November 261997
焼芋を二つに折れば鼻熱し
吹田孤蓬
そのまんまの句。たしかに、焼芋は二つに折ってから食べる。折ると、湯気が鼻をつく。その一瞬をとらえた微笑ましい作品だ。いますぐに、焼芋を食べたくなった読者もいるのではないだろうか。私は、あまり食べない。ここ数年間は口にした覚えがない。なにせ戦後の食料不足時代に、芋ばかり食べていたので、どうしても当時のみじめな記憶が甦ってきて、食欲とは結びつきにくいからだ。最近、近くの武蔵野一中の創立五十周年記念スライドのためのシナリオを読んでいたら、弁当の中身は「芋だけだった」という記述に出会った。というわけで、わが世代は芋や南瓜には弱いのである。それと、焼芋を買って食べるという発想にもなじめない。とてつもない贅沢をするようで、後ろめたい思いがする。貧乏根性も、しっかり身についているらしい。(清水哲男)
November 251997
類焼の書肆より他に吾は知らず
森田 峠
いつもよく通る町の一角が火事になった。現場にさしかかると、何軒かの店が無惨に焼け落ちている。しかし、知っている店といえば書肆(書店)だけで、隣の店もその隣も、はてどんな店だったのか。作者は思い出せず、そのことに驚いている。火事でなくても、こういうことはしばしば経験する。新しい建物が建つと、以前はここにどんな建物があったのか、しばらく考え込んだりする。ことほどさように、人間の目は不確かなものだ。見ているつもりで、自分に必要な対象以外は、ほとんど何も見ていない。この句を読んで、私もよく出入りする本屋の隣の店が、何を商っているのかを知らないでいることに気がついた。話は変わるが、昔から「三の酉」まである年は火事が多いという。今年は、その年に当たっている。火の用心。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)
November 241997
街道に障子を閉めて紙一重
山口誓子
まさにこの通りの家が、昔は街道沿いに何軒もありました。障子の下のほうには、車の泥はねの痕跡があったりして……。夜間は雨戸を閉めておくのですが、昼間は障子一枚で街道をへだてているわけで、この句の「紙一重」は言いえて妙ですね。街道沿いとはいえ、いまのようにひっきりなしに車の往来がなかったころの光景です。障子の内側で暮らす人たちの生活ぶりまでが想像されて、懐しい感情を呼び醒される一句でした。障子といえば、私が子供だったころには、どこの子も「ちゃんと閉めなさい」と親から口喧しくいわれたものです。おかげでマナーが身についたせいか、いまだに宴席でトイレに立つときなど、障子の閉め具合が気になります。そんな習慣の機微を詠んだ句に、北野平八の「障子閉じられて間をおき隙閉まる」があります。これまた名句というべきでしょう。(清水哲男)
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