v句

August 1081998

 桃の種桃に隠れむまあだだよ

                           中原道夫

桃、水蜜桃……どう呼んでもいいけれど、やわらかさと品位ある香りで、私たちを魅了してやまない初秋のくだものの王さま。道夫は視点をちょいとずらして、水蜜したたる果肉の奥に隠れひそむ種にズバリ迫らんとする。水気たっぷりの果肉を惜しむように、しゃぶりつきながら徐々に種へと迫る。鎮座まします種はまるで宝物のようだ。世に桃を詠んだ句は多いが、その種を詠んだ句はわずかしかない。あわてず、ゆっくり、隠れんぼの鬼でも探すように「もういいかぁーい」と、楽しみながらしゃぶり進む様子。まじめに言うのだが、桃はどこか道夫のアタマに似てはいまいか。うん、種もどこかしら似ているような気がしてくる。最新の句集『銀化』(1998)374句中の一句。道夫は10月からいよいよ結社「銀化」を主宰する。(八木忠栄)


February 0322001

 鬼もまた心のかたち豆を打つ

                           中原道夫

戸中期の俳人・横井也有の俳文集『鶉衣』の「節分賦」に、節分の行事は「我大君の國のならはし」だが「いづくか鬼のすみかなるべし」と出てくる。元来が現世利益を願う行事なので、そんな詮索は無用なのだが、揚句では自分のなかにこそ鬼が住んでいるのだと答えている。鬼は、ほかならぬ自分の「心のかたち」なのだと……。だから豆を撒くのではなく、激しく「豆を打つ」ことで自分を戒めているのだ。真面目な人である。そして、こうした鬼観が真面目に出てくるのは、個人のありようを深く考えた近代以降のことだろう。也有もまた、とても作者ほどには真面目ではないが、世間から見ればいまの自分が鬼かもしれぬとも思い、こう書いた。「行く年波のしげく打よせて、かたち見にくう心かたくなに、今は世にいとはるる身の、老はそとへと打出されざるこそせめての幸なり」。「老」が「鬼」なのだ。てなことを炬燵でうそぶきつつ、そこは俳人のことだから一句ひねった。「梅やさく福と鬼とのへだて垣」。ところで東京辺りの豆撒きで有名なのは浅草寺のそれで、ここでは「鬼は外」と言わないのでも有名だ。言わないのは、まさか観音様のちかくに「鬼のすみか」があるはずもないという理由からだという。まさに現世利益追及一点張りの「福は内」の連呼というわけだが、だったら、もったいないから豆撒きなんかしないほうがよいのではないか。と、これは私の貧乏根性の鬼のつぶやきである。『歴草』(2001)所収。(清水哲男)


February 2122002

 週刊新潮けふ發賣の土筆かな

                           中原道夫

聞の地方面に、そろそろ「土筆(つくし)」の写真が春の便りとして載るころだ。筆の形に似ているので、土筆と言う。なるほど。作者は、実際にこの春はじめての土筆を発見したのだろう。ぽっと気持ちが温まった耳に、例の子供の声によるコマーシャル「しゅうかんしんちょうは、きょうはつばいで-す」が響いてきたのか、ふとよみがえってきたのか。ともかく、土筆と子供の声で春の訪れの感じが増幅されたというわけだ。発売された「週刊新潮」本体とはほぼ無関係に、コマーシャルを持ってきたところが面白い。「ほぼ無関係」と言うのは、たぶん作者は子供の声のほかに、あの谷内六郎の表紙絵もイメージしているに違いないと思ったからである。土筆と子供と、そして谷内六郎の絵。これだけ揃えば、まさに「春が来た」ではないか……。創刊(1956)時のスタッフに聞いた話だと、表紙絵を描く人は、九分九厘「ベビーギャング」などの漫画家・岡部冬彦に決まっていたのだという。それが、土壇場で谷内六郎に変更になった。依頼に行った編集者が、画稿料として「これくらいで如何でしょう」と片手を広げて見せたところ、即座に嬉しそうにうなずいた。編集者は五万円のつもりだったのだが、この仕事で一世を風靡することになる抒情画家は、てっきり五千円だと思ったのだった。『歴草(そふき)』(2000)所収。(清水哲男)


June 2862002

 瀧壷に瀧活けてある眺めかな

                           中原道夫

語は「瀧(滝)」で夏。なんいっても目を引くのは「滝活(い)けてある」という見立てだ。花瓶などに花が活けられているように、瀧壷に瀧が活けてあると言うのである。落下してくるものを活けるとは、かなり無理があるのではないか。と、誰しもが思うところだろうが、しかし言葉面にこだわれば、「活ける」には土や灰の中に埋めるという意味もある。「炭を活ける」「土管を活ける」などと使い、「埋ける」とも書く。すなわち「活ける」の原義は「生かす」ということであり、ここから考えると、瀧壺が瀧を生かしていると見るのも不自然ではない理屈だ。瀧壺があって、はじめて瀧は堂々の落下を遂行することができる……。実際にも、勢いよく落ちてくる瀧を見ていると、瀧壺から太い水の脚が立ち上がっているようだ。「眺めかな」の押さえ方も、なかなかに憎い。ここであれこれ細工をすると、句が縮こまってしまい、瀧の雄大さが伝わらないだろう。読者をぽーんと突き放すことによって、句の姿自体も瀧のように太くたくましくなっている。どこの瀧だろうか。私は咄嗟に、中学の修学旅行で行った日光の華厳の瀧を思い出した。生まれてはじめて見た大きな瀧だったから、いつまでも印象は強烈なままに残っている。『アルデンテ』(1996)所収。(清水哲男)


July 0372003

 冷麥の氷返すがへす惜しき

                           中原道夫

語は「冷麥(ひやむぎ)」で夏。より冷たい状態で賞味してもらうべく、皿には適度に「氷」をあしらって出す。見た目にも涼やかだ。句の冷麦は、酒席などで出されたものだろう。いずれにしても、他人が同席している場である。作者はその場で、実は氷をひとかけら口にしたかった。しかし、まさか子供じゃあるまいし、人前でそんなことはできない。はしたないという意識が先に立って、逡巡しながらもあきらめたのである。そのことが「返すがへす」も残念だと、一人になってから悔しがっている図だ。「返すがへす」には、思い切って口にしようかと、箸の先で氷をさりげなく返したりした仕草に掛けられている。いっちょまえの男が、氷ごときでうじうじするとは何たることか。読者は笑ってしまうかもしれないが、でも、こういうことは誰にでも起きているのではあるまいか。この「氷」を他の何かに置き換えれば、思い当たることの一つや二つは、誰にもあると思う。ああ、あのときに食べとけばよかった、失敗したなあ。と、私などはしょっちゅうだ。たとえば、宴席でのデザート。句の氷とは違って、食べたってはしたなくも何ともないのだが、それでも口にするタイミングというものがある。さてお開きとなり、みなが立ち上がるところで食べたくなったら、慌てて口に持っていくのはみっともないから、未練がましくもあきらめるしかない。こうなると、いかに豪勢なメロンでも、句の氷と同格になってしまう。宿酔気味で喉が乾いて深夜に目覚め、ふっと思い出して「返すがへす惜しき」と何度思ったことか。掲句の収められている句集のタイトルは『不覺』(2003)と言う。(清水哲男)


November 28112003

 炬燵せりこころ半分外に出し

                           中原道夫

かりますねえ、この気持ち。そろそろ「炬燵(こたつ)」を出そうかというとき、どこかに「いや、まだ早いかな」という気持ちが働く。ひとたび炬燵を出して入ってしまうと、つい離れるのが億劫になるので、それを警戒するからだ。外出はむろんのこと、隣の部屋に行くことすら面倒臭くなる。作者もそんな思いで我慢をしていたのだが、とうとう辛抱たまらずに、出すことにした。しかし、それでもなお「こころ半分」は炬燵の「外」に向けながらと言うのである。それほど炬燵は快適だし、かといって行動力が落ちるのも困るしと、逡巡しつつも「炬燵せり」の感じがよく伝わってくる。一瞬「炬燵せり」は「炬燵出す」でも面白いかなと思ったけれど、句のほうが既に炬燵に入りながらもまだ逡巡している可笑しさがあって、やはり「せり」で正解だろう。炬燵というと、いまはほとんどの家庭が赤外線コタツを使っている。戦後もだいぶ経ってからの発明だが、聞いた話では、発明者は小さな町工場の技術屋だったという。そのパテントを大手のメーカーが極安で手に入れ、盛大に宣伝しまくったことで、今日の隆盛をもたらした。でも、最初のうちはコタツの中が赤く見えなかったので、あまり売れなかったらしい。そこで一工夫して内部の電球を赤く塗ってみたところ見た目にも暖かそうになり、そこからブレークしたという話もある。機能や性能が優れていても、それだけでは売れないという商売の難しさ。パソコンではないけれど、インターフェイスのデザインはとても大事だ。我が家にも、この方式のコタツがある。出そうか出すまいか、まだぐずぐずと迷っている。『不覺』(2003)所収。(清水哲男)


March 1832005

 小腹とは常に空くものももちどり

                           中原道夫

語は「ももちどり(百千鳥)」で春。春の朝,さまざまな鳥が群れてさえずっている姿を指す。この様子の鳴き声だけに重点を置いた季語が「囀(さえずり)」で、当歳時記では「百千鳥」を「囀」の項に分類しておく。「小腹(こばら)」は、中国語では妊婦の腹など具体的な形状を指すようだが、日本語では抽象的に使う。ちょっと空腹を覚えることを「小腹が空く」、少々むかつくことを「小腹が立つ」など。ただ、現在ではどうだろうか。「小腹が空く」は聞くが,「小腹が立つ」とはすっかり耳にしなくなった。したがってか、作者は「小腹とは常に空くもの」と断定している。しかしこれは一種の決めつけ、ドグマである。なぜなら、「常に」そうなのかという素朴な疑問に耳をかそうとしない物言いだからだ。だから作者の腕の見せどころは、このドグマを如何に普遍化するか,誰をもなるほどと納得させるるかにかかってくる。そこで、下五にもってきたのが「ももちどり」。上手いっと、私は唸りましたね。この下五で「小腹」は小鳥の腹の形状へと可視的に転化され,しかも小鳥が早起きしてさえずるのは空腹のためだから、生態的にもぴしゃりと合っている。先のドグマは、見事に「ももちどり」の愛らしい姿に吸引されてしまったというわけだ。普通の写生句は具体を言葉にするのだが、掲句は逆に言葉から出て具体を呼び込んでいる。ただし、この作り方は下手をすると、ついに具体に及ばない危険も伴うので,あまり人に薦める気にはなれないけれど。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


November 30112005

 汁の椀はなさずおほき嚔なる

                           中原道夫

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。私などは「くしゃみ」と言ってきたが、「くさめ」は文語体なのだろうか。日常会話では聞いたことがないと思う。句で嚔をしたのは、作者ではない。会食か宴席で、たまたま近くにいた人のたまたまの嚔である。ふと気配を感じてそちらを見ると、「ふぁふぁっ」と今にも飛び出しそうだ。しかも彼は、あろうことか汁がまだたっぶりと入った椀を手にしたままではないか。「やばいっ」と口にこそ出さねども、身構えた途端に「おほき嚔」が飛び出してきた。このときに、汁がこぼれたかどうかはどうでもよろしい。とりあえずの一件落着に、当人はもとより作者もまたほっとしている。安堵の句なのだ。汁碗を持ったままの嚔は滑稽感を誘うが、汁碗でなくとも、何かを持ったまま嚔をしたことのある人がほとんどだろう。収まってみれば、何故持ったまま頑張ったのかがわからない。よほどその汁の味が気に入っていたのだという解釈もなりたつけれど、そうではなくて私は、汁碗をもったままのほうがノーマルな感覚だと思う。それはこれから嚔をする人の心の中に、たとえ出たとしても「おほき嚔」でないことを願う気持ちがあるからだ。汁碗を持って我慢しているうちに、止まってしまうかもしれないし……。すなわち「おほき恥」を掻きたくないために、最後まで平然を装う心理が働くからなのである。だから、この句は誰にでもわかる。誰にでも、思い当たる。ただし、しょっちゅう嚔が出る人はこの限りではない。出そうになったらさっと上手に汁碗を置いて、すっと後ろを向くだろう。『銀化』(1998)所収。(清水哲男)


November 20112007

 さざんくわはいかだをくめぬゆゑさびし

                           中原道夫

茶花(さざんくわ)は冬の庭をふわっと明るくする。山で出会っても、里で出会っても、その可憐な美しさは際立っている。しかし掲句は「筏を組めぬ」という理由で寂しいという。確かに山茶花の幹や枝は、椿よりずっとほっそりしていて、おおよそ筏には向かないものだ。とはいえ、掲句の楽しみ方は内容そのものより、その伝わり方だろう。集中は他にも〈いくたびもあぎとあげさげらむねのむ〉〈とみこうみあふみのくにのみゆきばれ〉などがあり、そこにはひらがなを目で追っていくうちに、ばらばらの文字がみるみる風景に形づくられていく面白さが生まれる。生活のなかで、漢字の形態からくる背景は無意識のうちに刷り込まれている。目の前にあるガラス製の容器を「ビン」「瓶」「壜」と、それぞれが持つ異なるイメージのなかから、ぴったりくるものを選んで表記している。ひと目で誤解なく伝達されるように使用する漢字はまた、想像の振幅を狭めていることにも気づかされる。一方〈戀の字もまた古りにけり竃猫〉では、逆に漢字の形態を大いに利用してやろうという姿勢、また〈決めかねつ鼬の仕業はたまたは〉では、漢字とひらがなのほどよい調合が感じられ、飽きずに楽しめるテーマパークのような一冊だった。『巴芹』(2007)所収。(土肥あき子)

★「いかだ」は、花筏(桜の花びらが水面に散り、吹き寄せられて流れていく様子)の略だろう、とのご指摘をたくさんいただきました。「筏」と聞いて、ひたすら山茶花の細く混み合った枝ばかり思い描いてしまったわたくしでした。失礼しました。


August 0382008

 平均台降りて夏果てとも違ふ

                           中原道夫

ういえば先日朝日新聞に、清水哲男さんが日本の詩歌はスポーツをきちんと扱っていないと書いていました。なるほどと思っているところに、この句と出会いました。平均台というと、なぜか女子のスポーツです。中学生のときに、体育館の中で、跳び箱の順番を待ちながら、女子が平均台の上で苦労している姿をぼんやりと見ていたものです。夏であれば、体育館の開け放たれた扉の外には、空高く入道雲が盛り上がっていたことでしょう。この句が詠んでいるのは、平均台の上での動きそのものではなく、演技が終わって後のほっとした瞬間です。中空から足を地に下ろす、その時の心情が、閉じられようとする季節に重ねて詠われています。季語は「夏果て」、夏の終わるのを惜しむ気持ちです。ただ、句は夏果てとも違ふと、締めくくっています。この否定は、競技に燃焼しつくせなかったことを表しているのでしょうか。あるいは、季節に取り残した大切なものが別にあるということでしょうか。身体だけではなく、句の結末も、あやうげに中空に浮かんでいるようです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 05112008

 それぞれに名月置きて枝の露

                           金原亭世之介

秋の名月をとうに過ぎ、月に遅れて名月の句をここに掲げることを赦されよ。芭蕉や一茶の句を挙げるまでもなく、名月を詠んだ句は古来うんざりするほど多い。現代俳人・中原道夫は「名月を載せたがらざる短冊よ」と詠んだ。掲出句は月そのものを直に眺めるというよりは、何の木であれ、その枝にたまっている露それぞれに宿っている月を観賞しているのである。雨があがった直後にパッと月が出た。この際「名月」と「露」の季重なり、などという野暮を言う必要はあるまい。実際にそのように枝の露に月が映って見えるかどうか、などという野暮もよしましょう。露ごとに映った月、露を通した月は、直に眺める月よりも幻想的な美しさが増幅されているにちがいない。露の一粒一粒が愛らしい月そのものとなって連なり輝いている。名月で着飾ったような枝そのものもうれしそうではないか。「置きて」がさりげなく生きている。名月の光で針に糸を通すと裁縫のウデが上達する、という言い伝えがあるらしい。うまいことを風流に言ってみせたものである。世之介は10代目馬生(志ん生の長男。志ん朝の実兄)に入門し、勉強熱心な中堅落語家として、このところ「愛宕山」や「文七元結」などの大ネタで高座を盛りあげてくれている。「かいぶつ句集」43号(2008)所載。(八木忠栄)


July 2272009

 蝶白く生れて瀑の夜明けかな

                           八十島 稔

(たき)は滝で夏。滝も地形それぞれによってさまざまな形状がある。掲出句の滝は「華厳瀑にて」という詞書があるから、ドードーと長々しくダイナミックに落ちる日光・中禅寺湖から落ちる滝である。私は夜明けの滝をつぶさに見た経験はないけれど、白い帯になって落ちつづける滝のしぶきから、あたかも白い蝶が次々に生まれ出てくるような勢いが感じられるのであろう。あたりを払うようなダイナミズムだけでなく、蝶を登場させたことで可憐な清潔感が強く表現されている。稔は岩佐東一郎や北園克衛らとともに、戦前に俳句を盛んに作っていた詩人の一人であり、句集『柘榴』を「風流陣文学叢書」の一冊として刊行している。同じ華厳滝を詠んだ句「わが胸を二つに断ちて華厳落つ」(福田蓼汀)には、対照的な豪快な調べがあるけれど、掲出句は静けささえ感じさせるきれいな夜明けである。私事になるが、日光の華厳滝はもう二十数年以上見ていない。真冬のそれを見たときには、別な凄まじさで圧倒された。滝の句では、他に中原道夫の「瀧壷に瀧活けてある眺めかな」に悠揚迫らぬ味わいがあって忘れがたい。『柘榴』(1939)所収。(八木忠栄)


September 2992009

 密密と隙間締め出しゆく葡萄

                           中原道夫

一度通う職場への途中に葡萄棚を持つお宅がある。特別収穫を気にする様子もなく、袋掛けもされない幾房かの固くしまった青い葡萄を毎年楽しみに眺めている。可愛らしいフルーツにはさくらんぼをはじめ、苺や桃など次々名を挙げることができるが、美しいフルーツとなるとなにをおいても葡萄だと思う。たわわに下がる果実、果実を守る手のひらを思わせる大きな葉、日に踊る螺旋の蔓の先など、どれをとっても際立って美しく、古来より豊かさの象徴とされ、神殿の彫刻にも多く刻まれているそれは、時代を越え、愛され続けてきたモチーフである。なにより美酒になることも大きな魅力で、酒神ディオニソス(バッカス)が描かれるとき、かならずその美しい果実が寄り添っている。掲句の下すぼまりの語感の固い感触に、育ちゆく葡萄の若々しい姿と、締め出した隙間に充実する果実に内包される豊かな果汁が想像される。サニールージュ、ヴィーナス、ユニコーン、涼玉、マニキュアフィンガー、これらはどれも葡萄の品種。それぞれに美を連想させる名称である。『緑廊』(2009)所収。(土肥あき子)


April 0742010

 白露や死んでゆく日も帯締めて

                           三橋鷹女

日、四月七日は鷹女忌である。鷹女の凛として気丈で激しく、妖艶さを特長とする世界については、改めて云々するまでもあるまい。一九七二年に亡くなる、その二十年前に刊行された、第三句集『白骨』に収められた句である。鷹女五十三歳。同時期の句に「女一人佇てり銀河を渉るべく」がある。細面に眼鏡をかけ、胸高に帯をきりりと締めた鷹女の写真は、これらの句を裏切ることなく敢然と屹立している。橋本多佳子を別として、このような句業を成した女性俳人は、果たしてその後にいただろうか? 女性としての孤高と矜持が、余分なものをきっぱりとして寄せつけない。弛むことがない。「帯締めて」に、気丈な女性のきりっとした決意のようなものがこめられている。句集の後記に鷹女は「やがて詠ひ終る日までへのこれからの日々を、心あたらしく詠ひ始めようとする悲願が、この一書に『白骨』の名を付せしめた」とある。心あたらしく……掲出の句以降に、凄い句がたくさん作られている。晩年に肺癌をはじめ疾病に悩まされた鷹女は、「白露」の秋ではなく花吹雪の時季に命尽きた。それも鷹女にはふさわしかったように思われる。中原道夫の句に「鷹女忌の鞦韆奪ふべくもなく」(『緑廊』)がある。この句が名句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」を意識していることは言うまでもない。『白骨』(1952)所収。(八木忠栄)


July 0872011

 かたつむり掘削續く殻の奥

                           中原道夫

たつむりの殻の中で掘削が行われているとはっきり直喩にしてしまうところがこの句の特徴。手としてはもうひとつあって、例えば山の掘削音を聞かせ蝸牛の殻を出してきて、まるで殻の中で掘削が行われているかのようですねと読者に感じさせしめるという方法。後者の方が難しい。そう意図しても読者はそこまで突っ込まないかもしれないから。読者に絵解きさせるのではなくて自分で比喩のオチをきちんとつけてしまうやり方。解り易いこと。これが現代流行の一大特徴と思われる。『天鼠』(2011)所収。(今井 聖)




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