年は火事が多いという。今年は、その年に当たっている。火の用心。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


January 1211998

 冬の浜骸は鴉のみならず

                           森田 峠

涼たる冬の浜辺で、鴉(からす)が死んでいる。身体が黒いので、すぐにそれとわかるのである。しかしよく見ると、死んでいるのは鴉だけではなく、名も知らぬ魚や虫や小動物の骸(むくろ)も点々としている。眼前の情景はこれだけだが、この句はもっと大きなスケールを持つ。すなわち、太古からの冬の浜辺の数えきれないほどの死骸のイメージに読者を誘うのであり、また悠久の未来のそれをも連想させるからだ。このとき、おびただしい人間の骸も見えてくるし、みずからの屍体が、いつの日かここにあっても不思議ではないと思えてくるほどだ。このように、俳句という表現装置は、時空間系列を自在に行き来できる機能をそなえているのでもある。ところで、鴉は昔、神意を伝える霊鳥と言われていた。そんな視点から読んでみると、ますます句の世界は奥深くなる。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


February 1121998

 受験期の教師集まりやすきかな

                           森田 峠

師の側から受験期を詠んだ句。作者は高校教諭(国語科担当)であったから、この時期は多忙だったろう。教え子の進学希望に際しては、いろいろな科目の教師たちにも相談をしなければならない。試験が終ったら終ったで、生徒たちの出来が気になる。何かというと、集まることが多くなる。職員室は、受験一色だ。職員室ももちろん一つの社会であるから、さまざまな人間関係が渦巻いている。それが受験という一大イベントの季節をむかえると、日頃の人間関係は良くも悪くも「水入り」となる。否も応もなくなってしまう。そんな教師たちのひそやかなドラマを、生徒は知らない。知らないから、やがて「賀状来ずなりし教へ子今いづこ」などということになりがちだ。私もこの正月に、恩師から先に賀状をいただくという大失態をやらかしてしまった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


March 0431998

 なんとよく泣くよ今年の卒業子

                           森田 峠

年にも、集団としての個性がある。なんとなく覇気に欠けるとか、派手好きの子が集まっているとか……。だから、それぞれの学年によって卒業式での雰囲気も異なる。教師である作者は、思いがけずにもよく泣く卒業生たちに、半ば苦笑しながらも、他方では愛情の深まりを感じている。たぶん、日頃は涙とはおよそ無縁の活発な学年だったのだろう。こういう句を読むと、誰もが自分の卒業時を思いだすにちがいない。私の高校卒業時は、涙など一切なかった。はじまると間もなく来賓の都会議員の挨拶があり、途中で誰かがいきなり「あーあ」と一声叫んだのだった。一瞬会場は真っ白になり、後は気まずい感じのままに式が終った。こんなふうでは、涙なんか流せっこない。叫んだのが誰かは知らないが、高校生にも共産党員がいた時代であり、ましてや基地の街にあった高校だ。保守系の議員の挨拶に反発しての「あーあ」だったのだろう。あれからもう四十年余の月日が流れた。当時当惑されたであろうC組担任のT先生は、矍鑠としてご健在である。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


July 2171998

 扇風機蔵書を吹けり司書居らず

                           森田 峠

った一人の司書がとりしきっている小さな図書館。作者は高校教師だったから、学校の図書室だろう。1981〔昭和56〕年の作品ということからしても、冷房装置のない図書館は他には考えられない。そんな暑い図書室に来る生徒はめったにいないので、いつも閑散としている。作者が本を借りようとしてカウンターに行ったところ、司書用の扇風機がまわっているだけで、姿が見えない。部屋にいるのが教師なので、彼は安心して少しの間席を外したのだろう。カウンターの背後には辞典や画集などの貴重本が並べられており、涼しげに扇風機からの風に吹かれている。窓の外からは、練習に励む野球部員たちの声…。学校の夏の図書室の雰囲気は、だいたいこういったものである。昔の公共図書館も同様で、この季節はあまり人気がなかった。ところが、最近の町の図書館は様相が一変してしまい、大にぎわいだ。ほどよく冷房はきいているし、おまけに静かだから、大いに混み合いだした。なかには昼寝の場所と心得ているとしか思えない人もいて、なかなかテーブルがあかないのには困る。はやく完璧な電子図書館ができてくれないものかと、勤勉な〔笑〕私が切に願うのがこの時期である。『逆瀬川』〔1986〕所収。(清水哲男)


