ノ杞z句

January 0211998

 初湯中黛ジユンの歌謡曲

                           京極杞陽

和44年の作。銭湯の初湯は江戸期から二日と決まっているが、これは元日の家庭での朝風呂だろう。機嫌よく口をついて出てきたのは、黛ジュンの歌謡曲だった。なぜ、歌謡曲なのか。もちろん、昨夜見たばかりの「紅白歌合戦」の余韻からである。曲目は「雲にのりたい」あたりだろう。作者の京極杞陽(本名・高光)は、明治41年に子爵の家の長男として生まれた。豊岡藩主十四代当主。つまり、世が世であればお殿様である。大正の大震災で家族全員を失うという非運に見舞われたが、血筋はあらそえないというべきか、どこかおっとりとした雰囲気の句の多い人だ。この句も名句とは言いがたいが、読者をホッとさせる暖かさがある。同じ初湯の句でも、小沢昭一の「まだ稼ぐのど温めん初湯かな」となると、少々せち辛い。殿様の呑気な句には負けている。『花の日に』(1971)所収。(清水哲男)


January 1911998

 膝掛と天眼鏡と広辞苑

                           京極杞陽

輩の読者は苦笑されるのではあるまいか。1975(昭和50)年の作だから、杞陽は六十代後半だった。私はまだなんとか五十代だけれど、膝掛はともかくとして天眼鏡は手放せないし、広辞苑も時々引いている。広辞苑とはかぎらないが、辞書の文字の小さいのにはマイってしまう。もっとマイるのは、緊急に辞書を引く必要が生じたときに、天眼鏡が見当たらないことだ。さっきまでここにあったのにと、焦れば焦るほどに発見が遅れてしまう。ときには稼働中のモニターに向けて天眼鏡を必要とするから、マイったではすまないこともある。そんなわけで、この句の切実さはよくわかる。同時に、活動性には無頓着になってしまった年齢の人々の、諦めの果ての呑気な境地みたいなものも……。誰も、自分の年齢以上の老いを体験することはできない。書きながら、思い出した。数年前に放送局のエレベーターで串田孫一さんにお会いして、思わずも「お元気そうですね」と声をかけたことがある。降りてからの串田さんのご挨拶は、こうだった。「君ねえ、七十を過ぎた人間が元気そうだと言われても、なんと返事をしていいのか、わからないじゃないか」。遺句集『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


February 2121998

 美しく木の芽の如くつつましく

                           京極杞陽

人の理想像を求めた句だろう。実像の写生だとすれば、かくのごとき女性と親しかった作者は羨ましいかぎりであるが……。「木の芽の如く」という比喩が印象的だ。木の芽そのものも初々しいが、この比喩を使った杞陽も実に初々しい。清潔な句だ。実はこの句は、戦前(1936年)のベルリンで詠まれている。というのも、当時若き日の杞陽はヨーロッパに遊学中で、日本への帰途ベルリンに立ち寄ったところ、たまたまベルリンに講演に来ていた高浜虚子歓迎の句会に出席することになり、そこで提出したのがこの句であった。虚子は大いにこの句が気に入り、後に「ホトトギス」(1937年12月号)に「伯林俳句会はたとひ一回きりで中絶してしまつたにしましても、此の一人の杞陽君を得たといふことだけでも意味の有ることであつたと思ひます」と書いているほどだ。以後、作者は虚子に傾倒していく。外国での虚子との偶然に近い出会いから、京極杞陽は本格的な俳人になったのである。その意味では、出世作というよりも運命的な句と言うほうが適切だろう。『くくたち上巻』(1946)所収。(清水哲男)


