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June 2661998

 壷に咲いて奉書の白さ泰山木

                           渡辺水巴

品だ。というのも、まずは句の花の位置が珍しいからである。泰山木の花は非常に高いところ(高さ10メートルから20メートル)に咲くので、たとえ自宅の庭に樹があったとしても、花を採取すること自体が難しい。したがって、多くの歳時記に載っている泰山木の花の句に、このように近景からとらえたものは滅多にない。ほとんどが遠望の句だ。この句は、平井照敏編『新歳時記』(河出文庫・1989)で見つけた。で、読んですぐ気にはなっていたけれど、なかなか採り上げることができなかったのは、至近距離で泰山木の花を見たことがなかったからである。遠望でならば、母校(都立立川高校)の校庭にあったので、昔からおなじみだった。ところがつい最近、東大の演習林に勤務している人に会う機会があり、その人が大事そうに抱えていた段ボール箱から取り出されたのが、なんと泰山木の純白の花なのであった。直径25センチほどの大輪。そして、よい香り……。近くで見ても、一点の汚れもない真っ白な花に、息をのむような感動を覚えた。そのときに、この句がはじめてわかったと思った。作者もきっと、うっとりとしていたにちがいない。なお、「奉書」とはコウゾで作られた高級な和紙のことをいう。しっとりと白い。(清水哲男)


November 05111998

 団栗の己が落葉に埋れけり

                           渡辺水巴

語は「団栗(どんぐり)」。「落葉」も季語だが、こちらだと冬になってしまうので、この句の場合は秋の「団栗」だ。物の本によると、団栗はブナ科コナラ属の落葉高木である櫟(くぬぎ)の実のことをいうようだ。しかし一般的には、その他の楢(なら)や樫(かし)の実なども団栗と呼んできた。ま、それぞれの人がこれが団栗だと思っている実は、すべて団栗だということにしてもよいと思う。さて、この句は軽い句ではあるけれども、なかなかに読ませる。団栗というと、つい「ドングリコロコロ」の童謡みたいな様子をとらえてしまいがちなので、自分の葉っぱに埋もれている団栗の姿は新鮮にうつる。情景としてはありふれていても、このような句に仕立て上げたのは、やはり水巴の手柄というべきだろう。作句されたのは、明治三十九年(1906)。当時の水巴は東京・浅草に住んでいた。してみると、この頃の浅草には団栗のなる木もあったというわけだ。もしかすると、神社の社(もり)あたりかもしれない……。晩秋の都会の片隅での、これは微笑ましくも秀逸な発見の句である。『水巴句集』(1956)所収。(清水哲男)


May 1751999

 日輪を送りて月の牡丹かな

                           渡辺水巴

の王者と呼ばれる豊麗な牡丹の花は、蕪村の有名な「牡丹散りて打かさなりぬ二三片」をはじめ、多くの俳人が好んで題材にしてきた。巧拙を問わなければ、俳句ではもう何万句(いや、何十万句かもしれない)も詠まれているだろう。いまやどんな牡丹の句を作っても、類句がどこかにあるというほどのものである。すなわち、作者にとって、なかなかオリジナリティを発揮できないのが、牡丹の句だ。この花を詠んで他句に抜きん出るのは至難の業だろう。原石鼎のように「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とまで言った人がいる。とても、百句など作れそうもないからだ。だから、誰もが抜きんでるための苦心の工夫をほどこしてきた。で、水巴の句は見事に抜きん出ている一例ではあるが、しかも名句と言うにもやぶさかではないけれど、なんだかあまりにも技巧的で、逆に落ち着かない感じもする。「月の牡丹」とはたしかに意表を突いており、日本画を見るような趣きもあり、テクニック的には抜群の巧みさだ。しかし、悲しいかな、巧いだけが俳句じゃない。「日」と「月」と大きく張って、しかし、この句のスケールのなんという小ささだろうか。言葉をあやつることの難しさ。もって小詩人の自戒ともしたいところだが、しかし、やはり図抜けた名句ではありますぞ。『水巴句集』所収。(清水哲男)


June 1161999

 紫陽花や白よりいでし浅みどり

                           渡辺水巴

陽花(あじさい)は、別名を「七変化」とも言うように、複雑に色を変えていく。薄い緑色から白色、青色、そして紅紫色といった具合だ。句では「白よりいでし浅みどり」と変化過程にある紫陽花の一時期の色を詠んでいて、雑に読むと錯覚しやすいが、この「浅みどり」が薄い緑色ではないことがわかる。「白」の次は「青」でなければならないからだ。『広辞苑』を引くと「浅緑」には薄い緑色の意味の他に「薄い萌黄色」と出ている(「空色」とも)。この「萌黄色」がまた厄介で、黄緑色に近い色と受け取ると間違いになる。藍染めに源を持つ色彩に「浅黄色」があり、「薄い萌黄色」はこれに近い。つまり「薄い水色」だ。中世で「浅黄色」というと、薄い青色のことを指した。したがって、いまでは「浅黄色」と書かずに、青を強調して「浅葱色」と表記するのが一般的になっている。私たちが交通信号の「緑」を平気で「青」と言うように、日本人の色意識には、「緑」と「青」の截然とした区別はないのかもしれない。なんだかややこしいが、他にも日本の色の名前には面白いものがたくさんある(翻訳はなかなかに困難だ)。白秋の「城ケ島の雨」の英訳があって、外国人が歌っているのをレコードで聞いたことがある。「利休鼠の雨が降る」をどう訳していたのだったか。忘れてしまったのが残念だが、たしか「RAT」という言葉は入っていたように思う。『水巴句集』所収。(清水哲男)


October 28101999

 殺される女口あけ菊人形

                           木村杢来

居の一場面を菊人形に仕立ててあるわけだが、殺される女の口が開きっぱなしなのが、ひどく気になったというのである。凄絶なシーンのはずが、開いた口のせいで痴呆的にすら感じられる……。そこが、人形的なあまりに人形的な切なさではある。漱石の『三四郎』に団子坂(東京千駄木)の菊人形が出てくる。「どんちゃんどんちゃん遠くから囃している」とあり、明治末期の菊人形は秋最大級の見せ物として人気があったようだ。私に言わせれば、菊と人形の組み合わせなどゲテモノにしか見えないけれど、ゲテモノは見せ物の基本だから、あって悪いとは思わないが好きではない。渡辺水巴などは、真面目につきあって「菊人形たましひのなき匂かな」と詠んでいる。そういう気にもなれない。どうせ詠むのなら、大串章のように「白砂に菊人形の首を置く」と、楽屋を詠むほうが面白い。ドキリとさせられる。私とは違って、大串章は菊人形に好意をもっての作句だろうが、このシーンを描くことで見せ物の本質はおのずから描破されている。先日、菊作りの専門家に聞いたら、今年は中秋までの暑さがたたって仕上がりが遅いそうだ。菊人形展や菊花展の関係者は、さぞや気をもんでいることだろう。(清水哲男)


March 2032002

 かたまつて薄き光の菫かな

                           渡辺水巴

語は「菫(すみれ)」で春。「千葉県鹿野山(かのうざん)での作であり、山上に句碑が立っている。水巴の代表作の一つである」(山本健吉)。鹿野山の菫は知らないが、野生の菫の花の色はほとんどが濃い紫色だ。しかも「かたまつて」咲いているのならば、なおさらに色が濃く見えてしかるべきところを「薄き光の菫」と詠んでいる。作者には、淡い紫色に見えている。しかし、濃紫とはいえ、春の陽光に照らし出された花の色だからこそ、これでよいのだと思った。実際に花の一つ一つは濃いのだけれど、晴天の山上に咲く菫のひとむらはあまりにも小さな存在であり、あまりにも可憐ではかなげだ。そんな見る者の心理を写しての視点からすれば、むしろ濃い色とは見えずに、逆に「薄き光の菫」と見えるほうが自然の勢いというものだろう。無技巧なようでいて、まことに技巧的な句だと思う。苦吟のはての句かどうかなどは関係がないけれど、私などが羨望するのは、対象に心理の光りをすっと当てたように見せられる俳句的方法そのものに対してである。たいしたことを述べているわけではないのだが、この菫はいつまでも心に残る。残るからには、これはやっぱり、たいした俳句の力によるものなのだ。すなわち、掲句もたいした作品なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)他に所載。(清水哲男)


June 2162010

 父に似て白き団扇の身に添へる

                           渡辺水巴

く団扇を使う。いちおう部屋には冷房装置があるのだけれど、あの冷え方は好きじゃないので、ここ三年ほどはもっぱら団扇でパタパタやっている。といっても、私が使う団扇は街頭などで配られている広告入りのものだから、風情も何もあったものではない。そこへいくと、掲句の作者が使っている団扇は、ちゃんとした商品として売られていたものだろう。毎夏いろいろな色やデザインのものを求めてきたが、いつしか白系統の団扇に落ち着いてきた。白いものが、結局は自分にしっくりくると思うようになった。思い起こせば、父の好みもそうだった。やはり親子は似て来くるものだなあと、しばし苦笑まじりの感慨を覚えている。ここでいま私が使っている団扇をつくづくと眺めてみると、表にも裏にもぎとぎとの豚骨ラーメンの写真が出ている。なんとも暑そうなデザインで、これで扇いだヒには、熱風でも巻き起こりそうな感じである。どうしてこのラーメン屋は夏にこんな暑苦しい団扇を配ったのか。涼味を呼ぶにはほど遠い絵柄の団扇を、しばし眺めて溜め息をついたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2442013

 わが鬱の淵の深さに菫咲く

                           馬場駿吉

なき人は幸いなるかな、である。特に春は誰しも程度の差はあれ、わけもなく時に心が落ちこんでしまうことがあるもの。「春愁」などという小綺麗な言葉もあるけれど、春ゆえの故なき憂鬱、物思いのことである。その鬱の深さは他人にはわからないけれど、淵の深さを示すがごとく、底にわずかな菫がぽつりと咲いているようにも感じられる。咲いた菫がせめてもの救いになっているのだろう。深淵に仮にヘビかザリガニでも潜んでいたとしたら、ああ、救いようがない。掲句の場合、可憐な菫が辛うじて救いになっているけれど、逆に鬱の深さを物語っているとも言えよう。駿吉は耳鼻科医で、造耳術の研究でも知られる。独自な美を探究する俳人であり、美術評論家としても、以前から各界人との交遊は多彩である。俳句は「たった十七音に口を緘(と)じられた欲求不満」である、と書く。他の句に「大寒の胸こそ熱き血の器」がある。句集に『薔薇色地獄』『耳海岸』などがある。菫の句は漱石の有名な句もさることながら、渡辺水巴の「かたまつて薄き光の菫かな」もいとおしい。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)




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