December 08121998

 短日や塀乗り越ゆる生徒また

                           森田 峠

者は高校教師だったから「教室の寒く生徒ら笑はざり」など、生徒との交流を書いた作品が多い。この句は、下校時間が過ぎて校門が閉められた後の情景だろう。職員室から見ていると、何人かの生徒がバラバラッと塀を乗り越えていく様子が目に入った。短日ゆえに、彼らはほとんど影でしかない。が、教師には「また、アイツらだな」と、すぐにわかってしまうのである。規則破りの常連である彼らに、しかし作者は親愛の情すら抱いているようだ。いたずらっ子ほど記憶に残るとは、どんな教師も述懐するところだが、その現場においても「たまらない奴らだ」と思いながらも、句のように既に半分は許してしまっている。昭和28年(1953)の句。思い返せば、この年の私はまさに高校一年生で、しばしば塀を乗り越えるほうの生徒だった。が、句とは事情が大きく異なっていて、まだ明るい時間に学校から脱出していた。というのも、生徒会が開かれる日は、成立定数を確保するために、あろうことか生徒会の役員が自治会活動に不熱心な生徒を帰さないようにと、校門を閉じるのが常だったからである。校門を閉めたメンバーのほとんどは「立川高校共産党細胞」に所属していたと思われる。「反米愛国」が、我が生徒会の基調であった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


May 0551999

 力ある風出てきたり鯉幟

                           矢島渚男

田峠の初期に「寄らで過ぐ港々の鯉のぼり」があって、これらの鯉幟は海風を受けているので、へんぽんと翻っている様子がよくうかがえる。が、内陸部の鯉幟は、なかなかこうはいかない。地方差もあるが、春の強風が途絶える時期が、ちょうど鯉幟をあげる時期だからだ。たいていの時間は、だらりとだらしなくぶら下がっていることが多い。そこで、あげた家ではいまかいまかと「力ある風」を期待することになる。その期待の風がようやく出てきたぞと、作者の気持ちが沸き立ったところだろう。シンプルにして、「力」強い仕上がりだ。鯉幟といえば、「甍の波と雲の波、重なる波の中空に」ではじまる子供の歌を思いだす。いきなり「甍(いらか)」と子供には難しい言葉があって、大人になるまで「いらか」ではなく「いなか」だと思っていた人も少なくない。「我が身に似よや男子(おのこご)と、高く泳ぐや鯉のぼり」と、歌は終わる。封建制との関連云々は別にしても、なんというシーチョー(おお、懐しい流行語よ)な文句だろう。ほとんどの時間は、ダラーンとしているくせに……。ひるがえって、鯉幟の俳句を見てもシーチョーな光景がほとんどで、掲句のように静から動への期待を描いた作品は珍しいのだ。俳句の鯉幟は今日も、みんな強気に高く泳いでいる。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


August 0581999

 小流れに指しびれけりお花畑

                           森田 峠

語のなかには、時々首をかしげたくなるものがある。「お花畑」もその一つで、季節は夏。単に「花畑」というと秋の季語になるから、ややこしい。「お花畑」は、夏になって高山植物がどっと花を開いた状態を指すのであって、平地の花畑ではないのだ。平井照敏氏の『新歳時記』(河出文庫版)によれば、本意は「登山が盛んになってからの季題で、「お」をつけて、その清浄美をあらわす」とある。そうかなあ。「お」一文字に、そんな力があるかなあ。と、首をかしげていても仕方がないが、このことがわかって、はじめて「小流れ」の冷たさの意味が理解できる。そういえば、もう二十年ほども前になるか。一度だけ、信州は白馬岳で「お花畑」とは露知らずに「お花畑」を見たことがある。カンカン照りだったけれど、さほど暑さも感じられず、さまざまな色に咲き揃った花々の姿は見事に美しかった。天に近い。そんな実感だった。ペンションが流行しはじめたころで、脱サラ(これまた流行)の人がやっているところで宿泊した。食堂に流れていた音楽は、クラシック。私も若かったが、世の中も十分に若かった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


