y@句

May 0251998

 旅にて今日八十八夜と言はれけり

                           及川 貞

春から数えて八十八日目が「八十八夜」。今年は今日にあたる。ちなみに「二百十日」も立春から起算した日だ。農事暦の定番みたいな日だが、とくに「八十八夜」でなければならないという農事はない。「八十八」という縁起の良い末広がりの数字から、そろそろ仕事に本腰を入れなければ……という農民の気合いが込められている日と解釈すべきだろう。都会人である作者は、旅先で今日の「八十八夜」を土地の人に知らされ、情趣を感じると同時に、どこかで少しだけ後ろめたい気分にもなっている。この季節に、多忙な農村をいわば遊びで訪れている自分を、ちょっと恥じているのだ。「言はれけり」という強い表現は、そのような苦さを言っているのだと思う。時、まさにゴールデン・ウィーク、それこそ今日あたり、日本のどこかでは「言はれけり」と認めている人がいるかもしれない。(清水哲男)


November 14111998

 朝餉なる小蕪がにほふやや寒く

                           及川 貞

語は蕪(冬の季語)ではなくて、この場合は「やや寒」であり、季節は晩秋だ。いまでこそ蕪(かぶ)は一年中出回るようになったけれど、元来は晩秋から冬にかけて収穫された野菜である。不思議なもので、この時期になると香りが高くなってくる。暑い時期の蕪には、まったく匂いがない。したがって、晩秋の朝の食卓に出されたこの小蕪は、さぞかし匂い立っていたことだろう。味噌汁に入れられたのか、それとも糠味噌漬けであろうか。どちらでもよく、読者の好きなほうにまかされている。やや寒の朝の実感が小蕪の香りと実によく釣り合っており、こんなときにこそ「よくぞ日本に生まれけり」と合点したくなる。蕪は小蕪もよいが、大蕪もよい。私は京都に暮らしていたことがあるので、巨大な聖護院蕪は忘れられない。普通でも2キロくらいの重さはありそうだ。京都名産千枚漬を作るアレである。ただ、今年は天候不順の影響で、聖護院蕪の収穫も大幅に遅れているという。したがって、まだ京都でも千枚漬はそんなに出回ってはいないらしい。毎朝のように見ているテレビ番組『はなまるマーケット』(TBSテレビ系)の情報による。(清水哲男)


June 2361999

 梅雨晴や野球知らねばラヂオ消す

                           及川 貞

だドーム球場がなかったころ、梅雨時の野球ファンは大変だった。観に行く予定のある場合はもちろんだが、試合が予定されている各地の天候が気になって、それこそラジオの天気予報に一喜一憂したものである。予報で雨と告げられても、往時の天気予報は当たらないことが多かったので、試合をやっているのではないかと、その時間には念のためにラジオのスイッチを入れるのが常だった。句の作者は、まったく逆の立場である。番組表では野球中継が予定されており、梅雨の晴れ間でもあるけれど、ひょっとしたら野球は中止されていて、いつもの好きな番組が放送されているのではないかとラジオをつけてみた。でも、やっぱり野球をやっている。あちこちダイヤルを回してみても、どこもみな野球放送ばかりだ。がっかりして、消してしまった……。あるいは、それほどでもなくて、なんとなくラジオを聞きたくなっただけなのかもしれないが、いずれにしても、梅雨晴をめぐっての小さなドラマがここにある。ベテランのスポーツ記者のなかには、けっこう梅雨好きという人がいたりする。雨になると、昔は必ず仕事が休みになったからだ。(清水哲男)


February 2922000

 薮うぐひすようこそ東京広きかな

                           及川 貞

(うぐいす)といえば春だが、「薮鶯(やぶうぐいす)」は冬に分類。越冬期に人里近く降りてくる鶯のことで、まだ鳴き声も「チチッ、チチッ」とおぼつかない。そんな時期の鶯が、庭先にでも姿を現したのだろうか。ああ、春も間近だと嬉しくなり、思わずも「ようこそ」と内心で声をかけている。一般的に「東京は広い」というとき、地理的な広さとは別に、転じて「何でもあり、何でも起きる」という意味に使うことがあるが、句の「広き」もこれに近い意味だと思う。まさか、こんな町中のこんな庭にまで鶯が……というニュアンスだ。だから「ようこそ」なのである。作られたのは、戦後も十数年を経たころ。薮(あるいは、かろうじて薮と呼べるところ)なども、まだ東京のそこここに残っていたとはいえ、鶯の出現はもはや珍しい出来事であったにちがいない。読後、私は「ようこそ」の挨拶語をこのように使える作者(女性)の人柄に思いがおよび、とても暖かい心持ちになった。しばらく、心地よい余韻に酔った。このころも世の中はギスギスしていたが、しかし一方では人々に高度成長期への躍動感もあったはずで、そのあたりの雰囲気が句に暖かさを誘ったとも読んだのだった。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