April 1841998

 シクラメンたばこを消して立つ女

                           京極杞陽

近はクリスマス頃に出回るので、シクラメンを冬の花と思っている人もいるようだが、本来は春の花だ。わが「むさしのエフエム」の窓辺でも、小さいながらいまを盛りと咲いている。句は、喫茶店の情景だろう。まだ人前で喫煙する女性が珍しかった時代(1941年・昭和16年)の句で、華麗なシクラメンとの取り合わせが、いかにも「大人の女」を連想させる。今風に言えば、美貌のキャリアウーマンが煙草を消してスッと席を立ったというところか。往年の人気雑誌「新青年」の小説の一シーンみたいでもある。いかにも格好がよろしい。ところで、喫煙の是非はおくとして、近頃は煙草を吸う若い女性が非常に目立つようになってきた。吸いながら、街頭を闊歩している。ひところのパリみたいだが、残念なことには、ほとんどの女性が煙草に似合っていない。吸い方がなってない。だから、みんな煙草に飢えたニコチン中毒患者のように見えてしまう。あの不格好な吸い方だけは、何とかならないものだろうか。『くくたち上巻』(1946)所収。(清水哲男)


May 0151998

 春風の日本に源氏物語

                           京極杞陽

集では、もう一句の「秋風の日本に平家物語」とセットで読ませるようになっている。どこか人をクッたような中身であり構成であるが、作られた年代が1954年であることを知ると、むしろ社会の流れに抗議する悲痛な魂の叫びであることがわかる。戦後も、まだ九年。私は高校二年生だった。何でもかでも「アメリカさん」でなくては夜も日も明けないような時代で、日本の古典なんぞは、まず真面目に読む気にはなれないというのが、多くの庶民の正直な気持ちだったろう。事実、たしかに私は高校で『源氏物語』を習った記憶はあるけれど、そんなものよりも英語が大事という雰囲気が圧倒的だった。だからこそ、逆にそんな風潮を苦々しく思っていた人もいたはずである。作者は一見ノンシャラン風に詠んでみせてはいるのだが、この句に「我が意を得た」人が確実に存在したことは間違いないと思われる。「反米愛国」は、かつての日本共産党のスローガンだけではなかったということだ。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


September 0191998

 電線のからみし足や震災忌

                           京極杞陽

れて落ちてきた電線が足にからまるという生々しい恐怖感。関東大震災から実に三十五年後(1958)にして、作者はようやくこのように詠むことができた。この句については「ホトトギス」同人の山田弘子の解説がある(京極杞陽句集『六の花』・ふらんす堂・1997)ので、以下、それに譲る。「大正一二年九月一日関東地方を襲った大震災で、京極高光(後の杞陽)の家屋敷は倒壊焼失し、只一人の姉を除き祖母、父母、弟妹ら家族の全員を喪うという悲運に遭遇した。学習院中等科三年、一五歳の時であった。火災に巻き込まれつつ逃げのび九死に一生を得た高光は、後日焼け落ちた玄関に正座のままこと切れていた老家僕の亡骸と対面したという。多感な青春時代に遭遇したこの悲運は、杞陽の人生観・死生観に生涯にわたり大きく影響を及ぼして行った筈である。杞陽を知る上で関東大震災は重要なキーワードの一つと言うことが出来る」。もとより杞陽にかぎらず、久保田万太郎など、関東大震災は多くの人々の生涯にわたる深い傷となって残った。そして阪神淡路大震災の傷跡は、いまに生々しい。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


September 2691998

 山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨

                           京極杞陽

じ秋に降る雨でも、その土地によって風情は違う。山陰は直撃は少ないにしても、台風の影響をとても受けやすい地方だから、作者が言うように「じやじやじやじや」と音立てて降ることが多い。とくにこの時期には、陽気とまではいかなくとも、気持ちよいくらいに「じやじやじやじや」と降る。かつてのヒット曲「湯の町エレジー」(舞台は伊豆だった)のように、しっとりと「どこまで時雨れゆく秋ぞ……」などと、情緒的にはいかないのである。けれども、こういうことは土地の人ではない誰かに言われてみないとわからないことで、山陰の人は、秋の「じやじやじやじや雨」が当たり前だと思っている。そこに、作者は気がついたわけだろう。その意味からすると、世の歳時記が「秋の雨」を季語として「秋雨はどこかうそ寒く」などと書いているのは気配り不足と言おうか、昔の京都中心の季節感にとらわれすぎている。あなたがお住まいの地方の秋の雨は、どんな感じで降るのでしょうか。私の暮らす東京では、うーむ、やはり京都と変わらない「しとしと雨」でしょうかね。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