October 18101999

 鴨すべて東へ泳ぐ何かある

                           森田 峠

べての鴨が、いっせいに同じ方角に泳いでいく。そういうことが、実際にあるのだろうか。あるとしたら壮観でもあるし、たしかに「何かある」と思ってしまうだろう。群集心理。野次馬根性。はたまた付和雷同性。そうした人間臭さを、鴨にも感じているところが面白い。作者には、この句以前に「ねんねこの主婦ら集まる何かある」があり、これまた面白い。こちらのほうは、たしかに「何かある」から集まっているのだ。その「何か」が知りたい。作者は「鴨」よりも「主婦」よりも、このときに野次馬根性を発揮している。両句のミソは「何かある」だが、この表現は作者の特許言語みたいなものだろう。誰にでも使える言葉であり、使いたい誘惑にもかられるが、使って句作してみると、なんだか自分の句ではないような気がしてしまう。俳句では他にも、こんな特許言葉が多い。たまに起きる盗作問題も、多くは特許言語に関わってのそれだ。なお、単に「鴨」といえば冬の季語。この時季には「初鴨」や「鴨来る」が用意されている。そんなに厳密に分類するのも可笑しな話だけれど、一応そういうことになっているので。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)


March 1432000

 卒業式辞雪ちらつけり今やめり

                           森田 峠

の女生徒の絵について、北国の読者からメールをいただきました。「当地では、卒業式と桜の花の色はあまり結びつきません。きのうも、とても『春の雪』とはいえぬ積雪がありました」。そういえば、そうですね。東京あたりでも、中学の卒業式のころに絵のような桜が咲く(高校だと三月初旬の式が多いので、桜とは無縁)のは、十年に一度くらいでしょうか。北国のみなさんは、卒業と雪とがむすびつくのは普通のことでしょう。ところで、作者は作句当時、尼崎市立尼崎高校の国語科の先生でした。関西です。彼の地の三月の雪は珍しく、式辞の間にも季節外れの雪が気になって、ちらちらと窓の外を見やっているという情景。先生としては、卒業式は毎春の決まりきった行事ですから、熱心に式辞に聞き入るというようなこともないわけです。そんな気分の延長されてできたような句が「卒業子ならびて泣くに教師笑む」。もとより慈顔をもっての微笑でしょうが、卒業に対する教師の思いと生徒のそれとは、どこかで微妙に食い違っている……。教師になったことがないのでわかりませんが、そんなふうに読めてしまいました。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


July 2072000

 登山杖どちらの店のものなるや

                           森田 峠

名な山の登山口には、山の用品や弁当や土産物などを売る店がひしめいている。東京で言えば、高尾山のようなところにも、そんな店が何軒か庇をつらねている。言われてみると、なるほど、店の外に出して売られている杖は、必ずどちらかに雪崩れていて、どちらの店のものか、買う身としては困惑する。店の人にはすぐわかるのだろうが、あれは親切な置き方じゃない。「峠」という名の俳人だって(笑)、戸惑うくらいなのだから……。私は山の中の育ちだから、まさか高尾山程度の山では、杖は求めない。あんな山にケーブルカーまで走らせているのは、どういう了見からなのか。買ったのは、二度の富士登山のときくらいだ。富士に「二度登る馬鹿」と言われるが、二度とも雪崩れているなかから買った。といって、重装備で行く「登山」の経験はない。かつての山の子としては、せっかく平地で暮らしているのに、何を好んで険しい山に登るのかがわからなかった。「娘さんよく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ」など、つまらない見えっ張りの都会男の歌だと思っていた。いまでは少し考えを改めたけれど、なけなしの体力を消耗してまで山に登ろうとは思わない。もう二度と、掲句のような場面に遭遇することもないだろう。ちなみに、アメリカの有名なスポーツ誌「Sports Illustrated」の創刊号の表紙は「登山」シーンだったという。百年ほど前のこと。ついでに、日本のまあまあ有名な「Number」のそれは「重量挙げ」だった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


