S[句

July 1871998

 青森暑し昆虫展のお嬢さん

                           佐藤鬼房

国の夏は、ときに「猛暑」という言葉がぴったりの猛然たる暑さとなる。たしか日本の最高気温の記録は岩手で出ているはずだ。そんな日盛りのなか、青森を旅行中の作者は昆虫展の会場に入った。暑さに耐え切れず、たまたま開かれていた昆虫展を見つけて、涼みがてらの一休みのつもりだったのかもしれない。と、いきなり会場にいた一人の少女の姿が目につき、このような句が生まれたというわけだ。「昆虫」と「お嬢さん」。この取り合わせには、作者ならずとも一瞬虚をつかれる思いになるだろう。少なくとも私はこれまで、昆虫が好きだという女性にお目にかかったことがない。ちっぽけな蜘蛛一匹が出現しただけでも、失神しそうになる人さえいる。ましてや、何の因果で昆虫展をわざわざ見に出かける必要があるだろうか。偏見であればお許しいただきたいが、一般的にはこの見方でよいと思う。作者もそう思っていたので、あれっと虚をつかれたわけだ。昆虫の標本を見ながらも、時折視線は彼女に注がれたであろう。そしてだんだんと、好意がわいてきたはずでもある。このときにはもはや、外部の猛暑は完全に消え失せてしまっている。「お嬢さん」の威力である。『何處へ』〔1984〕所収。(清水哲男)


August 3181998

 夜明路地落書のごと生きのこり

                           佐藤鬼房

季の句だが、雰囲気はどこか晩夏を思わせる。徹夜の仕事明けだろうか。自宅近くの路地まで戻ってくると、道にはどこかの子供が描いた落書きが白く残っている。たぶん稚拙な「人間」の絵だったろうが、このとき五十代の俳人は、思わず足を止めて見入ってしまったのである。そして、まさにこの落書きの「人間」のように、消されることもなく生き残ってきた自分の人生を、何か不思議な出来事のように思ったというわけだ。作者には戦時中の捕虜体験があって多くの戦友とも死に別れ(「夕焼に遺書のつたなく死ににけり」などの句がある)、自身病弱の身でもあったので、とりわけ「生きのこり」の感慨には強いものがある。落書きをした子供の生命力と作者のそれとの対比も暗黙のうちに語られていて、印象深い句だ。晩夏を思わせるのは、この対比の妙からかもしれない。最近の落書きの主流は、道にローセキで描くのではなく、道端の塀にスプレーで吹きつけるそれになってしまった。小さな子供たちに代わって、いわゆる暴走族が落書きを担当(笑)しているのも面白い。つまり、人の遊べる道は無くなったということだ。それをいちばん知っているのが、勝手気ままにオートバイを乗り回したい連中だろう。彼らにとっては道端の塀も、本来は道でなければならないのである。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


November 27111998

 月夜しぐれ銀婚の銀降るように

                           佐藤鬼房

婚の日の月夜に、まさかの時雨れである。その雨の糸を銀と見立てた、まことに美しい抒情句だ。このように、俳句の得意の一つは、境涯をうたうことにある。それも、人生や生活の来し方の余計なあれやこれやを可能なかぎり削り落として、辿り着いた純なる心持ちをうたうのである。このあたりが現代詩などとはまったく違った方法であり、俳句が好きになるかどうかも、一つはこうした境涯句に賛成できるか否かにかかっていると思う。現代詩とて、もとより境涯をうたうことはある。しかし、俳人と大きく異なるのは、境涯を辿り着いた地点とは見ないところだ。銀婚であれ何であれ、それらを人生や生活のプロセスとしてつかまえようとする。したがって、純なる心持ちなどは信じない。仮にそういう心持ちがあるにしても、それを極力疑おうとする。今年出た詩集に、多田智満子が境涯を書いたと言える『川のほとりに』があるが、読んでいると俳人の方法とのとてつもない落差を感じてしまう。彼女を誘ういわば「死神」は「死ぬのもなかなかいいものだよ」などと、平気で言うのである。明らかに、境涯をプロセスとして捉えている書き方だ。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


