1998N9句

September 0191998

 電線のからみし足や震災忌

                           京極杞陽

れて落ちてきた電線が足にからまるという生々しい恐怖感。関東大震災から実に三十五年後(1958)にして、作者はようやくこのように詠むことができた。この句については「ホトトギス」同人の山田弘子の解説がある(京極杞陽句集『六の花』・ふらんす堂・1997)ので、以下、それに譲る。「大正一二年九月一日関東地方を襲った大震災で、京極高光(後の杞陽)の家屋敷は倒壊焼失し、只一人の姉を除き祖母、父母、弟妹ら家族の全員を喪うという悲運に遭遇した。学習院中等科三年、一五歳の時であった。火災に巻き込まれつつ逃げのび九死に一生を得た高光は、後日焼け落ちた玄関に正座のままこと切れていた老家僕の亡骸と対面したという。多感な青春時代に遭遇したこの悲運は、杞陽の人生観・死生観に生涯にわたり大きく影響を及ぼして行った筈である。杞陽を知る上で関東大震災は重要なキーワードの一つと言うことが出来る」。もとより杞陽にかぎらず、久保田万太郎など、関東大震災は多くの人々の生涯にわたる深い傷となって残った。そして阪神淡路大震災の傷跡は、いまに生々しい。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


September 0291998

 風の無き時もコスモスなりしかな

                           粟津松彩子

味ではあるが、これぞプロの句。「ホトトギス」の伝統ここにありとばかりに、凛としている。コスモスは群生するので、かたまって絶えず風に揺れている印象が強いが、風がなくなればもちろん動きははたと止まる。その様子をスケッチしたにすぎないのだけれど、これを言わでもがなの中身と受け取ると、俳句的表現の大半の所以がわからなくなる。この句に、意味などはない。あるのは、自然をあるがままの姿で写生しようとている作者の姿勢だ。無私の眼が、どれほど徹底しきれるものかというそれである。近代的自我などというフウチャカと揺れる目つきを峻拒したところに、子規以来の写生の精神が生きている。かといって「俳句道」だとか「俳句禅」だとかとシャカリキになるのではなく、ここで作者の肩の力は完全に抜けているのであって、そこが他の文芸には真似のできない「味」を産み出している。最近は人事句が大流行で、この種の上質な写生句はなかなか見られない。が、俳句表現の必然とは何かと考えるときに、今でもこの方法は無視できない重さを持ってくる。まあ、そんな理屈はさておいて、一読「上手いもんだなあ」と言うしかない句である。「俳句文芸」(1997年12月号)所載。(清水哲男)


September 0391998

 草刈の籃の中より野菊かな

                           夏目漱石

は「かご」。草を刈ってきた人が、籃を乱暴にひっくり返すと、そこに可憐な薄紫の野菊が混ざっていた。よくあることであり、漱石も「何という不風流なことを……」などとは露ほども思っていない。そこが、よい。主として家畜の飼料にするための草刈りは、早朝の重労働だった。野菊であろうが桔梗であろうが、そんなものを他の草と選り分けている余裕はないのである。美も醜もない。美醜だの可憐だのという認識は、もちろん草を刈る人に日常的にはあるのだけれど、こと労働の現場では美醜を脇に置いた姿勢にならざるを得ないのだ。だから、ここで漱石は風流を言っているのではなくて、ほとんど「おや、まあ」という心持ちで、ちょこっと野菊に挨拶をしている。もう野菊の咲く季節になったのかと、思わず澄んだ空を見上げたかもしれない。漱石は、血まなこで俳句に立ち向かっていた子規や虚子などには、文学的にかなりの距離を置いていた。男子一生の仕事ではないと思っていた。よくも悪くも、その距離がそのまま、はからずもこのような句ににじみ出ているような気がする。『漱石句集』所収。(清水哲男)


September 0491998

 近所に遠慮することないゾ秋刀魚焼く

                           井川博年

サイトでも、評者としておなじみの詩人・井川博年の近作。なにしろ彼は、高校時代に松江図書館で『虚子全集』を読破してしまったというほどの俳句好きだから、俳句についての知識は抜群だ。私も参加している「余白句会」(小沢信男宗匠)の、いわば生き字引的存在である。しかし、あまりにも知り過ぎているということは、クリエーターとしては困ることも多く、とくに五七五と短い詩の世界では往生するのではあるまいか。つまり、どんな発想をもってしても、自分の知っている誰かの句に似てしまったりするわけで、密度の高い知識の隙間を見つけるのは容易ではない。だから、どうしてもこうした破調に傾きやすい。この破調にしても、同種の先例がないわけではなく、あれやこれやと思案の末に、今度は中身の破調にとあいなっていく。かくして井川博年は、美味い秋刀魚を食いたい一心のオタケビをあげて「現代風雅」をむさぼろうとしたのである。窓を開けて盛大に秋刀魚を焼くと、消防車が飛んできかねない現代の東京だ。そんな環境への怒りが、極私的に内向的に炸裂している。いろいろな意味で、私にとっては面白くも馬鹿馬鹿しくもほろ苦いのだが、しかし愛すべき一句ではある。「俳句朝日」(1998年9月号)所載。(清水哲男)