December 12122000

 生徒らに知られたくなし負真綿

                           森田 峠

句を読んでいると、いまでは失われてしまった風習やファッション、生活用品などに出会って、しばし懐しさに浸るということが起きる。防寒衣である「負真綿(おいまわた)」も、その一つだ。単に真綿を薄く伸ばして下着と上着の間の背の部分に貼り付けるだけのものだが、これが実に暖かい。子供のころに、体験した。主として年寄りが愛用した関係上、ファッション的に言えば「ダサい」というわけで、作者もそこに気を使っている。教師も、大変だ。気づかれぬように、きっと真綿を可能なかぎりに薄く伸ばすのに努力したにちがいない。そんなことも思われて、微苦笑を誘われる。ひところ、「ステテコ」をはく男はダサいなんてことも言われましたね。いまでも、そうなのかしらん(笑)。昔からダンディズムを貫くには、やせ我慢を必要とした。そして、ダンディズムにこだわっても馬鹿みたいに思える年齢になってくると、やせ我慢の壁が一挙に崩れ落ちる。男も女も、まさに崩落、墜落状態。寒ければ着膨れし、暑ければ委細構わず裸になる。「負真綿」なんぞよりも、もっと凄いのが「背布団(せなぶとん)」だった。小さな蒲団に紐をつけて背負ったのだから、ファッション性もへったくれもあるものかという代物だ。「腰蒲団」というのもあったらしいが、こちらは女性用だろう。もっとも、昔はどこにいても現在よりずっと寒かった。そういうことだから、「ダサさ」加減も少々割り引いて読む必要はある。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


January 1612001

 わが過去に角帽ありてスキーなし

                           森田 峠

さに自画像を見る思い。といっても、作者は学徒動員世代だから「スキーなし」の環境は私などの世代とは大いに異なる。戦争中で、スキーどころではなかったのだ。私が大学に入ったのは、戦後も十三年目の1958年。しかし日本全体はまだ貧乏だったので、スキーに行けたのは、かなり裕福な家庭の子女だけだった。大学には一応戦前からのスキー部はあったが、部員もちらほら。同級生に羽振りのよかった材木屋の息子がいて、高校時代からスキーをやっていたという理由だけから、いきなりジャンプをやれと先輩から命令され、冗談じゃねえと止めてしまった。入学すると、とりあえずは嬉しそうに「角帽」をかぶった時代で、そんな戦前の気風をかろうじて体験できた世代に属している。だから、表層的な意味でしかないけれど、作者の気持ちとは共通するものがある。そんなこんなで、ついにちゃんとしたスキーをはかないままに、わが人生は終わりとなるだろう。べつに、口惜しくはない。ただ、もう一度はいて滑ってみたいのは、子供の頃に遊んだ「山スキー」だ。太い孟宗竹を適当な長さに切り、囲炉裏の火に焙って先端を曲げただけの単純なものである。ストックがないので、曲げた先端部分をつかんで滑る。雪ぞりの底につける滑り板の先端部分を、もう少し長くした形状だった。深い雪で休校になると、朝から夕暮れまで、飽きもせずに滑った。むろん何度も転倒するので、服はびしょびしょだ。服などは詰襟一つしかないから、夜乾かすのに母が大変苦労したようである。乾かなければ、明日学校に着ていくものがないのだから……。揚句の受け止め方には、いろいろあるはずだが、その受け止めようにくっきりと表れるのは、世代の差というものであるだろう。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


