cq句

March 0631998

 菜屑捨てしそこより春の雪腐る

                           寺田京子

治体によるゴミの収集がなかった時代には、裏庭などに小さな穴を掘って、句のように無造作に捨てていた。春の雪は溶けやすいから、ばさっと菜屑を捨てると、すぐにその周辺が溶けて、少々汚い感じになってしまう。そんな情景を、作者は「雪が腐る」と表現した。腐るのは菜屑であって雪が腐るわけもないが、一瞬の実感としては納得できる。たしかに、いかにも「雪が腐る」ような感じがする。言いえて妙だ。ところで、このように燃えないゴミ(現代的定義とは大違いだが)は穴に捨て、紙などの燃えるゴミは庭の隅で燃やしていたころに、誰が今日のゴミ問題を予測できただろうか。ひどい世の中を歎くだけでは何もはじまらないが、菜屑は土に返すべし。菜屑くらいは勢いよくばさっと捨ててみたいものだ。来たるべき世紀の我が国は、この句が理解できない人たちでいっぱいになるだろう。もう二度と、このような情景が詠まれる時代は訪れないだろう。(清水哲男)


January 0812000

 凧の空女は男のために死ぬ

                           寺田京子

臘から、この句を反芻しては解釈に呻吟してきた。わかりやすいようでいて、わかりにくい。作者が、凧揚げの空を見ているところまではわかる。奴凧、武者絵凧、あるいは「龍」の文字凧など。揚げているのはほとんどが男たちだから、「凧の空」は男の世界だ。でも、なぜ「女は男のために死ぬ」という発想につながるのだろうか。もつれた凧糸をほどくように時間をかけてみても、根拠はよくわからない。私の乏しいデータによると、作者は十代で死も覚悟せざるをえない胸部の病におかされたという。したがって「死」の意識はいつも実際に身近にあったわけで、たとえば演歌のように演技的に発想しているのではないことだけは確かだろう。だが、なぜ「男のために」なのか。十日間ほど考えているうちに得た一応の結論は、ふっと作者が漏らした吐息のような句ではないかということだった。字面から受ける四角四面の意味などはなく、ふっとそう感じたということ。男社会を批判しているのでもなく、ましてや男に殉じることを認めているのでもなく、そうした社会意識からは遠く離れて、ふっと生まれた感覚に殉じた一句。試験の答案としては零点だろうけれど、人は理詰めでは生きていないのだから、こういう読み方があってもいいのかなと、おっかなびっくりの鑑賞でした。『鷲の巣』(1975)所収。(清水哲男)


March 0732004

 凧とぶや僧きて父を失いき

                           寺田京子

語は「凧(たこ)」で春。子供たちは正月に揚げるが、これには「正月の凧」という季語が当てられる。単に「凧」という場合には、各地の年中行事で主に大人の揚げるものを指すのが一般的だ。作者は札幌生まれ。17歳のときに胸部疾患罹病、宿痾となる。「少女期より病みし顔映え冬の匙」、「未婚一生洗ひし足袋が合掌す」。しかも、より不幸なことには、杖とも柱とも頼んだ母親が早世してしまい、父親との二人暮らしの日々を余儀なくされたのだった。「雪降ればすぐに雪掻き妻なき父」。その父親が亡くなったときの句だ。このような事情を知らなくても、掲句には胸打たれる。順序としては、亡くなった人がいるから「僧」が来る。しかし、句では逆の言い方になっている。「僧」が来てから、「父」を失ったことに……。この逆順が示しているのは、あくまでも父親を失ったことを認めたくない心情である。認めたくない、夢ならば醒めてほしいと願う心は、しかし僧侶が訪れてきたことによって、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。父の死を現実として受け止めざるを得ない。ああ、父は本当にいなくなってしまったのだ。と、作者は呆然としている。折から、何か大きな行事のためなのだろう。よく晴れた空には「凧」が悠々と天上に舞い上がっており、世間は全て世は事も無しの風情である。作者は、いつまでも空「とぶ」凧を慟哭の思いで、しかもいわば半睡半覚の思いで見つめていたことだろう。父の非在と凧の実在。この取り合わせによる近代的抒情性が、見事に定着結晶した名句である。なお、作者は1976年に54歳で他界した。「林檎甘し八十婆まで生きること」。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


May 2352005

 噴水や戦後の男指やさし

                           寺田京子

語は「噴水」で夏。連れ立っていた「男」が、たまたま噴水に手をかざしたのだろう。ああいうものにちょっと手を触れてみたくなる幼児性は、どうも男のほうが強いらしい。それはともかく、作者はその人の「指」を見て、ずいぶんと「やさし」い感じを受けたのだった。そういえば、この人ばかりではなく、総じて「戦後の男」の指はやさしくなったとも……。男の指を通して、戦後社会のありようの一断面をさりげなく描いた佳句だ。男の指がやさしくなったのは、もちろん農作業など戸外での労働をしなくなったことによる。1950年代の作と思われるが、当時は「青白きインテリ」という流行語もあったりして、多くの男たちにはまだ「指やさし」の身を恥じる気持ちが強かった。たしか詩人の小野十三郎の自伝にも、自分の白くてやさしい感じの手にコンプレックスを持っていたという記述があったような気がする。ごつごつと節くれ立った指を持ってこそ、男らしい男とされたのは、肉体労働の神聖視につながるが、しかしこれはあくまでも昔の権力者に都合の良い言い草であるにすぎない。句はそこまでは言ってはいないけれど、男の指がやさしく写ることに否定的ではなく、ほっと安堵しているような気配がうかがえる。苛烈な戦争の時代を通り抜けた一女性ならではの、それこそやさしいまなざしが詠ませた句だと思う。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


March 1832011

 ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ

                           寺田京子

というものは欺きやすいものであろうか。女は弱しされど母は強しという。男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。金子兜太の句に「夏の山国母いてわれを与太と言う」。与太と言われようと子は母の愛情を疑うことはない。この句は娘という立場から母をみている。同性から見た母は息子から見た母とはかなり違うのだろう。ひばり鳴けという命令調にその微妙な感じがうかがわれる。『冬の匙』(1956)所収。(今井 聖)


August 0582011

 驟雨くる病院帰りの水の味

                           寺田京子

らはどれほど勇気をもらったことだろう。子規や波郷や玄や京子に。命の消え際のぎりぎりまで「もの」を視た。視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚を総動員して「瞬間」を感じ取った。生きている時間を刻印した。あらゆる俳句の要件を味方につけて結局はそれより大切なものをゴールに蹴り込んだ。修辞的技術よりも「自分」を一行に刷り込むことを優先させた俳人だ。『雛の晴』(1983)所収。(今井 聖)




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