January 1611999

 貧乏は幕末以来雪が降る

                           京極杞陽

る雪と貧乏との取り合わせは、人間の堪える姿勢に共感が得られることから、人気句が多い。ただし、同じ貧乏とはいえ、句のように「幕末以来慣れてるよ、平気だよ」と啖呵を切られると、少しく事情は異なってくる。昭和二十年代後半の作品だから、リアル・タイムで読んだ読者は、おそらくキョトンとしたことだろう。とにかく「幕末」が利いている。怒涛のようにアメリカ仕込みの民主主義の流れが日本中を席捲しているときに、まさか「幕末」もないであろうに……。作者は、世が世であれば、豊岡藩主十四代当主であった人だ(明治四十一年生まれ)。関東大震災のときに、一人の姉を残して家族全員と死別している。そして、敗戦。したがって、この「幕末」という言葉は付け焼き刃ではない。ちゃらちゃらとアメリカに靡いていく連中に、かなわぬながらも一矢報いたいという気持ちが、血筋につながる「幕末」という、時代に遅れた刃の切っ先を閃かしたのであろう。ただ同時期の句に、いかにも家庭的な「そろばんへ四男と五男雪道を」「英語へは二男三男雪道を」が残っている。「幕末以来」という貧乏のレベルのほどがわかる。当時の庶民は、子供をそろばんや英語に通わせる家庭をさして「貧乏」とは言わなかった。でも、この句はこれでいいのである。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


April 0541999

 娘泣きゆく花の人出とすれ違ひ

                           星野立子

の名所に向かって、ぞろぞろと歩いていく人々。作者も、そのなかの一人だ。そんな浮かれ気分の道を逆方向に歩いてくる人も、もちろんいる。ほとんどは、地元の人だろう。いちいち擦れ違う人を意識するわけでもないけれど、作者の目はふと、向こうから足早にやって来る若い女性の姿にとらえられてしまった。「泣きゆく」というのだから、嗚咽をこらえかねている様子を、娘は全身から発していた。思わず、顔を盗み見てしまう。一瞬の「すれ違ひ」に、人生の哀楽を対比させて詠みこんだ巧みな句だ。桜の句には、花そのもののありようよりも、こうした人事を詠んだ句のほうが多いかもしれない。純粋に「花を見て人を見ず」というわけには、なかなかいかないということだ。いや、花見は「人見」や「人込み」とごちゃまぜになっているからこそ、独特な雰囲気になるのだろう。こんな句もある。「うしろ手を組んで桜を見る女」(京極杞陽)。さきほどの娘とは違って、この女性の様子はたくましいかぎりだ。今風に言うと「キャリア・ウーマン」か。作者は、この発見ににんまりしている。たった十七文字で、見知らぬ女の全貌をとらえ切った気持ちになっている。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


June 1461999

 ハンカチは美しからずいい女

                           京極杞陽

からいわれているように、女は不可解である。女は、「男の考えていることは単純で、手に取るように分かる」と考えて男を軽視し、自分たちは、不可解であることをいいことに、好きなことをし放題である。だが、男は女が考えるほど単純ではない。……と、これは実はお茶の水女子大で哲学を講じている土屋賢二氏のエッセイのイントロダクションだ。全日空のPR誌「ていくおふ」(86号)に載っていた。私などは臆病だから、怖くてとてもこんなことは言えない。が、たまに遠回しにこんな句をあげることで、単純ではない男の証明を試みてみたくはなる。ただ、よくよく考えてみると、この句もまた逆に男の単純さを証明しているだけのものかもしれない。作者は女の持つ小物にいたるまで、「いい女」としての完全性を求めているわけで、この求め方そのものが単純にして現実離れしているからである。この要求に応えられる女がいるとすれば、彼女は絵空事の世界にしか存在できないだろう。作者が「いい女」にがっかりした気持ちはわかるが、絵空事を現実化したいという欲求を、男の世界では、幼稚にして単純と評価することになっている。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


October 15101999

 手でひねり点け手でひねり消す秋灯

                           京極杞陽

灯は「あきともし」と読ませる。そういえば、以前の電燈のスイッチは電球の真上についていた。いまでは部屋の片隅に取り付けてあるスイッチを押すか、ぶら下がっている紐を引っ張って点灯する様式のものが普通だ。いちいち電球の上に手を伸ばして「ひねり点け」るのが面倒なので、改良されたというわけである。作句年代を調べたら、1976年(昭和51年)とあった。そんなに昔のことでもない。それにしても、妙なことに感心する人もいたものだ。……と思うのは間違いで、この様式のスイッチだからこそ「秋灯」と結びつく句になったのである。そぞろ寒さが感じられる秋の夜に、電燈のぬくもりは心地よい。このスイッチでないと、秋灯の温度が体感できないということである。今様のスイッチは電燈から遠く離れていて、もはやこの情趣とは無縁になってしまった。道具ひとつの盛衰が私たちの情感に影響していると考えると、空恐ろしくなってくる。あと半世紀もたたないうちに、この句は図解でもしないと理解不能になるだろう。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


March 0232000

 ミユンヘンの木の芽の頃の雨の写真

                           京極杞陽

なる観光写真というのでもない。京極杞陽は、昭和十年(1935)から一年間、ヨーロッパに遊学している。日本への帰途、たまたま立ち寄ったベルリンで高浜虚子の講演を聞き、翌日開かれた日本人会による虚子歓迎句会にも出席。それが虚子との運命的な出会いとなった。作者はいま、その当時の写真に見入っている。早春のミュンヘンは、まだ日本よりも相当に寒い。しかも、雨が降っている。なつかしく眺めながら、撮影当時には気にもしていなかった雨に濡れた木の芽に視線がいき、そこから街全体のたたずまいや音や香りを思い出している。写された人物や背景の建物よりも、いまとなれば、ついでに写りこんでいる木の芽が、いちばん雄弁にミュンヘンを物語っているということだろう。こういうことは、よくある。記録は、閲覧するときの環境に応じて、いろいろに姿を変える。意味あいを変える。だから、あらゆる記録にはクズなどない。写りがよくないからと、ポイポイ写真を捨ててしまう女性がいるけれど、もったいないかぎりである。『くくたち・下巻』(1977)。(清水哲男)


September 2492000

 邯鄲に美しき客あれば足る

                           京極杞陽

鄲(かんたん)の鳴き声は、ル、ル、ルと夢のように美しい。昨今、各地で邯鄲を聞く会が開かれるのも宜なるかな。句の言うように、加えて「美しき客」があり座敷が匂い立てば、何の不足もない。秋の夜の至福の時である。このときに「美しき客」とは、必ずしも美貌の女性でなくともよいだろう。肝胆相照らし、しかし、互いに礼節はわきまえる間柄の男であれば、やはり「美しき客」である。いずれにせよ、「美しき客」がなおいっそう美しいのは、やがては座敷から去ってしまう人だからだ。楽しき語らいが、夢のように消えてしまうからである。邯鄲の美しい鳴き声も、また消えてゆく。「足る」は寸刻。だから「足る」のであり、それでよい。中国に「邯鄲の夢(「邯鄲の枕」とも)」の故事があって、「邯鄲」の虫の名は、ここに発する。掲句もこの故事を、下敷きにしていると思われる。「[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事)。 人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ」(『広辞苑』第五版)。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


May 1552001

 明易し姉のくらしも略わかり

                           京極杞陽

さしぶりに「姉」と、つもる話をした。あれやこれやととりとめもない話をしているうちに、いつしか夜がしらじらと明けそめてきた。午前四時過ぎだ。「ああ、もうこんな時間……」と、弟は姉を寝所へとうながしたところだろう。姉の暮らしぶりが、どうなのか。日頃から気になってはいたのだけれど、ちらりと接したときに単刀直入に聞ける話ではない。姉の暮らしを聞くことは、つまりは彼女の連れ合いの状況を聞くことになるからだ。いかな血をわけた姉弟といえ、いや、だからこそ、なかなか踏み込めない領域である。この場合のようにじっくりと話す機会が訪れても、問わず語りのようにしてようやく、なんとなくわかった(「略わかり」)ということだろう。なんとなくわかった姉の生活に、作者はひとまずホッとしている。そんな微妙な安堵感が、句からにじみ出ている。本当は、もう少し聞きたかった。「明易し(あけやすし)」には、そうした残念の気持ちも含まれていようが、しかし、いくら聞いてもキリがないにはちがいない。潮時の気持ちもあって、作者は明るくなってきた窓を見つめながら、自分に多少とも安堵の念があることを確認して安堵している。杞陽は関東大震災で、この姉を除いて家族全員と死別した人だ。なまじな「姉思い」ではないはずだが、しかし互いに世間の人となった以上は、姉弟の話もかくのごとくに厄介であり、すなわち大人になるとはこういうことを言うのでもある。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