December 23122002

 羊飼ぞろぞろしつゝ聖夜劇

                           森田 峠

年期が戦争中だったので、キリストやサンタクロースのことを知ったのは、小学校六年生くらいになってからだった。新しく着任された校長先生が熱心なクリスチャンで、その方からはじめて教えられた。草深い田舎の小学校。我ら洟垂れ小僧に、先生はある日突然、クリスマス・パーティの開催を提案された。上級生だけの会だったと思う。見たことも聞いたこともないクリスマス・ツリーなるものを何とか作りあげ、ちょっとした寸劇をやった記憶は鮮明だ。句のように、主役級からこぼれ落ちた残りの連中は「ぞろぞろしつゝ」羊飼になった。おお、民主ニッポンよ。筋書きにあったのはそこまでだが、寸劇が終わるとすぐに、洟垂れ小僧、いや「羊飼」一同があっと驚くパフォーマンスが用意されていたのだった。サンタクロースの登場である。いまどきの子供とは違って、なにしろサンタクロースのイメージすら皆無だったから、驚いたのナンのって。人間というよりも、ケダモノが教室に乱入してきたのかと、度肝を抜かれて身がこわばった。むろん、校長先生の扮装だったのだが、あんなにびっくりしたことは、現在に至るもそんなにはない。そしてそれから、呆然とする羊飼たち一人ひとりに配られたのは、忘れもしない、マーブル状のチョコレートで、これまた生まれて初めて目にしたのである。「食べてごらん」。先生にうながされて、おずおずと口にしたチョコレートの美味しかったこと。でも、二粒か三粒食べただけで、我ら羊飼はみな、それ以上は決して食べようとはしなかった。誰もが、こんなに美味しいものを独り占めにする気にはなれなかったからだ。家に帰って、父母や弟妹といっしょに食べたいと思ったからだ。チョコを大事にチリ紙に包み、しっかりとポケットに入れて夕闇迫る校庭に出てみると、白いものが舞い降りていた。おお、ホワイト・クリスマス。これから、ほとんどが一里の道を歩いて帰るのである。掲句を読んで思い出した、遠い日のちっちゃなお話です。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


January 1212005

 学校に畳の間あり歌留多かな

                           森田 峠

語は「歌留多(かるた)」で新年。歌留多にもいろいろあるが、この場合は小倉百人一首だろう。掲句を読んで、そういえば「学校に畳の間」があったようなと思い出した。「ような」と曖昧なのは、学校の畳の間といえば女の子たち専用の裁縫室というところだったので、廊下の窓越しにちらりと見た程度だからだ。転校が多かったから、どこの学校の裁縫室かも覚えていない。でも、確かにあったような……。国語の授業の一貫だろうか、それともクラブ活動なのか。歌留多には畳が必要だから、当然のように裁縫室が使われているのだ。裁縫用の低くて長い机は隅のほうに片付けられ、花びらを散らしたように歌留多が撒かれ、このときばかりは男子生徒も裁縫室にいるのだろう。普段とは違う使われ方をする教室は、文化祭などでもそうだけれど、とても新鮮な感じがする。ましてやこのときは歌留多会なので、晴れ着の生徒はいないにしても、おのずから華やいだ雰囲気となり、学校ならではの正月風景となる。「歌留多かな」の「かな」には、一般の人には目に触れない正月風景を押し出す効果もあると感じた。さきごろ、今年の全国競技歌留多クイーンの座を中学生が獲得して話題になった。一般的には若い人に見向きもされない歌留多が、こうしたトピックからでも注目されるようになればいいなと思ったことである。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)