September 0591998

 朝雲の故なくかなし百日紅

                           水原秋桜子

秋くらいまでは盛んに咲きつづける百日紅(さるすべり)。生命力に溢れたその姿は意気軒昂という感じで圧倒されもするが、だからこそ逆に、ときに見る者の心の弱さを暴き出すようにも働く。朝の雲を「故なくかなし」と見つめることになったりする。この句は、辻井喬『故なくかなし』(新潮社・1996)で知った。この本の帯に「俳句小説」と書かれているように、辻井さんが諸家の俳句作品に触発されて書いた十八の短編が収められている。秋桜子のこの句にヒントを得た作品は、表題作に掲げられているだけあって、なかなかに味わい深い。小説については直接本を読んでほしいが、もう一度ここで掲句を眺めてみると、なるほど、どこかに物語を発生させる装置が仕込まれているような気がしてくる。形式的にはまぎれもない俳句なのだけれど、むしろ短歌の世界を思わせる作品だ。秋桜子には、かなりこうした劇的句とでも言える句が多い。句のなかで何かを言い切るのではなく、多く感情的な筋道を示すことで、後の成り行きは読者にゆだねるという方法だ。正直に言って私はこの方法に賛同できないのだが、いまの若い人の俳句につづいている方法としては、現役バリバリのそれである。(清水哲男)


September 0691998

 町あげてミスコンクール秋蝿殖ゆ

                           ねじめ正也

戦後十年目(1955)の句。いつの時代にも小売業者(作者は乾物商)にとって町の活性化は、大問題だ。とにかく、まずは町に人が集まってくれなければ話にならない。だから商店会では知恵を出し合って、集客できそうな祭りやイベントを繰り返し行う。ミスコンクールなどは当時からいまにつづく古典的な客寄せ法のひとつで、その意味では若い女性の威力には目を見張らされるものがある。戦後の各地で、いったいどれくらいの「ミス……」が誕生したことだろう。「ミス古墳」なる栄冠に輝いた女性もいた。ところで、ここでの作者は「町あげて」と書いてはいるけれど、本当はどうも盛り上がっていないらしい雰囲気だ。乾物商とミスコンクールとのミスマッチもさることながら、たとえばコンクールへの応募者が少なくて、町の顔役連中が頭をかかえている状態も考えられる。そんな雰囲気のなかで、作者はしつこく商品につきまとう蝿を追っている。でも、秋の蝿は弱々しいから、なかなか逃げてくれないのである。鬱陶しい気持ちのせいか、このごろはイヤに蝿が殖(ふ)えてきた感じなのでもある。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


September 0791998

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

                           正岡子規

にこれほど有名で、これほどわけのわからない句も珍しい。何度も考えてみたのだが、結局は不可解のままに放置してきた。他の人のいろいろな解釈を読んでも、一つもピンとくるものはなかった。ところが、最近俳誌「未来図」(1998年9月号)を開くに及んで、やっと腑に落ちる解説に会うことができた。目から鱗が落ちた思いである。柿の季節にはいくらか早すぎるが、とても嬉しいので早速引用紹介しておきたい。作家・半藤一利氏の講演記録からの抜粋である。明治十八年十月、子規は漱石から十円を借りて松山より東京に戻る途中、関西に遊んだ。「私は簡単に解釈します。松山の子規記念館に、子規の遺しました『人物見立帳』という直筆の本があります。河東碧梧桐は『大根』、誰某は『玉蜀黍』とか書いてあり、漱石の所を見ると『柿』とあります。つまり子規さんの見立で言うと漱石は柿なんです。ですから、『柿くへば』というのは漱石を思い出しているんですね。お前さんから貰った十円の金をここでみな使っちまったという挨拶の句なんです」。道理で句のわからないわけがわかったと、私は膝を打ったのだけれど、この句を有名にしている理由はまた別にあるということも、はっきりとわかった。蛇足ながら、子規はこの当時としては大金の十円を、ついに返さなかったという。漱石の胃も痛むわけだ。(清水哲男)


