March 131998
むつつりと春田の畦に倒けにけり
飯島晴子
春田は、昨秋の収穫期から今年の春までそのままにしてある田圃のこと。「倒けにけり」は「こけにけり」と読ませる。要するに、春田の畦を歩いていた農夫が、どうしたはずみかひっくり返っちゃったのだが、その顔は苦笑するでもなく、相変らずむっつりしているというシーンを捉えた句だ。ユーモラスであると同時に、読者をしてこの農夫の生き方の一端に触れさせる作品である。こういう人は、電車のドアが鼻先でしまっても、決して多くの都会人のように照れ笑いしたりはしないだろう。「むつつりと」が小気味好いほどに利いている。かつて阿部完市が晴子句を評して「何気ない言葉が奇妙にとたんに生動し、何気なさというぼかしが逆にひどく焦点化するのを実感する」と言った。まことに、そのとおりではないか。春田を眺めるのならば、いまが旬だ。無念にも、私の暮らしている三鷹武蔵野地域には、水田といえるほどの立派な田圃は皆無である。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)
March 121998
先代の顔になりたる種物屋
能村研三
種物は、野菜や草花の種のこと。それを売るのが種物屋。花屋とはちがって、種物屋は小さくて薄暗い店が多い。作者は毎春、決まった店で種を求めてきたのだろう。主人が代替わりしたほどだから、店との付き合いもずいぶんと長い。気がつくと、二代目の顔が先代とそっくりになってきた。ときに、先代と向き合っているような錯覚さえ覚えてしまう。対象が命の種を商う人だけに、生命の連続性に着目したところが冴えている。そっくりといえば、谷川俊太郎さんが亡き谷川徹三氏に間違えられたことがあった。二年ほど前だったか、句会の後である庭園を歩いていたら、いかにも懐しそうに詩人に声をかけてきた老人がいた。詩人としては記憶にない人なので曖昧な応答をしているうちに、父親と間違えられていることに気がついた。で、そのことを相手に告げようとしたのだが、少々ボケ加減のその人には通じない。ついには記念に一緒に写真に写ってほしいと言いだし、老人は満足化に「谷川徹三」氏とのツー・ショット写真に収まったのだった。見ていたら、詩人のほうはまことに生真面目な表情で撮されていた。そういえば、句の作者も俳人・能村登四郎氏の三男だ。「春の暮老人と逢ふそれが父」という、息子(!)としての作品がある。(清水哲男)
March 111998
朧夜の四十というはさびしかり
黒田杏子
年齢を詠みこんだ春の句で有名なのは、なんといっても石田波郷の「初蝶やわが三十の袖袂」だろう。三十歳、颯爽の気合いが込められている名句だ。ひるがえってこの句では、もはや若くはないし、さりとて老年でもない四十歳という年齢をひとり噛みしめている。朧夜(朧月夜の略)はまま人を感傷的にさせるので、作者は「さびし」と呟いているが、その寂しさはおぼろにかすんだ春の月のように甘く切ないのである。きりきりと揉み込むような寂しさではなく、むしろ男から見れば色っぽいそれに写る。昔の文部省唱歌の文句ではないけれど、女性の四十歳は「さながらかすめる」年齢なのであり、私の観察によれば、やがてこの寂しい霞が晴れたとき、再び女性は颯爽と歩きはじめるのである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)
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