January 1411999

 縄とびの寒暮いたみし馬車通る

                           佐藤鬼房

の日の夕方。ちゃんちゃんこを着た赤いほっぺの女の子が、ひとり縄跳び遊びをしている。そのかたわらを大きく軋みながら、古ぼけた馬車が通っていった。女の子も無言なら、馬車の男も無言である。いかにも寒々とした光景だ。が、田舎育ちの私には、いつかどこかで見たような懐しくも心暖まる光景に感じられる。この光景には、たしかに寒気は浸みとおっているけれど、人の心には作者も含めて微塵の寒々しさもない。この句を、ことさらに作者の貧困生活と結びつけて解釈するムキもあるようだが、私は採らない。昔から繰り返されてきたであろう同一のシチュエーションを、それこそことさらにこのように詠むことで、作者はこのときむしろ貧困などは忘れてしまっている。田舎のごく普通の光景に、ふっと溶け込んでいるというのが、句の正体ではあるまいか。古ぼけた馬車と縄跳びの女の子は、いつに変わらぬ我が田舎の冬場の象徴として置かれているのであり、その永遠的な存在感は我が個的な事情を楽々と越えているのだ。たとえば「あなたの田舎はどんなふうですか」と問われて、率直に答えるときのサンプル句のようだと言っても言い過ぎではあるまい。そんなふうに、私には思える。『夜の崖』(1955)所収。(清水哲男)


March 2431999

 桜湯に眼もとがうるむ仮の世や

                           佐藤鬼房

湯の屋号にもある「桜湯」の定義。「八重桜の半開きの花や蕾を塩漬けにしたもの。茶碗に入れて熱湯を注ぐと、弁はほぐれて花は開いたようになり、香気がほのぼのと立つ。これを桜湯といい、祝いの席などに用いる」(角川書店編『合本・俳句歳時記』第三版)。早い話が、結婚披露宴で出てくるおなじみの飲み物だ。作者もかしこまっていただき、いささか眼もともうるんではきたのだけれど、ふと気をとりなおしたところが句の眼目だ。祝い事に、しょせんは「仮の世」の、はかない演出でしかないという哀しみを感じてしまった……。このような感覚を持つ人は、一般的に変人扱いされそうである。が、いうところのハレの場には、必ずケと響き会うからこその「はれやかさ」があるのであって、そのあたりを知らぬ顔で通しているほうが、実は変なのではなかろうか。多くの人は、社交術として割り切っているが、この「術」ほどに割り切れないものもない。冠婚葬祭への古くさい権力の介入は、相変らずだ。そんな風潮に、べーっと舌を出してみせた滑稽句でもあると、私には読めた。(清水哲男)


April 2241999

 逃げ水のごと燦々と胃が痛む

                           佐藤鬼房

々と胃が痛むとは、珍しい表現だ。しかも「逃げ水」のようにというのだから、時々キリキリッとあざやかに痛んでは、またすうっと嘘のように痛みがおさまるという症状だろうか。私は幸いにして、ほとんど腹痛とは無縁できたので、句の種類の痛みには連想が及ばない。慢性的な鈍痛でないことだけは、わかるのだが……。「逃げ水」は、科学的には蜃気楼現象の一種と考えられているそうだ。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、そこには水の気配もない。そこから遠くを見ると、また前方には「水」がある。あたかも水が逃げてしまったように感じられることから「逃げ水」と言う。古来「武蔵野の逃水」は有名で、古歌にも登場する。昔の武蔵野はどこまで言っても草の原という趣きだったので、風にそよぐ草また草を遠くから見ると、しばしば水が流れているように見えたのだろう。現在の季題としては武蔵野に限定されてはおらず、掲句のように、一般的にそうした現象を詠むようになった。(清水哲男)


March 0732000

 花種子を播くは別離の近きゆゑ

                           佐藤鬼房

者は東北の人だから、実際に花の種子を播(ま)くのは、四月に入ってからになるのだろう。年譜によれば、三十代より胆嚢を病み、頻繁に入退院を繰り返している。したがって、句の「別離」には、みずからの死が意識されている。いま播いている種子が発芽して花をつけるころには、もはや生きていないかもしれないという万感の思い。だからこそ、いつくしみの思いをこめて種子を播き、新しい生命を誕生させたいのだというロマンチシズム。かつて詩人の三好豊一郎(故人)が、鬼房の句について、次のように書いたことがある。「俳諧の俳味に遊ぶよりも、俳句という形に自己の人生への感慨を封じこめることで、外界はおのずから作者の心象の詩的イメージとなって描き出される。そういう句が多い」(「俳句」1985年7月号)。掲句もその通りの作品で、現実の「花種子を播く」という外界的行為は、抽象化され心象化されて独特のロマンチシズムへと読者を誘っているのだ。読んだ途端に、同じ東北人だった寺山修司の愛した言葉を思い出した。「もしも世界の終わりが明日であるにしても、私は林檎の種子を蒔くだろう」。『何處へ』(1984)所収。(清水哲男)


April 2042000

 蝌蚪の辺に胎児をささぐごとくたつ

                           佐藤鬼房

蚪(かと)は「蛙の子」、つまり「おたまじゃくし」のこと。なにせ俳句は短い詩だから、使う言葉も短いほうが好まれる。たとえば「かいつぶり」は五音だが、「にお(鳰)」と言い換えれば二音でまかなえるし、「ベースボール」は「野球」という翻訳語を使って同様に節約する。要するに漢語表現を珍重するわけで、それも少々使い過ぎで、日常用語としては通じない言葉までもが多用されてきている。さしずめ「蝌蚪」などは、その好例だろう。「おたまじゃくし」を見て「あっ、蝌蚪だ」と反応するのは、俳句趣味を持ちあわせている人くらいのものである。このあたりは、今後の俳句の考えどころだ。さて掲句だが、妊婦である妻とおたまじゃくしを見ている作者の感慨だ。「ささぐごとく」に、句の命がある。妊婦が足許あたりをのぞき込むときに、そおっと下腹に両手をそえるのは自然体だ。その姿を見て、作者は「ささぐごとく」と言っている。ここには妻への思いやりの心が溢れているし、蛙の子という生命体と「胎児」というまだ見ぬ生命体に共通する「命」への賛歌が奏でられている。地味だが、命の芽吹く春にふさわしい佳句と言えよう。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


August 0682000

 魔の六日九日死者ら怯え立つ

                           佐藤鬼房

月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。原爆の残虐性に対して、これほどまでに怒りと戦慄の情動をこめて告発した句を、他に知らない。死してもなお「魔」の日になると「怯え立つ」……。原爆による死者は、いつまでも安らかには眠れないでいるのだと、作者は言うのである。原爆投下時に、作者はオーストラリア北部のスンバワ島を転戦中だった。敗戦後は捕虜となり、連作「虜愁記」に「生きて食ふ一粒の飯美しき」などがある。だから、原爆忌や敗戦日がめぐってくると、おざなりの弔旗を掲げる気持ちにはなれなくて、心は「死者」と一体となる。弔旗は弔旗でも、句は死者と生者にむかって、永遠に振りまわしつづける万感溢れる「弔旗」なのだ。原爆の日から半年後の早春に、私は夜汽車で広島駅を通過した。小学二年生だったが、「ヒロシマ」というアナウンスに目が覚め、プラットホームや背後の街に目を凝らしたことをはっきりと覚えている。ホームにも街にも灯がほとんどなく、全体はよく見えなかった。大きな駅だという雰囲気は感じられたが、子供心にも「死の街」だと思った。生き残った被爆者の方々の平均年齢は、今年で七十歳を越えたという。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


September 1092000

 不漁の朝餉鍋墨につく静かな火

                           佐藤鬼房

漁かが不明なので、無季句としておく。「不漁」に「しけ」のルビ。漁師の生活は知らないが、早朝の漁から戻っての朝餉の場面かと思う。大漁であれば活気に満ちる朝餉の座も、沈欝な雰囲気に包まれている。不漁が、もう何日もつづいているのだ。自在鉤(じざいかぎ)で囲炉裏に吊るした鍋のなかでは、いつものようにグツグツと海の物が煮えている。が、みな押し黙っている。ときおり鍋墨(なべずみ)に移った小さな火片が、静かに明滅している。掲句の鋭さは、落胆した人間の視線の落とし所を、的確に捉えているところだ。心弱いとき、人は視線をほとんど無意識のままに弱々しいものに向けるようだ。茫然とした心は、知らず知らずのうちに静かで弱々しいものに溶け込んでいくのか。そこで、すさんだ心情のいくばくかは慰謝され治癒される。この視線の動きは人間のこしゃくな知恵によるのではなくて、自然にそなわった(換言すれば、天が与え給うた)自己救済へとつながる身体的機能の一つだろう。だから、この句が特殊なシチュエーションを描いてはいても、普遍性も持つのである。ところで現代では、もはや囲炉裏で煮炊きする生活は消えてしまった。実際に「鍋墨」を知らない人のほうが、多くなってきただろう。このときに、私たちの日常生活における「静かな火」は、どこにあるのだろうか。心弱い視線の現代的な落とし所は、どこにあるのか。合わせて、考えさせられた。『海溝』(1976)所収。(清水哲男)