September 0891998

 バス降りし婆が一礼稲穂道

                           岸田稚魚

渡すかぎり、たわわに稲の実った田圃道。そこで一人の老婆がバスを降り、彼女は去っていくバスに一礼したのだった。旅の途中の作者は、バスの座席からそれを目撃している。いまどきバスにお辞儀をする人はいないとは思うが、この句が作られた戦後も十数年頃までは、まだこういう礼節を守る人がいた。つまり、バスには「乗せていただく」ものという観念が生きていたのである。単に人を乗せて運ぶ道具ではなく、とりわけて田舎のバスは遠い都会につながっている乗り物ということで、畏怖の念すらを覚える「メディア」そのものだった。そんな乗り物に乗れる人は、村のおエライさんか、たまに都会からやってくる紳士か、とにかくこの老婆は日常的にバスを利用している人ではないと読める。たぶん乗っていた間は緊張の連続だったろうし、降りてからもその緊張感はつづいていて、いまどきの私たちのようにプイとバスに背を向けてしまうことなどはできなかったのだ。礼節と言ったが、礼節とはこのように、緊張のうちに行う無我のふるまいによく露出される。住んでいた村にバスが通いはじめたとき、これに乗れる日など来るわけもないと思っていた昔の少年に、この句は泣けとごとくに浸み入って来た次第だ。『雪涅槃』(1979)所収。(清水哲男)


September 0991998

 物書て扇引さく余波かな

                           松尾芭蕉

波は「なごり」。奥の細道の旅で、金沢から連れ立ってきた北枝が越前松岡まで来て別れるときの句である。句意は、別離にあたって北枝に進呈する句を扇面に書いてはみたものの、どうも意に満たないので、引き裂いてしまったというところだろう。ところが、北枝の書き残した記録によると、このとき芭蕉は「もの書て扇子へぎ分る別哉」と書いたのだそうだ。「へぎ分る」は扇子を裂くのではなく、扇子の骨に張り合わせてある二枚の地紙を剥ぎ分けることだから、相当に句の趣きは変わってくる。掲句のほうが格好はよろしいが、事実は北枝の書いているとおりだと思われる。扇子の表に芭蕉が句を書き、北枝が裏面に脇句をつけ、それをていねいにはがしてお互いの記念としたのである。当時の旅での別れは、生涯の別れであった。いい歳をした大人が、扇子の紙をていねいに引き剥がしている図も、もはや生きて会うことはないだろうという意識を前提にして、はじめて納得がいく。その意味からしても、芭蕉の決定稿より初案のほうがよほどいいのにと、私などは思ってしまう。なお、当歳時記では、句の季語は作られた季節を考慮して「秋扇」に分類しておく。(清水哲男)


September 1091998

 もの置かぬ机上もつとも涼新た

                           井沢正江

窓浄机。そんな言葉を思い出した。爽やかな新涼の雰囲気を、何も置かれていない机という物ひとつで捉えている。ひるがえって、現在ただいまの我が机上はというと、目勘定でざっと百冊ほどの本や雑誌がウヅ高く積まれており、北向きの部屋だから涼しいには涼しいが、とても上品な句になる光景ではない。本を下ろせば、寝る場所がなくなる。昔から書斎は「北堂」といって、光線の変化が少ない北向きの部屋がよしとされてきた。そのあたりは「よし」なのだけれど、机が机として使えない状態は「よくなし」だ。句に戻れば、作者の机の上には常に何も置かれていないのではなくて、一念発起して部屋の整理整頓を試み、その際に机上の物をすべて下ろしたというわけだろう。つまり、部屋全体が爽やかに一新されたのである。話はまたぞろ脱線するが、編集者時代にお邪魔した方々の書斎で最も整理されていたのは、詩人の松永伍一さん宅だった。イラストレーターの真鍋博さんの仕事場も、見事にきれいだった。反対に大先輩には失礼ながら、いまの私の机上とほぼ同じ状態だったのは、作家の永井龍男さんの炬燵の上。なにしろお話をうかがっているうちに、ずるずると本やらゲラやらが当方の膝の上に滑り落ちてくるのであった。『路地の空』(1996)所収。(清水哲男)


September 1191998

 新涼の画を見る女画の女

                           福田蓼汀

アリの一句。会場の様子を画として見ている。画を見るのに少し疲れた作者は、長椅子にでも腰掛けているのだろう。会場は閑散としていると思われる。と、そこに妙齢の美女が現れた。どんな画の前でたたずむのかと好奇の目を光らせていると、彼女は女性が描かれている画の前で足を止めた。裸婦像かもしれない。そこで彼女の視線を追って、作者はもう一度その画を眺めやり、また件の女性に目を戻したというわけだ。したがってこの場合の新涼は、天然自然のそれというよりも、むしろ女が女の画をまっすぐに見つめている爽やかな雰囲気を表現している。最近はたまにしか展覧会に出かけないが、他人がどんな画に興味を示すのかは、かなり気になる。その他人が美女となれば、なおさらだ。わかっているのか、わかっていないのか。あるいは、お前なんかにわかってたまるかなどと、意地悪い目で会場の客を見ていたりする。観賞眼に自信があるわけではない。曲がりなりにも美術記者として社会に出た経験から、とくに他人の趣味嗜好が気になるだけである。若き日の職業柄からとはいえ、まことにもって因果なことである。(清水哲男)


September 1291998

 日の砂州の獣骨白し秋の川

                           藤沢周平

年になって藤沢周平の俳句がまとまって発見された(「小説新潮」1998年9月号・藤沢周平特集参照)。作者がまだ結核で療養中の昭和二十年代の作品で、「のびどめ」という病院の療養仲間の俳句会の機関誌に「留次」の俳号(この俳号もいかにも彼らしい)で載せた67句である。もとより作家になる習作以前の句であるが、やはりここにも後年の人生の機微と人の世の哀歓をたくみにとらえた時代物作家の眼の光りを窺うことができる。これはおそらく「秋の川」のテーマで作ったみのらしく、「天の藍流して秋の川鳴れり」「雲映じその雲紅し秋の川」「秋の川芥も石もあらわれて」の句が並んで発表されている。周平句は、俳誌「海坂」(ここから、かの海坂藩の名が生まれた)に発表した句を含めて、生涯105句あるという。藤沢周平と俳句との関係は、意外と深いものかもしれない。(井川博年)


September 1391998

 観覧車より東京の竹の春

                           黛まどか

は秋になると青々と枝葉を茂らせる。この状態が「竹の春」。作者によれば、この観覧車は向丘遊園のそれだそうだが、そこからこのように竹林が見えるとなると、一度行ってみたい気になった。最近の東京では、郊外でもなかなか竹林にはお目にかかれない。竹は心地よい。元来が草の仲間だから、木には感じられない清潔な雰囲気がある。木には欲があるが、竹にはない。観覧車から見える竹林には、おそらく草原ないしは草叢に似た趣きがあるだろう。作者の責任ではないにしても、せっかくの「東京の竹の春」なのだから、こんなに簡単に突き放すのではなくて、もう少しどのように見えたかを伝えてほしかった。「竹の春」という季語に、よりかかり過ぎているのが残念だ。惜しい句だ。ところで、世界でいちばん有名な観覧車といえば、映画『第三の男』に出てきたウィーンの遊園地の大観覧車だろう。今でもあるそうだが、実際に見たことはない。男同士で観覧車に乗るという発想の奇抜さもさることながら、あの観覧車自体が持っている哀しげな表情を気に入っている。映画のストーリーとは無関係に、ウィーンの観覧車は、どんな遊園地にもつきまとう「宴の哀しみ」を象徴しているように思える。あれに乗ると、何が見えるのだろうか。誰か、俳句に詠んでいないだろうか。『恋する俳句』(1998)所収。(清水哲男)


September 1491998

 射的屋のむすめものぐさ秋祭

                           小沢信男

屋がけの小さな射的屋。ほろ酔い気分のひやかし気分で、作者は的を射っている。だが、めでたく命中して下に落ちた景品に、なかなか店の娘が反応してくれないのだ。いちいち声をかけないと、動こうとはしない。そのうちに、だんだん腹が立ってくる。まだタマは残っているけれど、もう止めたっ。そんな情景だろうか。しかし、娘に立腹はしてみたものの、射的屋を離れて祭りの人込みにまぎれてみれば、目くじらを立てるほどのことでもなかったと、作者は苦笑しているようだ。あの娘だって、旅から旅の生活で疲れているんだろう。そう思えば、娘のやる気のないものぐさな態度も、許せるような気がしてくる。この秋の祭り情緒のひとつとして、やがては作者の胸のうちに溶けていってしまう。夏祭での出来事だと、気持ちはとてもこんな具合には収まるまい。かくのごとくに、秋は人の心をやさしくさせる。この句を読んで、子供のときの村祭りを思い出した。特別にもらった十円ほどの小遣いを握り締めて、つまらない小物ばかりを買っていた。射的屋もものぐさ娘も、ただ仰ぎ見るだけの存在だった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


September 1591998

 敬老の日といふまこと淋しき日

                           中村春逸

者については、何も知らない。したがって、このときの作者が何歳なのかもわからない。ただ考えることは、この句がみずからの本音として素直に肯定できるのは、何年後くらいだろうかといったことどもである。かつては「敬老の日」ではなく「老人の日」といった。私は「老人の日」のほうが好きだ。「敬老」とは、いかにも押しつけがましい。それに「敬老」では、主体であるはずの老人が消されてしまう。若い人が老人を敬うべき日の意味となる。余計なお世話である。この句は、多分そこらあたりへのいきどおりも含んでいると読める。戦後の日本人が失った徳目は多いが、また失われてしかるべきそれもあったけれど、なかで目立つのは先達への尊敬の念である。残っているとしても、たとえば「おばあちゃんの知恵」などに矮小化されており、自分の得にならない部分は全てカットしてきた。あさましいかぎりなのだ。こんな世の中を誰が作ったのか。と言えば、それがまた、本日敬われるべき存在の老人たちが作ってきたことにも間違いはない。作者の意図とは別に、誰にとってもまことに淋しい祝日が「敬老の日」だ。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(清水哲男)


September 1691998

 放蕩や水の上ゆく風の音

                           中村苑子

蕩(ほうとう)とは贅沢なことばだと思う。未来は放棄され、現在は徹頭徹尾、おぼれ、使い果たしてしまうことについやされる。使い果たす対象は、人生そのものだろう。絶望と背中あわせの悦楽。揺れ動く思い。そういえば蕩には水が揺れ動くという意味もあった。疲れたこころと、清冽な水。/私はこの句を清水哲男におしえられたが、清水はどういうわけか、風の音を風の色と覚えていた。句が詩人の内部でいつのまにか変形したらしい。放蕩や水の上ゆく風の色。水と風はほとんど同色となり、きらめく水面がいくぶん強調された詩的イメージににみちた句となる。では「風の音」はどうか。/放蕩と、風という清冽なものの対比に、もうひとつ、寂寥感がくわわる。眼を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは風の音である。(辻征夫)

[『別冊俳句・現代秀句選集』(1998)より辻征夫氏の許諾を得て転載しました・清水]


September 1791998

 ネオン赤き露の扉にふれにけり

                           木下夕爾

町の一角。ところどころに、夜遅くまでネオンのついている酒場がある。そのネオンも繁華街のように豊かな彩りではなく、たいていが赤か青一色という淋しいものだ。そんな淋しい感じの酒場に入ろうとして、作者は扉が露で濡れているのを手に感じた。このとき、もちろん赤いのはネオンであるが、句を見つめると「赤き露」とも読めるわけで、このあたりは叙情詩人の本領発揮、字面的に微妙に常識をずらしているのだ。作者はここで「赤き露」にふれたのでもあるという心持ち……。旅先でのはじめての店だろうか、それとも地元での気の進まない相手との約束の店だろうか。いずれにしても、作者は勢いよく扉を押してはいないところが、この句をわびしいものにしている。そして、このわびしさが実にいい。酒飲みには、とくに切実に句のよさがわかるはずである。今夜も、この国のあちこちの裏町で、酒場の扉にふれる人はたくさんいるだろうが、さて、その際に「赤き露」を感じる人は何人くらいいるのだろうか。『菜の花集』(1994)所収。(清水哲男)


September 1891998

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

                           金子兜太

珠沙華(まんじゅしゃげ)は、別名「死人花」「捨子花」などとも言われており、墓場に群生したりしていて、少なくともおめでたい花ではないようだ。見るところ生命力は強そうだ(「死人花にてひとつだにうつむかず」金谷信夫)し、花の色が毒々しくも感じられるので、可憐な花を愛する上品な趣味の人たちが嫌ってきたのかもしれない。だが、それにしては昔から皇居の壕端に盛んに咲かせているのは何故なのか、よくわからない。ところで兜太は、そんな上品な趣味とは無関係に、故郷・秩父の子供たちの生き生きとした姿を曼珠沙華の生命力になぞらえている。けっして上品ではない洟垂れ小僧らの生命力への賛歌である。敗戦後まもなくの作品だから、腹を出して遊ぶ子供たちの姿に根源的な生きる力を強く感じさせられたのだろう。ここには、まだ白面の青年俳人であった兜太の「骨太にして繊細な感受性」がうかがえる。うつむいているばかりの「青白きインテリ」に対して一線を画していた、若き日の作者の意気軒昂ぶりが合わせて読み取れて心地よい。『少年』(1955)所収。(清水哲男)


September 1991998

 かなかなや師弟の道も恋に似る

                           瀧 春一

近ある雑誌で、この句を男の師に対する女弟子の恋、ととらえた解釈を見た。確かに、いわれればそう思っても間違いではない。虚子と久女とかなんとか、すぐそういう方向に話が行く。ところが、違うのですね。この句には後書があり、そこには「水原秋桜子先生を訪問。現在の俳句観を述べ諒解を求む」とあり、その後の自註に「昭和二十二年『馬酔木』離散」とあるのだ。これはなんだ!  春一先生の秋桜子先生への訣別の句だったのだ。師を見限ったということか。それにしても「まぎらわしい」名句である。離別後、晩年になって、春一は『馬酔木』に復帰すべく石田波郷を同伴、秋桜子の元に行く。秋桜子、黙って以前と同じ序列で春一を迎えたという。いい話でしょう……。ところで、まだかなかな(蜩)は鳴いてますか?(井川博年)


September 2091998

 虫なくや我れと湯を呑む影法師

                           前田普羅

んでいるのは「茶」ではなく「白湯」。健康上の理由からだろうか、この頃の普羅は「白湯」を呑むことに努めていたようだ。「がぶがぶと白湯呑みなれて冬籠」の句もある。白湯だから味わって呑むのではなく、一気のガブ呑みだ。ふと見ると、壁に写った影法師も同じ姿で一生懸命に付き合ってくれている。外では、虫の音しきり。わびしいような滑稽なような、作者の文字通りの微苦笑が目に見えるようだ。ところで「影法師」であるが、光源は電灯だろうか、それともランプだろうか。大正も初期の句だから、このあたりは問題だ。どちらの可能性もある。私の好みとしてはランプの光にゆらゆらと揺れているほうが面白いのだが、実際のところはわからない。普羅の略歴を読んでも、そんなことは書いてない。古い作品は、これだから厄介だ。ただ、光源が何であれ、一つ言えることは、当時の人たちはみな、現代の私たち以上に灯りには敏感だったということである。句のように影法師に着目するのも、そのあらわれだろう。光あるところには必ず影があるというわけだ。いまは、光の氾濫が影の存在を希薄にしている。精神のありように影響しないはずはない。中西舗士編『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


September 2191998

 夕刊を読む秋の灯をともしけり

                           吉屋信子

の日暮れは早い。夏の間は夕刊も自然光で読めたのに、秋も深まってくると灯をともす必要が出てくる。なんということもない句だが、このなんともなさが秋の夕暮れのしみじみとした情趣をよく伝えている。作者は小説家だったから、夕刊で真っ先に読むのは連載小説だったろうか。それとも同業者の書くものなどはハナから無視して、三面記事から読みはじめたのだろうか。そんなことを空想するのも楽しい。この句は、俳句的には吉屋信子最後の作品である。1972年に、77歳で亡くなる三カ月ほど前に詠まれている。句の観賞にこの事実を知る必要はないのだけれど、知ってしまうと、句のよさが一段と心にしみてくるのは人情というものだろう。ちかごろの夕刊は余計なお世話みたいな記事が多くてつまらないが、当時はまだまだ硬派で、記事を読み解く面白さがあった。作者ならずとも、配達を待ちかねて秋の灯をともした読者は多かったはずである。昔はよかった。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


September 2291998

 きぬぎぬの灯冷やかに松江かな

                           阿波野青畝

くはわからないが、忘れることもできない句だ。わからない原因は「きぬぎぬ」にある。「きぬぎぬ」の意味は「男女が互いに衣を重ねて共寝した翌朝、別れるときに身につける、それぞれの衣服」のこと。あるいは、その朝の別れのことも言う。要するに艶っぽいシチュエーションで使われてきた一種の雅語であるが、さて「きぬぎぬの灯」とは、いったい何だろうか。何通りもの解釈の末に、私がたどりついた一応の結論は、しごく平凡なものだった。すなわち、「別れるときに身につける、それぞれの衣服」のように思える冷ややかな「灯」ということである。したがって、単に冷たい灯というのではなく、この「冷やか」にはどこか人肌のぬくもりがうっすらと残っているような、そんな冷たさなのだと思う。このとき、作者に具体的な色模様があったわけではない。「灯」は、ネオンのそれだろう。秋の松江には、一度だけ仕事で行ったことがある。町の中をきれいな川が流れており、たそがれどき、川の水にはネオンの灯が写っていた。その遠い日の情景を思い出しつつの結論となった。『甲子園』(1965)所収。(清水哲男)


September 2391998

 梨を剥く一日すずしく生きむため

                           小倉涌史

の場合の「一日」は「ひとひ」と読ませる。「秋暑」という季語があるほどで、秋に入ってもなお暑い日がある。残暑である。今日も暑くなりそうな日の朝、作者はすずしげな味と香りを持つ梨を剥いている。剥きながら作者が願っているのは、しかし、体感的なすずしさだけではない。今日一日を精神的にもすずやかに過ごしたいと念じている。「すずしく生きむ」ために、大の男がちっぽけな梨一個に思いを込めている。大げさに写るかもしれないが、こういうことは誰にでもたまには起きることだ。そんな人生の機微に触れた佳句である。ところで、作者の小倉涌史さんは、この夏の七月末に亡くなられたという。享年五十九歳。このページの読者の方が知らせてくださった。小倉さんとは面識はなかったが、ページは初期から読んでくださっており、検索エンジンをつけるときのモニターにもなっていただいた。もっともっと元気で「すずしく生き」ていただきたかったのに、残念だ。心よりご冥福をお祈りします。『落紅』(1993)所収。(清水哲男)


September 2491998

 颱風が逸れてなんだか蒸し御飯

                           池田澄子

生俳句の伝統を尊重する人には、この「なんだか」という表現に引っ掛かるだろう。つまり、この「なんだか」の中身を明らかにするのが、写生俳句の基本だからである。でも、一方では現実的に「なんだか」としか言いようのない事象もたくさんあるわけで、幸いに逸れてくれた颱風(たいふう)なのだが、影響でもたらされた「なんだか」どろんとした蒸し暑さは、このように表現されたことではじめて明確になっている。心象的には、この句も写生句なのだ。それにしても「蒸し御飯」とは、恐れ入った。なつかしくも巧みな比喩である。いまどきの冷えた御飯は電子レンジでチンする家庭が多いのだろうが、昔はどこの家庭でも蒸し器にかけて温め直したものである。温まった御飯は水気を含んでニチャニチャとしており、固い御飯の好きな私には「なんだか」お世辞にも美味とは言えない代物だった。蒸し方の巧拙もあるのだろうが、たいていは句のように、鬱陶しい感じのする味がしたものだ。今年は、ここに来て颱風がポコポコと発生しはじめた。逸れてほしいが、「蒸し御飯」状態も御免こうむりたい。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


September 2591998

 栗食むや若く哀しき背を曲げて

                           石田波郷

者が栗を食べている。情景としてはそれだけだが、人が物を食べる姿には、たしかにどこか哀しいものがある。高等動物だなんて言っていても、しょせんは食わなければ何もはじまらないのだ。この若者の場合はなりふりかまわずの餓鬼的な食べ方ではないのだけれど、相手が栗だから一心不乱に厚皮を剥き渋皮を取って食べている……。そこが哀しい。若いくせに背を曲げて栗に集中している姿には、やはりどこかに餓鬼道に通じるそれがあるのだ。自画像かもしれない。ところで、先日のテレビで「栗の皮剥き」グッズなるものが紹介されていた。胡桃割り器の内側に、小さな鋸の刃がついていると思えばよい。これで栗をキュッとはさむと、鋸の刃が栗の腹に剥きやすい傷をつけるという仕掛けだ。値段は、たしか780円だった。誰が使うのかは知らないが、こんな道具で栗をどんどん「食(は)まれ」たヒには哀しくもなんともないわけで、さすがの波郷の感性をもってしてもお手上げだろう。句にはなるまい。(清水哲男)


September 2691998

 山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨

                           京極杞陽

じ秋に降る雨でも、その土地によって風情は違う。山陰は直撃は少ないにしても、台風の影響をとても受けやすい地方だから、作者が言うように「じやじやじやじや」と音立てて降ることが多い。とくにこの時期には、陽気とまではいかなくとも、気持ちよいくらいに「じやじやじやじや」と降る。かつてのヒット曲「湯の町エレジー」(舞台は伊豆だった)のように、しっとりと「どこまで時雨れゆく秋ぞ……」などと、情緒的にはいかないのである。けれども、こういうことは土地の人ではない誰かに言われてみないとわからないことで、山陰の人は、秋の「じやじやじやじや雨」が当たり前だと思っている。そこに、作者は気がついたわけだろう。その意味からすると、世の歳時記が「秋の雨」を季語として「秋雨はどこかうそ寒く」などと書いているのは気配り不足と言おうか、昔の京都中心の季節感にとらわれすぎている。あなたがお住まいの地方の秋の雨は、どんな感じで降るのでしょうか。私の暮らす東京では、うーむ、やはり京都と変わらない「しとしと雨」でしょうかね。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


September 2791998

 赤とんぼとまつてゐるよ竿の先

                           三木露風

れっ、どこかで見たような……。そうです。三木露風の有名な童謡「赤とんぼ」の一節です。しかし、これは童謡が書かれるずっと以前、露風が十三歳のときの独立した俳句作品なのです。そういう目で読むと、やはりどこか幼い句のようにも思えます。が、もはやこの句を童謡と切り離して読むことは、誰にも不可能でしょう。純粋に俳句として読もうとしても、いつしかかの有名なメロディーが頭の中で鳴りだしてしまうからです。露風ならずとも、このように子供の頃のモチーフを大人になってから繰り返して採用した事例は多く、その意味では子供時代の発想も馬鹿になりません。ところで、童謡「赤とんぼ」の初出は大正十年(1921)八月の童謡雑誌「樫の実」です。露風、三十二歳。現在うたわれているものとは歌詞が少しちがっていて、たとえば「夕焼、小焼の、/山の空、/負はれて見たのは、/まぼろしか」というものでした。この秋、露風が後半生を過ごした三鷹市で、大展覧会が開かれます。晩年に書いた風刺詩が初公開されるそうで、楽しみです。(清水哲男)


September 2891998

 恋びとよ砂糖断ちたる月夜なり

                           原子公平

の句を知ったのは、もう十年以上も前のことだ。なんだか「感じがいいなア」とは思ったけれど、よくは理解できなかった。このときの作者は、おそらく医者から糖分を取ることを禁じられていたのだろう。だから、月見団子も駄目なら、もちろん酒も駄目。せっかくの美しい月夜がだいなしである。そのことを「恋びと」に訴えている。とまあ、自嘲の句と今日は読んでおきたい。そして、この「恋びと」は具体的な誰かれのことではない。作者の心のなかにのみ住む理想の女だ。幻だ。そう読まないと、句の孤独感は深まらない。「恋びと」と「砂糖」、「女」と「月」。この取り合わせは付き過ぎているけれど、中七音で実質的にすぱりと「砂糖」を切り捨てているところに、「感じがいいなア」と思わせる仕掛けがある。つまり、字面に「砂糖」はあるが、実体としてはカケラもないわけだ。病気の作者にしてみれば「殺生な、助けてくれよ」の心境だろうが、おおかたの読者は微笑さえ浮かべて読むのではあるまいか。ちなみに、今年の名月は十月五日(月)である。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


September 2991998

 秋晴のひびきをきけり目玉焼

                           田中正一

ーンと気持ちよく晴れ上がった秋の空。朝食だろう。出来たてで、まだジュージューいっている目玉焼きを勢いよく食卓に置いたところだ。「ひびきをきけり」が、よく利いている。乱暴に置いたのではなく、さあ「食べるぞ」と気合いを入れて置いたのである。目玉焼きは英語でもずばり「サニーサイド・アップ」というように、太陽を連想させる。日本の四季のなかでは、ちょっと黄みがかった秋の太陽にいちばん近いだろう。その意味からも、句の季節設定には無理がないのである。ところで、秋というと天気のよい澄んだ日を思い浮かべるのが普通だが、気象統計を見ると、秋は曇りや雨の日がむしろ多い。なかなか、句のようには晴れてくれないのだ。だから秋晴れが珍重されてきたのかといえば、そうでもなくて、私たちは毎年のように「今年の秋は天気が悪い」などと、ブツブツ言い暮らしている。あくまでも、根拠もなしに秋は天気がよいものと思い決めているのは、なぜなのだろうか。『昭和俳句選集』(1977)所収。(清水哲男)


September 3091998

 あくせくと起さば殻や栗のいが

                           小林一茶

拾い。落ちている毬(いが)をひっくり返してみたら、中が殻(からっぽ)だったという滑稽句。そんなに滑稽じゃないと思う読者もいるかもしれないが、毎秋の栗拾いが生活習慣に根付いていたころには、めったに作者のように実の入った毬を外す者はいなかったはずだ。あくせくと、心が急いでいるからこうなるわけで、一茶はそのことを自覚して自嘲気味に笑っているのである。自分の失敗を笑ってくださいと、読者に差し出している。当時の読者なら、みんな笑えただろう。昔から、だいたいこういうことは子供のほうが上手いことになっていて、私の農村時代もそうだった。子供は、この場合の一茶のように、あくせくしないで集中するからだ。「急がば回れ」の例えは知らないにしても、じっくりと舌舐りをするようにして獲物に対していく。我等洟垂れ小僧は、まず、からっぽの毬をひっくり返すような愚かなことはしなかった。いい加減にやっていては収穫量の少ないことが、長年とも形容できるほどの短期間での豊富な体験からわかっていたからだ。むろん一茶はそんなことは百も承知の男だったが、でも、失敗しちゃったのである。栗で、もう一句。「今の世や山の栗にも夜番小屋」と、「今の世」とはいつの世にもせちがらいものではある。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます