November 281997
ことごとく木を諳んじる時雨なり
穴井 太
冷たくて細かい雨が降りつづいている。その細かさは、一木一草をも逃さずに濡らしているという感じだ。あたかも時雨が、木々の名前をことごとく諳(そら)んじているかのようである。雨の擬人化は珍しい。逆の例では、うろ覚えで恐縮だが(したがって表記も間違っているかもしれないが)、佐藤春夫の詩にこんな一節があった。「泣き濡れた秋の女をしぐれだと私は思ふ……」。泣いている女の様子に時雨を感じているわけだが、この句の時雨擬人の性別は「男」だろう。それも「少年」に近い年齢だという気がする。『原郷樹林』(1991)所収。(清水哲男)
November 271997
冬の日の三時になりぬ早や悲し
高浜虚子
俳句で「冬の日」は「冬の一日」のこと。冬の太陽をいうこともあるが、そちらは「冬日」ということが多い。日照時間の短い「冬の日」。この時期の東京では、午後四時半くらいには暮れてしまう。したがって、三時はもう夕方の感じが濃くなる時間であり、風景は寂寥感につつまれてくる。昔の風景であれば、なおさらであったろう。句に数詞を折り込む名人としては蕪村を思い起こすが、この句でもまた「三時」が絶妙に利いている。「二時」では早すぎるし「四時」では遅い。ところで、今日の午後三時、あなたはどこで何をしている(していた)のでしょうか。(清水哲男)
November 261997
焼芋を二つに折れば鼻熱し
吹田孤蓬
そのまんまの句。たしかに、焼芋は二つに折ってから食べる。折ると、湯気が鼻をつく。その一瞬をとらえた微笑ましい作品だ。いますぐに、焼芋を食べたくなった読者もいるのではないだろうか。私は、あまり食べない。ここ数年間は口にした覚えがない。なにせ戦後の食料不足時代に、芋ばかり食べていたので、どうしても当時のみじめな記憶が甦ってきて、食欲とは結びつきにくいからだ。最近、近くの武蔵野一中の創立五十周年記念スライドのためのシナリオを読んでいたら、弁当の中身は「芋だけだった」という記述に出会った。というわけで、わが世代は芋や南瓜には弱いのである。それと、焼芋を買って食べるという発想にもなじめない。とてつもない贅沢をするようで、後ろめたい思いがする。貧乏根性も、しっかり身についているらしい。(清水哲男)
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