February 1122006

 机低過ぎ高過ぎて大試験

                           森田 峠

語は「大試験」で春。戦前は「大試験」というと、富安風生の「穂積文法最も苦手大試験」のように、学年試験や卒業試験のことだった。ちなみに「小試験」は学期末試験を言った。掲句の作者は戦後の高校教師だったから、句の情景は入学試験である。いつのころからか卒業試験は形骸化してしまった(ような)ので、現代で「大」の実感を伴うのは入学試験をおいて他にないだろう。作者は試験監督として教室を見渡しているわけだが、「机低過ぎ高過ぎて」とは言い得て妙だ。普段の教室ならば、背の高い順に後方から並ぶとか、生徒たちは何らかの規則的な配列で着席するので気にならないが、入試では受験番号順の着席になるから、背丈の凸凹が目立つのである。試験は試験の句でも、監督者の視点はやはり受験生のそれとはずいぶんと違っていて興味深い。ということは「大試験」の「大」の意識やニュアンスも、立場によって相当な差があることになる。受験生の「大」は合否の方向に絞られるが、監督者のそれは合否などは二の次で、とにかくトラブル無しに試験が終了することにあるということだ。いまの時期は、大試験の真っ最中。今年はとくに寒さが厳しいし、インフルエンザの流行もあって、受験生とその家族は大変だろう。月並みに、健闘を祈るとしか言いようがないけれど。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


August 0982009

 放課後の暗さ台風来つつあり

                           森田 峠

者は学校の先生でしょうか。教室の見回りに歩いているのかもしれません。あるいは何か、授業をした時の忘れものを取りにもどったのでしょう。「放課後」「暗さ」「台風」の3語が、みごとにつりあって、ひとつの世界を作り出しています。湿度の多い暗闇が、句を満遍なく満たしています。教室の引き戸を開けて中に入り、外を見れば、窓のすぐ近くにまで木が鬱蒼と茂っています。その向こうの空には、濃い色の雲が性急に動いているようです。この句に惹かれるのは、おそらく読者一人一人が、昔の学生時代を思い出すからなのです。昼間の、明るい教室に飛び交っていた友人たちの声や、輝かしいまなざしが、ふっと消えたあとの暗闇。一日の終わりとしての暗闇でもあり、学校を卒業したあとの日々をも示す、暗闇でもあるようです。句はひたすらに、事象をあるがままに描きだします。学生が去ったあとを訪れようとしている遠い台風までにも、やさしく懐かしい思いが寄り添います。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


July 3072012

 人文字を練習中の日射病

                           山本紫黄

射病という言葉だけは子どもの頃から知っていたが、本当に日射病で倒れる人がいることを知ったのは、高校生になってからだった。朝礼の時間に、ときどき女生徒がうずくまったりして「走り寄りしは女教師や日射病」(森田峠)ということになった。ちょうどそういう年頃だったせいなのだろうが、太陽の力は凄いんだなと、妙な関心の仕方をしたのを覚えている。甲子園のスタンドなどでよく見かける「人文字」は、一糸乱れぬ連携が要求されるから、たった一人の動きがおかしくても、全体が崩れてしまう。つまり、日射病にやられた生徒がいれば、遠目からはすぐにわかるわけだ。作者には練習中だったのがまだしもという思いと、本番に向けて留意すべき事柄がまた一つ増えた思いとが交錯している。似たような光景を私は、甲子園の開会式本番で目撃したことがある。入場行進につづいて選手が整列しおわったときに、最前列に並んだ某高校のプラカードが突然ぐらりと大きく傾いた。すぐさま係員が飛んできて別の生徒と交代させたのだが、暑さと緊張ゆえのアクシデントだった。たしか荒木大輔が出場した年だったと思うが、あのとき倒れた女生徒は、毎夏どんな思いで甲子園大会を迎えているのだろうか。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 1552015

 いつまでも夕日沈まず行々子

                           森田 峠

ョウギョウシ、ギョウギョウシ、ケケシ、ケケシと鳴くので行々子と言われる。河川や湖沼の葦原などに生息する葭切にオオヨシキリとコヨシキリがある。このオオヨシキリの鳴き声がこれである。コヨシキリはピピ、ジジジと聞こえる。オスが高い葦の茎に直立した姿勢でとまり、橙赤色の口の中を見せてさえずっている。夏の日の中々沈み切らない夕まずめにいつまでも鳴き続けている。夏の日の長いこと。他に<歌うたひつヽ新妻や蒲団敷く><四戸あり住むは二戸のみ時鳥><少しづつかじるせんべい冬ごもり>など。「俳壇」(2014年11月号)所載。(藤嶋 務)




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