June 2962001

 裸子も古めかしくてこの辺り

                           京極杞陽

語は「裸子(はだかご)」で、夏。1964年(昭和三十九年)、東京オリンピックの年の作品だ。一般の家庭にはまだ冷房が普及していなかったので、ちっちゃな子はみんな、それ以前と同じように、裸(同然)で夏の昼間を過ごしたものだ。ああ、懐かしき「金太郎の腹掛け」よ。掲句が面白いのは、子供の裸の姿にも「古めかしく」感じられる何かがあると、ストレートに披歴しているところだ。よく言う「田舎くささ」に通じる感覚だろう。「この辺り」がどのあたりなのかは知らないけれど、その土地の「古めかしさ」を「裸子」にまで見て取り、しかも句に仕立て上げた感覚は鋭い。リアリストの目が光っている。誤解のないように述べておけば、むろん作者はここで微笑しているのである。大人の(男の)社会では、しばしば比喩的に「裸のつきあい」などと言って、お互いの衣装や殻を脱ぎ捨てたコミュニケーションこそ最上と位置づけたりする。だが、無心に近い「裸子」にして、既にこのような古さがあるわけだ。裸になってもなお脱げない根源的な意匠の存在を指し示している意味でも、この句は考えるに値するだろう。いわば無心のままにまとってしまった意匠は、ついに脱ぐことができない。私はこの条件を、人間の脱しきれぬそれとしてカウントせざるを得ないできた。『花の日に』(1971)所収。(清水哲男)


September 3092001

 すだちしぼる手許や阿波の女なる

                           京極杞陽

語は「すだち(酢橘)」で秋。昔から、阿波徳島の名産だ。物の本には「果汁は多く酸味が強いが、多種類の酸性アミノ酸を含むために特有の風味と芳香があり、酢として珍重される。季節感のある果物の一つとして風味を尊び、緑果のうちに利用され、焼きマツタケやシイタケなどにはふさわしく、焼き魚、煮物、刺身、吸い物、湯豆腐など和食にあう。ブランデーや紅茶などにも調和する。8月末から10月にかけて出荷が多い。(飯塚宗夫)」とある。私の祖父は本場徳島の男だったが、晩年に暮らした大阪で「すだち」を食膳に上げていた記憶はない。容易には、手に入らなかったからだろう。現在では、それこそ大阪にでも東京にでも全国的に出荷されている「すだち」は、掲句が作られた三十年前くらいだと、なかなかお目にかかれぬ果実であった。この背景を知らないと、この句の味はわからない。困ったものだが、これも俳句の因果なところ。で、この背景を知ってしまえば、句意は明瞭となる。どこぞの料亭か小料理屋で、こともなげに「すだち」をしぼる女性がいた。「徳島の出だね、さすがだねえ」と作者は話しかけ、案の定だったと言ったに過ぎない。でもね。私も放送のゲストのかすかな訛りから、出身地を嗅ぎ当てたくなったりする。それが何だと言われても困るけれど、そんなひとりよがりの得意や楽しみが、誰にでも一つや二つはあるかと思って、この句を掲載した次第。湯豆腐が食べたくなった。『露地の月』(1977)所収。(清水哲男)


December 17122001

 足袋の持つ演劇的な要素かな

                           京極杞陽

語は「足袋(たび)」で冬。女性用は白足袋、男性用は紺色ないしは黒色で、礼装用は男女ともに白足袋である。作者がどんな場面でこう感じたのかは知らねども、言われてみれば、なるほどと得心がいった。たしかに足袋は靴下などよりも、よほど芝居がかって見える。1968年の作だから、もはや足袋をはく人も少なくなっていたころなので、なおさらだ。もっとも作者は、世が世であれば豊岡藩(兵庫県)のお殿様となったはずの人ゆえ、足袋には一般人よりも縁は深かったにはちがいないが……。したがって「演劇的な要素」があることにも、よほど敏感だったのだろう。戦後の吉田茂首相の白足袋姿は有名だったが、彼もまたそこらへんの事情を承知しての演技だったのだろうか。それにしても、「演劇的な要素」なる観念語を無造作に句に放り込んだ(と見えるように、故意に仕掛けた)手法は面白い。作者が虚子の弟子であることを知れば、ますます面白い。句の発想を得た具体的なシーンを写生して上手に詠めば、句意としてはほぼ同意の作品ができるはずだ。が、作者はあえてそうしなかった。たぶん「ハイクハイクした句」に、飽き飽きしていたのだと思う。すなわち裏をかえせば、この句こそが、実は足袋なんかよりもよほど「演劇的な要素」に満ちているの「かな」(笑)。でも、たまには精神衛生上、こういう句もよい。気に入っちゃった。『露地の月』(1977)所収。(清水哲男)


June 1862004

 アイスクリームおいしくポプラうつくしく

                           京極杞陽

語は「アイスクリーム(氷菓)」で夏。作者は京極子爵家の嫡流で、世が世であればお殿様であった。だからかどうなのか、この人の多くの句にはおっとりとしたところがある。一方で庶民の文芸である俳句は、技術的にはかなりトリッキーであり抜け目がない。生き馬の目を抜くような企みがある。おっとりと構えていると、置いていかれてしまいそうだ。だが、作者はそれを十分に承知の上で、終生さして俳句技術にとらわれることなく、おっとりを貫き通した俳人である。それも俳句様式への反逆というのではなく、ごく自然な気持ちで詠んでいるうちに、おのずとスタイルが定まったというふうだ。掲句などは典型で、どこにも企みは見られない。小学生の句かと見まがうほどに素直な詠みぶりだが、しかしやはり大人ならではの味がする。「アイスクリームおいしく」までは小学生でも、ポプラへと目を移す余裕は子供にはないからだ。しかも「おいしく」「うつくしく」と重ねて、アイスクリームとポプラがお互いを引き立て合っている。相乗効果で、ますます「おいしく」「うつくしく」感じられてくる。まことにおいしそうで美しそうではないか。こうしたいわば生の言葉を句に落ち着かせるためには、技術云々ではなくて、まずは作者の本心が生でなければ不可能だろう。世辞や社交辞令ではない本当の気持ちがなければ、生の言葉は浮いてしまう。腰がふらついてしまう。素材対象への素直で自然な没入。悲しいかな、私などにはそれがなかなかできないから、怖くて生の言葉は使えない。掲句を見つめていて、そういうことがよくわかった。『新俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0472005

 大衆にちがひなきわれビールのむ

                           京極杞陽

とより私もそうだが、たいていの人はこうした感慨を抱くことはない。いや、感慨以前の問題として、あらためて自分が「大衆」の一員であると強く意識させられることも、滅多にないだろう。しかし、世の中には少数ではあるが、作者のような人もいたわけだし、いまも何処かにはいる。以下の作者略歴(記述・山田弘子)が、そのまま句の解釈につながってゆく。京極杞陽(きょうごく・きよう)。「明治41年2月20日、東京市本所に、父高義(子爵)母鉚の長男として誕生。本名高光。豊岡藩主十四代当主(子爵)。大正9年学習院中等科に入学。大正12年9月、関東大震災により生家焼失、一人の姉を残し家族全員と死別。昭和3年東北帝大文学部に入るも一年で京都帝大文学部に移る。昭和5年東京帝大文学部倫理科に入学。昭和8年4月、大和郡山藩主(伯爵)柳沢保承長女昭子と結婚。昭和9年東京帝大卒業。11月、長男高忠誕生。昭和10年〜11年ヨーロッパに遊学。昭和11年4月渡欧中の高浜虚子歓迎のベルリン日本人会の句会で虚子と出会い生涯の師弟関係が生まれる。昭和12年宮内省式部官として勤務。11月「ホトトギス」初巻頭。昭和13年高浜年尾発行編「俳諧」に加わる。1月次男高晴誕生。(中略)。昭和18年2月五男高幸誕生。11月家族を郷里豊岡に疎開させ単身東京に残る。(中略)。昭和21年宮内省退職。昭和22年4月『くくたち・下巻』刊。5月新憲法により貴族院議員の資格を失う。11月山陰行幸の昭和天皇に拝謁。……」。掲句は、この後に生まれたのだろう。人は親を選べない。『俳句歳時記・夏の部』(1955)所載。(清水哲男)