October 28102000

 栗むきぬ子亡く子遠く夫とふたり

                           及川 貞

ったの一行で、家族の歴史を語っている。一人の子は亡くなり、一人の子は家を出て遠くに暮らしている。残された夫(つま)との二人暮らしの日々は、何事もなく静かに過ぎてゆく。「栗をむく」といっても、昔とは違い、ほんの少しで足りる。子供らがいてにぎやかだった頃には、たくさんむいた。その様子を、幼い子供らは目を輝かせて見つめていたものだ。そういうことが思い出され、あの頃が家族の盛りの季節であり、自分にも華の季節だったと、一抹の哀感が胸をよぎるのである。生栗の皮は、なかなかにむきにくい。とくに渋皮をきれいにむくのは、栗の状態にもよるけれど、そう簡単ではない。包丁で無造作に分厚くむく人もいるけれど、実がそがれてしまうので、私などにはもったいなくて、とても真似できない。子供時代には、爪だけでていねいに渋皮をむいた。外皮には、歯を使った。いまでは、とてもできない芸当だった。チャレンジする気にもならないが、おそらくはもう歯など立たないだろう。加藤楸邨に「我を信ぜず生栗を歯でむきながら」の一句あり。そうして皮がむけたら、栗ご飯にする。米は、もちろん新米だ。美味いのなんのって、頬っぺたが落ちそう……。あの当時の「銀シャリ」は美味かった。「コシヒカリ」なんてなかった頃。いまは、私の田舎でも「コシヒカリ」ばっかりだと聞いた。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0632004

 冗費とも当然とも初わらび買ふ

                           及川 貞

語は「はつわらび(初蕨)」で春。「蕨」の項に分類。「薇(ぜんまい)」とともに、春を告げる山菜の代表だ。なるほど、主婦としての作者の気持ちはよくわかる。事情があって、最近の私はよくこまごました買い物をするが、「冗費(じょうひ)」かどうかで思案すること、しばしばだ。ついこの間の雛祭りの日にも、桜餅の前でちょっと逡巡した。買わなくてもよいといえば、買わなくてもすむ。しかし、買えば生活のうるおいにはなる。結局買って帰ったのだが、そのときの心持ちは、まさに句の通りだった。買うときは何ほどの出費でもないにしても、初物だの季節物だのにこだわって買い物をつづけていると、年間での総額にはかなりの差が出てしまう。家計をあずかる主婦としては、だからいちいち自分で自分を説得して買わなければならない。でも、句の「はつわらび」などの場合は、完全に説得することは無理だろう。それでなくとも初物は高価だし、もっと出回るようになってから求めたほうが、味覚的にも満足できる。が、買いたい。筍にさきがけて、早春の味を家族といっしょに楽しみたい。こう思うのは、自然な気持ちからで「当然」じゃないだろうか。いやいや、やはり無駄遣いになるのかしらん。買ってしまっても、まだ自分を説得できないでいるのである。主婦であるならば、誰しもが掲句の世界は、日々親しいものだろう。これは男の「ケチ」とは、性質的にまったく異る。例外はあるにしても、主婦の日常的な買い物の背後には、常に家族がいるのだからだ。男の買い物には、自分しかいないことが多い。この差は、実に大きいのである。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


August 1582004

 堪ふる事いまは暑のみや終戦日

                           及川 貞

争が終わったから平和が訪れたからといって、その日から「堪ふる事」が消滅したわけではない。生き残った者にとっては、戦後こそが苦しかったと言うべきか。平和を謳歌できるような生活基盤などなかったので、多くの人々が忍耐の日々を重ねていった。この句は、戦後も二十年を経てからの作句で、ようよう作者はここまでの心境にたどり着いている。たどり着いてみれば、しかし若さは既に失われ、往時茫々の感もわいてくる。作者の本音を訪ねれば、この暑中、何をまた語るべきの心境であるのかもしれない。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


November 27112010

 猫の目に海の色ある小春かな

                           及川 貞

っ越して一年足らず、さすがにもう段ボールはないけれど、捨てられなかった古い本や雑誌がとりあえず棚に積まれている。それを少しずつ片付けていて「アサヒグラフ」(1986年7月増刊号)に遭遇した。女流俳句の世界、という特集で、美しい写真とともに一冊丸ごと女性俳人に埋め尽くされ、読んでいるときりもなく結局片付かない。そのカラーグラビアにあったこの句に惹かれ、後ろの「近影と文学信条」という特集記事を読みますます惹かれた。今ここに書けないのが残念だが、淡々とした語り口に情熱がにじんでいる。句帳を持たず、その時々の句は頭の中にいくつもありそれで十分、とあるが、この句もそんな中のひとつなのか。小さな猫の目の中に広がる海は、作者の心の奥にある郷愁の色を帯びて、さまざまな思いごと今は日差しに包まれている。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます