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January 0411998

 四日はや過ぎたりただの冬の雨

                           中山純子

語は「四日」。一月四日のこと。ちなみに「元日」からはじまって「二日」三日」「四日」「五日」「七日」はすべて新年の季語である。「六日」はない。それほどに昔の正月の一週間は、毎日の変化があり、区別をすることができたのだろうし、その必要もあったと思われる。いまでも、普段の年なら「四日」は仕事始めだから、気分は三が日とは大違いだ。その意味では「四日」という季語は生きている。作者もそのことを言っており、仕事始めの嫌な雨に正月気分をすぱりと断ち切っているのだ。このように現実にすっと入っていけるのは、どうやら女性に特有の能力らしい。そこへいくと、男はだらしがなくて、アメが降ろうがヤリが降ろうが、なかなか正月気分から抜けきれないで、いつまでもグズグズしている。(清水哲男)


December 31122001

 父祖の地に闇のしづまる大晦日

                           飯田蛇笏

とに名句として知られ、この句が収められていない歳時記を探すほうが難しいほどだ。時間的にも空間的にも大きく張っていて、どっしりとした構え。それでいて、読者の琴線には実に繊細に触れてくる。蛇笏は文字通りの「父祖の地」で詠んでいるが、句の「父祖の地」は某県某郡某村といった狭義のそれを感じさせず、人が人としてこの世に暮らす全ての地を象徴しているように思われてくる。大晦日。大いなる「闇」が全てをつつんで「しづまる」とき、来し方を思う人の心は個人的な発想を越えて、さながら「父祖の地」からひとりでに滲み出てくるそれのようである。日本的な美意識もここに極まれりと、掲句をはじめて読んだときに思った記憶があるけれど、そうではないと思い直した。外国語に翻訳しても、本意は多くの人に受け入れられるのではあるまいか。ところで、「大晦日」は一年の終わりなので「大年(おおとし)」とも言う。「大年へ人の昂ぶり機の音」(中山純子)。真の闇以前、薄闇が訪れたころの実感だろう。大晦日にも働く人はいくらもいるが、しかし漏れ聞こえてくる「機(はた)」の音には、普段とはどことなく違う「昂(たか)ぶ」った響きがうかがえると言うのである。この「昂ぶり」も、やがては大いなる「闇」に「しづま」っていくことになる……。(清水哲男)




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