July 2772007

 一瀑を秘めて林相よかりけり

                           京極杞陽

えない滝を詠んでいる。目の前に林が広がる。滝音でもするのか、それとも滝はおそらくあると作者は推測しているのか。五感を通して直接感受したことや、感覚を通しての推測ならば、この「秘めて」は「写生」から逸脱しないが、その林の中に滝が存在するという事実を知識として持っているということだと理屈の勝った句になる。この「秘めて」は前二者のどちらかにとりたい。林相(りんそう)とは聞きなれない言葉だ。あるいは専門用語か。それにしても林の美しさを言うのに実に的確な言葉ではある。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)笛を吹く男の姿に見惚れる感覚と林の姿に美しさを感じる感覚はどこか似ている。三十数年前大学受験の折に農学部林学科というのを受けたことがある。獣医学科だの農芸化学科だのの農学部の他の学科よりは競争率が低かったのと、「林は国策の根幹である」だったか「林は地球の縮図である」だったかの言葉をどこかで見て興味を持っていたせいだ。そのときのこの学科は競争率1.8倍だったが、見事に落ちてしまった。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 2862009

 蠅とんでくるや箪笥の角よけて

                           京極杞陽

語は「蝿」、夏です。そう言えば昔は、蝿と共に生きていたなあと思い出します。飴色の蝿取紙は、いつも部屋の電気のスイッチの紐に結ばれていて、吹く風に優雅に揺れていました。新しいものと取り替えるときに、要領が悪くて服にべたりとついてしまうこともありました。そんな経験、もうすることはないのだなと思えば、妙な寂しささえ感じます。テレビでたまに、顔に何匹もの蝿をたからせて平然と遊んでいるよその国の子供を見るにつけ、あんなふうに自分もあったのだと、あらためて思い出しもするわけです。句は、そんな蝿の飛んでいるところを目で追っています。勢いよく飛んできた蝿が、箪笥の角にぶつかる寸前に身をよけて、別方向へ飛んでゆきます。蝿にも立派な目があるのだから、当たり前といえばあたりまえではありますが、「よけて」の一語が、ひそやかに身を斜めに傾ける人の姿と、重なってきます。蝿というもの、どんな意識を持って、どこまでこの世をわかって飛んでいるのかと、つい余計なことを考えてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


January 1412012

 智慧の糸もつるゝ勿かれ大試験

                           京極昭子

試験は、進級試験、卒業試験のことを言い、本来春季なのだが、今は一月第二の土日が大学入試センター試験、本格的な入学試験シーズンの始まりである。そんな時、「花鳥諷詠」(2012年1月号)に、京極杞陽夫人、昭子についての寄稿(田丸千種氏)があり、その中に、母ならではの句、としてこの句が掲載されていた。頑張れ頑張れと、お尻を叩くのでもなく、やみくもに心配するのでもない母。智恵の糸がもつれないように、というこの言葉に惹かれ、春を待たずに書くこととした。時間をかけて頭の中に紡いだ智恵の糸を一本一本たぐり寄せ、それをゆっくりと織ってゆく、考える、とはまさにそういうことだろう。もつれかけても必ずほぐれるから、焦ってはいけない、諦めてはいけない、見切ってはいけない、言葉にすると押しつけがましくもなるあれこれが、こう詠まれるとすっと入る。妻昭子を杞陽は〈妻いつもわれに幼し吹雪く夜も〉と詠んでいるというが、記事の筆者は俳人としての昭子を「豊かな感受性と教養と好奇心をもって特殊な環境をいきいきと自立した心で生きた女性」と評して記事を締めくくっている。ほかに〈暖炉より生れしグリム童話かな 〉〈杞陽忌の熱燗なればなみなみと〉(今井肖子)




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