R@y句

May 2751998

 シャボン玉吹く東京の風にのせ

                           小山 遥

者(女性)は高松市在住。履歴を見ると、生まれも育ちも高松だ。高松と聞くと、いつも私は故人となった詩友の佃学を思い出してしまう。彼は高松の田舎性を慨嘆しつつも、結局は愛して止まなかった。それはともかく、この句は高松から上京した際の寸感だろう。シャボン玉での遊び相手はお孫さんだろうか。ひさしぶりの邂逅を楽しんでいる場面だが、ここで作者が相手の存在をふっと瞬間的に忘失しているところに、句の輝きが読み取れる。東京という他郷の風にのせて、シャボン玉を吹いている自分という存在の不思議に、作者の気持ちが溶けこんでいる。旅先での句は世間に数えきれないほど多いが、他郷での発見を欲張りすぎる傾向があり、その点、この句は欲張っていない分だけ、逆に心象がよく伝わってくる。私のような東京人にも、あらためて「東京の風」を新鮮に思い起こさせてくれた佳句である。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)


July 0571999

 花南瓜素顔にあればなつかしき

                           小山 遥

生時代、同級生の女性から「着ている服の色に、その日の気分が左右される」と聞かされて、いたく感心したことがあった。なにせ当方は、小学生以降どこに行くにも黒い学生服を着ていたので、迂闊にもそういうことには気がつかなかったのである。お恥ずかしくも馬鹿な話だ。女性の場合は、この服のとっかえひっかえに加えて化粧ということがあるから、物の見え方も男とはずいぶん違っているのだろう。化粧のおかげで見える物もあれば、逆によく見えない物もあるのだろう。この句には、そういうことが詠まれている。たまたまの素顔のままの外出で、作者は南瓜の花を見かけた。普段のように化粧をしていたら、きっと気にもかけないで通り過ぎてしまっただろう黄色い花に気を引かれている。このときの作者は、いつだって素顔だった少女時代の気分に戻ったのだ。したがって、しみじみとした「なつかしさ」の気分にひたれたというのである。化粧、恐るべし。……とまで作者は書いてはいないけれど、学生時代と同様に、私はいたく感心している。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)




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