cq句

March 0931998

 チューリップ買うて五分の遅刻して

                           岡田順子

ぎ足の出勤途中に、早咲きのチューリップが売っていた。とっさに職場に飾りたい気持ちが起きて、買う手間を費やしているうちに、遅刻してしまった。五分の遅刻が責められる職場なのだろう。遅刻の言い訳はできないが、買ってきたチューリップはやはり美しい。同僚たちも口には出さないけれど、気持ちがなごんでいるようだ。遅刻しても、買ってきた甲斐はあったのである。才気煥発という作品ではないが、最近の私は、むしろこういう句に魅力を覚えるようになってきた。雑誌「俳句」(角川書店・1998年3月号)の通巻600号記念特別座談会での黒田杏子の発言。「俳句って自分以上にまとまっちゃうところがある……」ところを極力避けて通っていこうとするならば、これも一つの意志的な書き方だと思いたい。絵の世界では、とっくに「ヘタウマ」の試みもあったことだし……。同じ作者に「すべりこむ電車はみどり日脚伸ぶ」などがある。「俳句文芸」(天満書房・1998年3月号)所載。(清水哲男)


September 3092006

 赤とんぼ洗濯物の空がある

                           岡田順子

蛉には澄んだ空が似合う。糸蜻蛉、蜻蛉生る、などは夏季だが、赤蜻蛉も含めて、ただ蜻蛉といえば秋の季題となっている。ベランダで洗濯物を干していると、赤とんぼがつつととんでいる。東京では、流れるように群れ飛ぶことはあまり無い、ほんの数匹。空は晴れ上がり、風が気持よく、あら、赤とんぼ、と句ができる。「洗濯物の空がある」は、赤とんぼから生まれてこその、力の抜けた実感であり、白い洗濯物、青い空、赤とんぼが、ひとつの風景となって鮮やかに見える。爽やかな印象だが、爽やかや、では、洗濯物はただぶら下がっているばかりだろう。句には一文が添えられており、故郷鳥取で続けてきた句会の様子が語られている。農家の人達が、忙しい農事の合間に、公民館で月一回行っていた句会は、作者が東京に移り住んだ今も続いているという。歳時記の原点は農暦(のうごよみ)であり、俳句は鉛筆一本紙一枚あればだれでもいつでもどこでもできる。「その野良着のポケットに忍ばせた紙と鉛筆が生き甲斐の証であり、生み出す一句一句には土に生きる人達の喜怒哀楽があった」。作ることが生き甲斐であり喜びである。郷愁を誘う赤とんぼ、洗濯物は今の都会の日常生活、そしてこの空は遠いふるさとにつながっている、のかもしれないけれど、作者と一緒にただ秋晴の空を仰ぎたい。同人誌『YUKI』(2006年秋号)所載。(今井肖子)


March 0832008

 外に出よと詩紡げよと立子の忌

                           岡田順子

年めぐってくる忌日。〈生きてゐるものに忌日や神無月 今橋眞理子〉は、親しい友人の一周忌に詠まれた句だが、まことその通りとしみじみ思う。星野立子の忌日は三月三日。掲出句とは、昨年三月二十五日の句会で出会った。立子忌が兼題であったので、飾られた雛や桃の花を見つつ、空を仰ぎつつ、立子と、立子の句と向き合って過ごした一日であったのだろう。〈吾も春の野に下り立てば紫に〉〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈曇りゐて何か暖か何か楽し〉まさに、外(と)に出て、春の真ん中で詠まれた句の数々は、感じたままを詩(うた)として紡いでいる。出よ、紡げよ、と言葉の調子は叱咤激励されているように読めるが、立子を思う作者の心中はどちらかといえば静か。明るさを増してきた光の中で、俳句に対する思いを新たにしている。今年もめぐって来た立子忌に、ふとこの句を思い出した。このところ俳句を作る時、作ってすぐそれを鑑賞している自分がいたり、へたすると作る前から鑑賞モードの自分がいるように思えることがあるのだ。ああ、考えるのはやめて外へ出よう。(今井肖子)




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