January 2112002

 金借りて冬本郷の坂くだる

                           佐藤鬼房

和初期、作者十九歳の句。「本郷」は東京都文京区の南東部で坂の多い町だ。句の命は、この本郷という地名にある。いまでこそ一般的なイメージは薄れてきたようだが、その昔の本郷といえば、東京帝国大学の代名詞であった。そんな最高学府のある同じ町で、作者は貧しい臨時工として働いていた。生活のために金を借りて本郷の坂道を「くだる」ときの思いには、当然のように天下の帝大への意識が働いていただろう。六歳で父親を失い、本を読むことの好きだった若者としては、家庭環境による条件の差異が、これほどまでに進路を制約するものであることを、このときに痛切に実感したのである。そんなことはどこにも書いてないけれど、「本郷の坂」と地名を具体的に書いた意味は、そこにある。のちに鬼房は「わが博徒雪山を恋ひ果てしかな」と詠んだ。「わが博徒」とは、若き日の野心を象徴している。野心のままに故郷を離れ、「雪山を恋ひ」つつもあくせくと都会で生きているうちに、いつの間にか我が野心も「果て」てしまったという自嘲句である。作者は戦後の「社会性俳句」を代表する存在と言われるが、この種の句を拾っていくと、むしろ石川啄木などに通じる抒情の人であったと言ったほうがよいように思う。一昨日(2002年1月19日)、八十二歳で亡くなられた。合掌。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


March 0132002

 三椏の花三三が九三三が九

                           稲畑汀子

や三月。何かふさわしい句をと、手当たり次第に本をひっくり返しているうちに、この句に出会えた。これだけたくさん「三」の出てくる句は、他にはないだろう。季語は「三椏(みつまた)の花」で春。枝や幹が和紙の原料になる、あの三椏の黄色い花だ。和紙の需要が減り、近年では観賞用に植えられることが多くなったという。佐藤鬼房に「三椏や英国大使館鉄扉」とあるところを見ると、ヨーロッパなどでは古くから観賞用だったのかもしれない。掲句には、作者の弁がある。「三椏の花を見た時に私は思わず九九を口ずさんでいた。俳句の中に九九を使って数字を並べただけの奇を衒(てら)った表現と思う人があるかもしれないが、私は見たまま感じたままを俳句にしたにすぎないのである。枝が三つに分かれ、その先に花が三つ咲く。九九を通して花の咲き具合を想像して頂ければこの句は成功といえよう。ともかく私はこの句が気に入っている」。いやあ、私も大いに気に入りました。たしかに「三三が九」と咲くのです。九九を覚えたころの子供の心が、思いがけないきっかけから、ひょっこりと顔を出した……。このこと自体が、楽しい春の気分によく通じている。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 1352002

 陽はありき十九の夏の小石川

                           佐藤鬼房

譜を見ると、作者は十九歳のとき(1938年・昭和十三年)に東京・小石川植物園の裏手に移り住み、日本電気本社の臨時工として働いた。いまでも当時の名残なのだろうか、小石川から飯田橋にかけての一帯には小さな町工場があちこちにある。青春追懐句。六十代の句と思われる。一見、リリカルな美しさを帯びた句と読めるが、なかなかに苦い味わい。四季を通じて、もっとも「陽」があって当たり前なのは「夏」なのだから、その季節に寄せてあえて「陽はありき」と詠んだところに、作者の苦しかった若き日がしのばれる。おそらくは物理的にも「陽」のあたらない下宿暮らしであり工場勤務だったのだろうし、精神的にも前途への「陽」はさして見えていなかったということだろう。しかしいま省みて思うに、物心両面での苦しさはあったけれど、そこには「十九」という若さゆえの「陽」が確かにあったのだと、しみじみと思い出している。屈折してはいるが、おのれの若き日、若き生命への賛歌だと受け取っておきたい。この句を読んで、自然に自分の十九歳のころに意識が動き、真っ暗な大学受験浪人生だったことを思い出し、しかし私にもそれなりの「陽」はあったのだと追懐した次第。ヘルマン・ヘッセじゃないけれど、はるか彼方に過ぎ去ってみて初めて「青春は美し(うるわし)」なのでした。『何處へ』(1984)所収。(清水哲男)


January 1912004

 妄想を懷いて明日も春を待つ

                           佐藤鬼房

語は「春(を)待つ」で冬。八十三歳で亡くなった鬼房、最晩年の作だ。うっかりすると読み過ごしてしまうような句だが、老境と知って読むと心に沁みる。「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。この「明日」は文字通りに一夜明けての物理的な明日なのであって、「明日があるさ」と歌うときのような抽象的観念的な未来を意味していない。逆に言えば、高齢者にとっての未来とは、すぐにもやってくる物理的な明日という日くらいがほぼ確かなものであって、冬の最中に春を想うことすらが、既に「妄想」の域にあるということだろう。作者の身近にあった高野ムツオの感想には、この妄想は「体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作りに生きること」とあり、むろんそういうことも含まれてはいようが、まず私は物理的な明日と「春を待つ」心にある春との遠さを思わずにはいられない。もはや十分に老いたことを自覚はしているが、それでも明日という日はほぼ確実に現実として訪れてくるだろう。だから、その「明日も」また今日と同様に、そのまた「明日」を思いつつ、「妄想」のなかの遠い春の日まで生きていこうという具合に。明日から、そしてまた次の日の明日へと……。老人である人の心とは、誰しもこの繰り返しのうちにあるのではなかろうか。八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。そんな気持ちで句に帰ると、ますます重く心に沈んでくる。遺句集『幻夢』(2004・紅書房)所収。(清水哲男)


September 1192005

 砂に陽のしみ入る音ぞ曼珠沙華

                           佐藤鬼房

語は「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」で秋。植物名は「彼岸花」だ。墓場に多いので「死人花(しびとばな)」とも。掲句を読んで、高校時代のことを思い出した。バス停から自宅までの近道に、ちょっとした墓地があって、明るいうちはそこを通り抜けて帰宅した。墓地には曼珠沙華が点々と咲いており、当時は土葬だったので、地下の死人の血を吸い上げたような赤い色が不気味に思えたものだ。後に読むことになる北原白秋の「曼珠沙華」の出だしは、次のようである。「ごんしゃん ごんしゃん どこへゆく/赤いお墓の ひがんばな/きょうも手折(たお)りに 来たわいな//ごんしゃん ごんしゃん 何本(なんぼん)か/地には七本(しちほん) 血のように/ちょうど あの児(こ)の 年(とし)のかず」。よく晴れた日の午後の、人っこ一人いない墓地の静寂……。掲句の作者は、それを逆に「砂に陽のしみ入る音」と表現している。すなわち、無音の音がしていると言うのだ。いま思えば、私の通っていた墓地でも、たしかに無音の音がしていたような気がする。それも墓の下に眠る死者たちへ、天上の「陽」がじわりじわりとしみ入る「音」(のようだ)と聞いたところに、作者の無常観があらわれている。私たちが墓場に佇むときの一種名状し難い心持ちが、視覚的に、そして聴覚的にも的確に表現されている見事な作だ。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)


May 0752007

 川蝉の川も女もすでに亡し

                           佐藤鬼房

語は「川蝉(かわせみ・翡翠)」で夏。京都野鳥の会の川野邦造氏が「翡翠の夏の季語は解せない」として、「冬枯れの川べりをきらりと飛ぶ姿は夏以上に迫力がある」と「俳句界」(2007年5月号)に書いている。私もかつて多摩川べりに暮したので、冬の翡翠もよく知っているし賛成だ。ただ古人が夏としたのは、新緑の水辺とのマッチングの美しさからなのだろう。この句は作者還暦のころの作と思われるが、若い読者は通俗的な句として受け取るかもしれない。なにせ、道具立てが整い過ぎている。眼前を飛翔する川蝉の美しい姿に、ともにあった昔の山河もそして「女」もいまや亡しと、甘く茫々と詠嘆しているからだ。しかし私は、こうした通俗が身にしみて感じられることこそが、老齢に特有の感覚なのだと思う。ごくつまらなく思えていた諺などが、ある日突然のように身にしみてその通りだなと感じられたりもする。老齢、加齢とは、かなりの程度で具体的に通俗が生きられる年齢のことではあるまいか。若さは川蝉のようにすばしこく感性や神経を飛ばせるけれど、老いはそのような飛ばし方にはもう飽き飽きして、とどのつまりはと世間の通俗のなかに沈んでいく。格好良く言い換えれば、無常感のなかに没することを潔しとするのである。したがって、この句にジーンと来た読者はみな、既に老境に入っているはずだというのが、私の占いだ(笑)。『朝の日』(1980)所収。(清水哲男)


December 06122007

 月光とあり死ぬならばシベリアで

                           佐藤鬼房

房は昭和15年入隊。中国から南方へ転進、スンバワ島で終戦を迎えた。太平洋戦争当時青年期を迎えた男達は否応なく戦争に駆り立てられていった。鬼房は南の島で囚われたが、ソ連の虜囚となった何万もの日本兵はシベリアの強制収容所に送られた。その中には中国でたまたま同じ場所に居合わせた部隊もあったかもしれない。シベリアの大地を照らす月は寒々とした冬の月を思わせる。寒さと飢えに苛まれた日常と労働がどれほど厳しいものであったか、その痛苦の体験から掴みとったものを香月泰男は絵に、石原吉郎は詩や文章に表している。収容された多くの人たちは再び故国の土を踏むことなくシベリアの凍土に葬られた。「死ぬならばシベリアで」の言葉には、望郷の念を胸に短い生涯を終えた同世代の青年たちへの愛惜がこもっている。同じように捕虜になった自分が無事帰還したことに傷のような負い目も残ったかもしれない。そうでなくとも、この時代に青年期をくぐりぬけた人達は若くして戦死した仲間に対して自分たちが生き延びたことに、すまなさに似た気持ちを持ち続けていたように思う。鬼房と同年齢のうちの父などもそうだった。世が繁栄すればするほど戦争の記憶は陰画のように心の底に焼き付けられたままであったろう。死ぬならば、の呼びかけは生きながら月光を浴びる鬼房のかなわぬ願いだったのかもしれない。『現代俳句12人集』(1986)所載。(三宅やよい)


February 0322008

 糸電話ほどの小さな春を待つ

                           佐藤鬼房

のひらで囲いたくなるような句です。どこか、夏目漱石の「菫程な小さき人に生れたし」(増俳1997.04.05参照)という句を思い出させます。どちらも「小さい」という、か弱くも守りたくなるような形容詞に、「ほど」という語をつけています。この「ほど」が、その本来の意味を越えて、「小さい」ことをやさしく強調する役目をしています。さて、今年の冬はいつにもまして寒く感じましたが、早いもので明日は立春になります。ということで本日は節分。この日にはわたしはたいてい鬼の役割をしてきましたが、子供が大きくなってからはそれもなくなりました。「節」といい「分」といい、昔の人はよほど寒さに区切りをつけたかったものと思われます。掲句、「糸電話」を「小さい」ことの喩えに使うことに、異議をとなえる人もいるかもしれません。しかし、感覚としてわからないでもありません。糸のほそさ、たよりなさ、そこに発せられる声の小ささ、あるいは会話のなかみのけなげさ、そのようなものがない交ぜになって、こういった発想がでてきたのでしょう。「春を待つ」人が、冷たい手で糸電話を持つ。その糸の先は、おそらくもう春なのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 0632009

 切株があり愚直の斧があり

                           佐藤鬼房

ちのくの土着の想念を背負って屹立する俳人である。「愚直」は愚かなほどまっすぐなこと。愚直が自己投影だとすると「愚」は自己否定だけれど、「直」は肯定。「愚直な私」と書いたら、半分は自分を褒めていることになる。作品で自己肯定をみせられるほど嫌味なことはない。自己否定するのなら、「愚かでずるい私」くらいは踏み込んで言ってもらいたい。だからこの句の愚直を僕は自己投影とはとらない。これは斧のことであり他者のことである。斧が深くまっすぐに切株に刺さっている風景に託して、ただ黙々と木を伐り、田を耕すしかない他者について言っている。こういう「愚直」を作者は認め自らもそうありたいと願っているのである。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)


November 12112010

 墓碑銘を市民酒場にかつぎこむ

                           佐藤鬼房

季の句。昭和二十六年刊行の句集に収録の作品だから、まだまだ戦後の混沌と新しい社会への希望が渦巻いていた頃。墓碑銘を市民酒場にかつぎこむイメージは、市民革命への希求がロシア革命への憧憬を根っこに持っていた証だ。強くやさしい正義の赤軍と悪の権化の独裁との闘い。この頃の歌声喫茶で唄われたロシア民謡。赤提灯を市民酒場と呼び、卒塔婆を墓碑銘と呼ぶモダニズムの中に作者の青春性も存した。60年を経て、プロレタリア独裁も搾取も死語となった今どういう理想を僕らは描くのか。どういうお手本を僕らは掲げるのか。或いはそんなものは無いと言い放つのか。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)


February 0222011

 憶い出にもたれて錆びる冬の斧

                           高岡 修

かなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)


September 1492011

 ずっしりと水の重さの梨をむく

                           永 六輔

のくだものは豊富で、どれをとってもおいしい。なかでも梨は秋のくだものの代表だと言っていい。近年は洋梨も多く店頭に並ぶようになったが、日本梨の種類も多い。長十郎、幸水、豊水、二十世紀、新高、南水、愛宕、他……それぞれの味わいに違いがある。品種改良によって、いずれも個性的なおいしさを誇っている。私が子どもの頃によく食べたのは、水をたっぷり含んだ二十世紀だった。梨を手にとると、まず「ずっしり」とした「重さ」を感じることになる。それはまさに「水の重さ」である。梨は西瓜や桃に負けず水のくだものである。梨の新鮮なおいしさを「重さ」でとらえたところが見事。作者が詠んでいる「水の重さ」をもった梨の種類は何だろうか? それはともかく、秋の夜の静けさが、梨の重さをより確かなものにしているように思われる。古書に梨のおいしさは「甘美なること口中に消ゆるがごとし」とか「やはらかなること雪のごとし」などと形容されている。梨の句に「梨をむくおとのさびしく霜降れり」(日野草城)「赤梨の舌にざわつく土着性」(佐藤鬼房)などがある。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)


September 2292012

 夕月の砂山に呼び出されたる

                           佐藤鬼房

日が旧暦八月七日、六日月ということなので、ここ数日の月がいわゆる夕月。ただでさえ夕暮れからしばらくしか見えないが、今年は台風の影響もありここまでなかなか遭遇できなかったのではないか。そんな夕暮れの砂山に呼び出されたのだ、なんだかどきどきする。見渡す限りの砂の上にあるのは二人の影とそれを見下ろす夕月、聞こえるのはひたすらな潮鳴りと、確かな人の息づかいだ。砂山を指で掘ったらまっかに錆びたナイフが埋まっていた、と歌っていたのは石原裕次郎だけれど、覆いつくしているようでいて、いつか風がすべてを晒してしまうかもしれない砂。絶えず動いているその砂の流れの果ては静かに濡れて、しんとした海にも育ちつつある月が漂っていることだろう。「新日本代歳時記 秋」(2000・講談社)所載。(今井肖子)


November 16112012

 頸捩る白鳥に畏怖ダリ嫌ひ

                           佐藤鬼房

家や音楽家、詩人、小説家など芸術家の名前を用いる句は多い。その作家の一般的な特徴を通念として踏まえてそれに合うように詠うパターンが多い。例えば桜桃忌なら放蕩無頼のイメージか、はにかむ感じか、没落の名家のイメージか。そんなのはもう見飽きたな。「ダリ嫌ひ」は新しい。嫌ひな対象を挙げたところが新しいのだ。「ダリ嫌ひ」であることで何がわかるだろう。奇矯が嫌いなんだ鬼房はと思う。頸を捩る白鳥の視覚的風景だけで十分にシュールだ。この上何を奇矯に走ることがあろうか。現実を良く見なさい。ダリ以上にシュールではありませんか。鬼房はそういっている。『半迦坐』(1989)所収。(今井 聖)


May 1652015

 さんさんと金雀枝に目があり揺れる

                           佐藤鬼房

関先に金雀枝の大ぶりの甕のような鉢が置いてあり花盛りだ。ほとんど伸び放題でどんどん咲いて散っているが、くたびれてぼんやり帰宅した時その眩しさを超えた黄に迎えられるとほっとする。我が家の金雀枝は黄色一色だが、掲出句のものは赤が混じっている種類だろう、おびただしい花の一つ一つが目のように見えている。一般的に、小さいものがぎっしり、という状態はそれに気づくとちょっとぞわっとするものだ。筆者にとってはピラカンサスや木瓜の花などがその類なのだが、作者にとってこの金雀枝はそうではない。金雀枝の風に遊ぶ自由な枝ぶりと初夏の光を湛えた花の色が、さんさんと、という言葉を生んで明るい。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます