1998N10句

October 01101998

 十月のてのひらうすく水掬ふ

                           岸田稚魚

の冷え込みを、多くの人はどんな場面で実感するのだろうか。それは人さまざま、場面さまざまであろうけれども、この句のようなシーン、たとえば朝の洗顔時に感じる人が圧倒的に多いのではなかろうか。夏の間は無造作にジャブジャブと掬(すく)っていた水なのだが、秋が深まるにつれて、「てのひらうすく」掬うようになるのである。水に手を入れるのに、ほんのちょっとした「勇気」が必要になってくる。新暦の十月という月は、四季的に言うとそんなにきっぱりと寒くもなくて、まだ中途半端な感じではあるのだが、少しずつ来たるべき冬の気配も感じられるようになるわけでもあり、そこらあたりの微妙な雰囲気をまことに巧みにとらえた佳句だと思う。いろいろな句集や歳時記を開いてみたのだが、季語「十月」で万人を納得させるような作品は、予想どおりに少なかった。今回私の調べた範囲で、この句に対抗できる必然性を持つ句は、坂本蒼郷の「僕らの十月花嫁を見つツルハシ振る」という気持ちよく、少し苦い心で労働する人の句くらいであった。「十月」をちゃんと詠むのは、相手がちゃんとしていないだけに相当に難しい。(清水哲男)


October 02101998

 銀色の釘はさみ抜く林檎箱

                           波多野爽波

前の句。北国から、大きな箱で林檎が送られてきた。縄をほどいた後、一本ずつていねいに釘を抜いていく。「はさみ抜く」は、金槌の片側についているヤットコを使って浮いた釘をはさみ、梃子(てこ)の原理で抜くのである。真新しい釘は、いずれも銀色だ。スパッと抜く度に、目に心地好い。クッション用に詰められた籾殻(もみがら)の間からは、つややかな林檎の肌が見えてくる。何であれ、贈り物のパッケージを開けるのは楽しいことだが、林檎箱のように時間がかかる物は格別である。その楽しさを釘の色に託したところが、新鮮で面白い。往時の家庭では釘は必需品であり、林檎箱から抜いた釘も捨てたりせず、元通りのまっすぐな形に直してから釘箱に保管した。同じ釘は何度も使用されたから、普通の家庭では新品の銀色の釘を使うことなどめったになく、したがって句の林檎箱の新しい釘には、それだけでよい気分がわいてくるというわけだ。そして、もちろん箱も残されて、物入れに使ったりした。高校時代まで、私の机と本箱は林檎箱か蜜柑箱だった。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


October 03101998

 運動会今金色の刻に入る

                           堀内 薫

しかに、運動会には金色(こんじき)という形容にふさわしい刻(とき)がある。最後の種目、たとえば花の800メートル・リレー競争の行われるあたりが、その時刻だろう。競技も最高に(金色に)盛り上がるが、その頃になると日の光りも秋特有の金色となってくる。スタート・ラインに集まってくる選手たちの影が長く尾を引きはじめる時刻だ。活気溢れるイベントの最中に、はやくも金色の秋の日ざしが夕暮れの近さを告げているわけで、華やかな気分のなかに生まれてくる一種の衰亡感は、私たちのセンチメンタリズムを心地好く刺激してやまない。まさに、金色の刻ではないか。私は鈍足だったから、運動会は嫌いだった。が、たった一度だけ、二人三脚リレーで大成功した経験がある。それは、たまたま組んだ友人が左利きだったおかげであり、鈍足でも二位以下に大差をつけることができて、このときの快走だけは忘れられない。運動会のシーズンだ。たまに見に行くと、鈍足の子のことばかりが気にかかる。考えようによっては、最後の種目がはじまる頃が、そんな子たちにとっての別の意味での最高の「金色の刻」でもあるわけだ。(清水哲男)


October 04101998

 誰もゐない山の奥にて狂ふ秋

                           沼尻巳津子

節そのものを人間になぞらえる手法は、詩歌では珍しいことではない。春夏秋冬、いずれの季節にも人間と同じような姿や性格を与えることができる。また、その逆も可能だ。そんななかでこの句は、常識的な秋のイメージをこわしてみせており、こわすことによって、秋という季節を感覚的により深めようとしている。さわやかな秋。その秋が「誰もゐない山の奥」で静かに狂いはじめていると想像することは、頭脳明晰であるがゆえに狂気を内在させている感じの人間を想起させたりする。なべて明晰なるものは狂気を内包する。……とまでは言い切っていないのかもしれないが、不気味な印象が残る句だ。この「秋」を他の季節に置き換えて考えてみたが、やはり「秋」とするのがもっともコワい。逆にそれだけ私たちの「秋」の印象は単純にパターン化されており、表情に乏しいということになるのだろう。『華彌撒』(1983)所収。(清水哲男)


October 05101998

 玉霰夜鷹は月に帰るめり

                           小林一茶

は天心にある。さながら玉霰(たまあられ)のように降り注ぐ月光。夜鷹は淋しくも孤独に空をのぼって、あの美しい月に帰っていくのだろうな……。と、実はここまでは隠し味である。「夜鷹」といえば、江戸期にはこの夜行性の鳥の連想から下等な娼婦を指した。芝の愛宕下や両国橋などに、毎夜ゴザ一枚を持って商売に出たという。一茶には、そうした女と接触を持った体験もある。そんな女たちが、月の光りを霰と浴びて、今夜は月に帰っていくのだ。娼婦を天使に見立てる発想は西洋にもあるが、一茶の発想もかぐや姫などの「天女」に近いイメージになぞらえているわけで、興味深い。もとより作者に軽蔑の思いは微塵もなく、淪落した女の運命に満腔の同情と涙を寄せている。このあたりの世俗へのまなざしを見ると、芭蕉などとはまったく志を異にした詩人であったことがよくわかる。一茶句のなかでは、あまり知られていない句だと思うが、名月の季節に読むととりわけて心にしみる。月の光りが鮮やかなだけに、当時の闇の深さも読者の身に迫ってくる。『七番日記』に出てくる句だ。(清水哲男)


October 06101998

 はればれとたとへば野菊濃き如く

                           富安風生

ればれとした気持ちとは、どういうものか。作者は「たとへば」と例をあげている。わずか十五文字のなかに「たとへば」と四文字を使うのは、なかなかの冒険だ。下手をすると、そこで句の流れが止ってしまうからである。しかし、この句にはよどみがない。すらりと読める。句が詠まれた状況について、書き残された文章があるので引用しておこう。「……多摩川の稲田登戸……道の埃を被らない野菊の花は、晴れた空と同じやうに鮮かな色をして……山萩の蔭を、少女らの唱ふ透き通る声が下りて来た。少女らはわれわれと松の下の径を譲り合ふ時だけ唱ひやめたが、通り過ぎるとまた朗らかに唱ひはじめた。……ネクタイを胸のあたりにひるがへしながら……」。このとき(1937)、風生53歳。27年間に及んだ役人生活にピリオドを打った年である。青年のように純朴な感受性がまぶしい。『松籟』(1940)所収。(清水哲男)


October 07101998

 涸れ川を鹿が横ぎる書架の裏

                           中島斌雄

島斌雄。懐しい名前だ。二十歳にして「鶏頭陣」(小野蕪子主宰)の習作欄の選者となり、「沈みつつ野菊流るるひかりかな」(1931)のようなリリカルな句を数多く書き、戦後にはその清新な句風を慕って集まった寺山修司など多くの若い表現者に影響を与えた。今年は没後十年。懐しいと言ったのは、最近の俳句ジャーナリズムではほとんど目にしなくなった名前だからだ。なぜ、彼の名前が俳壇から消えたのか。それはおそらく、後年のこうした句風に関係があると思われる。端的に言えば、後年の斌雄の句は読者によくわからなくなってしまったのだ。この句について、理論家でもあった斌雄は、次のように解説している。「鹿のすがたが、書架をへだてて眺められるところが奇妙であろう。そんな風景は、この世に存在するはずはない……というのは、古い自然秩序を墨守する連中の断定にすぎまい。そこにこそ、新しい自然秩序、現実秩序があろうというものである。『書架』はあながち、文字どおりの書架である必要はないのだ。……」。ここだな、と思う。今の俳句でも、ここは大きな問題なのだ。自由詩では当たり前の世界が、俳句では大きな壁となる。その意味で、今なお中島斌雄は考えるに価する重要な俳人だと思う。『わが噴煙』(1973)所収。(清水哲男)


October 08101998

 黍噛んで芸は荒れゆく旅廻

                           平畑静塔

礼ながら、この句は出来過ぎだろう。食料難の時代の旅廻(たびまわり)の芝居の一座。今日も米が手に入らず、黍(きび)だけの貧しい食事だ。もしゃもしゃと黍を噛む生活では、当然、培ってきた芸も荒れていくだろう。作者は、そんな一座に同情しながらも、自暴自棄になっているような座員たちの姿には腹も立てているのではあるまいか。私が出来過ぎというのは、句のなかであまりにも作者が常識と常識的な判断根拠をつなげ過ぎているからだ。それこそ、まるで三文芝居のように、である。しかし、私はこの出来過ぎを嫌いではない。敗戦後の一時期、田舎にも(いや、田舎だったからこそ)旅の一座がめぐってきた。文字通りの小屋掛けの芝居を打ちにきた。それもただ、ひたすらに食料を求めるだけの目的で……と、後で知った。私は、そうした劇団のちっぽけな一観客。刈り取りの終わった田圃の急拵えの小屋の地面に座っていると、ズボンの尻から水分がじわじわと腰まで上がってくるのが常だった。舞台の芸が巧いのか、荒れているのかどうかもわからずに、私はそこで、主要なチャンバラ芝居のストーリーはみんな覚えた。この句を思い出すたびに、あのとき大人でなかった幸せを思うのである。(清水哲男)


October 09101998

 勉強の音がするなり虫の中

                           飴山 實

の手柄は、なんといっても「勉強の音」と言ったところだ。いったい「勉強」に「音」などがあるだろうかと、疑問に思う読者のほうが多いかと思うが、ちゃんと「勉強」にも「音」はある。本のページをめくる音、ノートに何か書きつける音、茶を飲む音や独り言など、四囲から虫の音が聞こえてくるほどの静かな秋の夜であるから、かすかな室内の音までもがよく聞こえるのである。作者は眠りにつこうとしているのであり、隣の部屋では誰かがまだ勉強しているという図であろう。深夜、本をめくる音が気になると、私はそれぞれ別々のシチュエーションで、二度注意されたことがある。自宅では母に、下宿では同級生に……。いずれも襖一枚をへだてていたのだが、眠ろうとする人にとっては、相当にうるさく聞こえるらしいのだ。放送業界では「ペーパー・ノイズ」といって、台本などの紙をめくる音は大いに騒々しいので、素人の出演者にまで注意したりする。マイクがよく拾う音は、人間の耳にもうるさいということだろうか。句の作者は、しかし、うるさいと思っているわけではあるまい。「勉強」している人に、そしてその「音」に、好ましさを感じながら眠りにつこうとしているのだと思う。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


October 10101998

 ナイターも終り無聊の夜となりぬ

                           岸風三楼

っしゃる通り。野球のナイター(この和製英語は死語になりつつあるが)がなくなると、なんだか夜の浅い時間が頼りなくなる。いつものようにテレビをつけようとして、「ああ、もう野球は終わったのだ」と思うと、ではその時間に何をしたらよいのかが、わからなくなる。いわゆる「無聊(ぶりょう)をかこつ」ことになってしまうのだ。「ナイター」の句もいろいろと詠まれているが、終わってからのことを題材にした句は珍しい。岸風三楼は富安風生門だったから、そのあたりの世俗的な機微には通じていた人で、そういう人でないと、なかなかこういう句は浮かんでこないだろう。いや、浮かんだにしても、発表できたかどうか……。ただし、この句をもって岸風三楼の作風を代表させるわけにはいかない。かつての京大俳句事件でひっかかった俳人でもあるし、もとより剛直な作品も多産してきた人だ。でも、こういう句を、いわばスポンテイニアスに詠める才質そのものを、私は好きだ。世間的な代表作ではないが、作家個人の資質は十分に代表しているのではないだろうか。『往来以後』(1982)所収。(清水哲男)


October 11101998

 疲労困ぱいのぱいの字を引く秋の暮

                           小沢昭一

感して大きくうなずくことは、よくある。が、共感するあまりに、力なく「へへへ」と笑ってしまいたくなるのが、この句だ。疲れた身体にムチ打つようにして文章を書いている最中に、何の因果か「ヒロウコンパイ」と書かねばならなくなった。ところが「困ぱい」の「ぱい」の字が思いだせない。大体のかたちはわかるのだが、いい加減に書くわけにもいかず、大きな辞書をやっこらさと持ちだして来て「こんぱい」の項目を「困ぱい」しながら探すのである。「疲労困ぱい」の身には厄介な作業だ。そんな孤独な原稿書きの仕事に、秋の日暮れは格別にうそ寒い……。ちなみに、季語「秋の暮」は秋の日暮れの意味であり「晩秋」のことではないので要注意(と、どんな歳時記を引いても書いてある)。ところで、この句は「紙」に文字を直接書きつける人の感慨だ。と、この句をワープロで写していた先ほど、いまさらのように気がついた。ワープロだと「こんぱい」と打てば「困ぱい」ではなく、すぐにぴしゃりと「困憊」が出てきてしまう。その「困憊」の「憊」をいちいち「ぱい」に直さなければならぬ「わずらわしさよ秋の暮」というのが、今の私のいささかフクザツな心持ちである。この句は、既に井川博年が昨年の11月に取り上げていた。さっき検索装置で調べてみて、やっと思いだしたというお粗末。ま、いいか。最近は「困ぱい」することが多いなア。『変哲』(1992)所収。(清水哲男)


October 12101998

 一葉落ち犬舎にはかに声おこる

                           小倉涌史

った一枚の葉が落ちて犬が驚き騒いだというのだから、相当に大きな葉でなければならない。たぶん、朴(ほお)の葉だろう。三十センチ以上もある巨大な葉である。つい最近、直撃は免れたけれど、呑気に歩いていたらいきなりコヤツが落ちかかってきてびっくりした。落下音も、バサリッと凄い。犬だからびっくりするのではなく、人間だって相当にびっくりする(「朴落葉」や「落葉」は冬の季語)。ところで、句の時系列ないしは因果関係とは反対に、作者はにわかに犬小屋が騒がしくなったことから、ああきっと朴の葉が落ちたのだなと納得し、そこでこのように時間的な順序を整えて作品化している。まさか、これから葉が落ちて犬がびっくりするぞと、ずうっと朴の木を見張っていたわけではあるまい。つまり、この句は写生句のようでいて、本当は事実に忠実な写生句ではないのである。しかし、この句を、書かれているままの時間の順序に従って読み、それだけで納得する人は少ないだろう。やはり、私たちは犬が騒いだので作者が落葉を知ったのだと、ごく自然に読むのである。なぜだろうか……。俳句だからだ。『落紅』(1993)所収。(清水哲男)


October 13101998

 秋風に和服なびかぬところなし

                           島津 亮

服の国に生まれながら、一度もちゃんとした和服を着たことがない。サラリーマンをやめてからは、いわゆるスーツもほとんど着ない。年中、ジーンズで通している。服の機能性を重視するというよりも、単純に面倒臭いので、ちゃんとした服を着る気にならないだけの話だ。つまり、しゃれっ気ゼロ。そんな私だが、他人が和服やスーツをきちんと着こなしている姿は好きだ。とくに中年女性の上品な和服姿には、素朴に感動する。というわけで、この句にも素直に文句なしに感動した。なるほど、和服の袖や袂や裾は自然に風になびくのであり、着ている人の心持ちからいうと、襟元などを含めたすべての部分が「なびかぬところなし」の感じになるはずである。和服にはなびく美しさを前提にしたデザイン思想があるようで、裾模様などという発想は、その典型だろう。その点、西洋の「筒袖」(明治期の洋服の一呼称)には「なびきの美学」は感じられない。西洋は風にあらがい、この国は風に従い、風を利用して審美眼を培ってきた。すなわち、俳句はこの国に特有の「なびきの美学」の文学的表現でもある。『紅葉寺境内』所収。(清水哲男)


October 14101998

 まつすぐの道に出でけり秋の暮

                           高野素十

んだい、これは。おおかたの読者は、そう思うだろう。解釈も何も、それ以前の問題として、つまらない句だと思うだろう。「で、それがどうしたんだい」と、苛立つ人もいるかもしれない。私は、専門俳人に会うたびに、つとめて素十俳句の感想を聞くことにしてきた。私もまた、素十の句には「なんだい」と思う作品が多いからである。そんなアンケートの結果はというと、ほとんどの俳人から同じような答えが帰ってきた。すなわち、俳句をはじめた頃には正直いって「つまらない」と思っていたが、俳句をつづけているうちに、いつしか「とても、よい」と思うようになってきた……、と。かつて山本健吉は、この人の句に触れて「抒情を拒否したところに生まれる抒情」というような意味のことを言ったが、案外そういうことでもなくて、このようにつっけんどんな己れの心持ちをストレートに展開できるスタンスに、現代のプロとしては感じ入ってしまうということではあるまいか。読者に対するサービス精神ゼロのあたりに、かえって惹かれるということは、何につけ、サービス過剰の現代に生きる人間の「人情」なのかもしれないとも思えてくる。みんな「まつすぐの道」に出られるのならば、今すぐにでも出たいのだ。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


October 15101998

 欠席の返事邯鄲を聞く会へ

                           田川飛旅子

鄲(かんたん)の鳴き声はルルルル……と、実に美しい。だから「一夜みんなで楽しもうじゃないか」ということになったりする。新聞などにも、よく案内が載っている。そんな風流趣味の催しに、作者は欠席の返事を書いたところだ。どんな理由からだろうか。折り悪しく先約があったのかもしれないし、単に面倒だったのかもしれない。そのあたりを読者の想像にゆだねているところが、句の眼目だ。句の勢いからすると、欠席の返事が逡巡の果てに書かれた感じはしない。すらりと「欠席」なのだ。さっぱりしている。年令のせいだと思うが、最近の私もいろいろな会にすらりと「欠席」が多くなった。面倒という気持ちもあるが、出席したところで何か新鮮な衝撃が待ち受けているわけじゃなし、会の成り行きが読めてしまうような気持ちがするからである。高屋窓秋に「さすらひて見知らぬ月はなかりけり」(『花の悲歌』所収)という凄い句がある。ここまでの達観はないにしても、ややこの境地に近い理由からだと思いはじめている。『邯鄲』所収。(清水哲男)


October 16101998

 駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり

                           高山れおな

の夜、何の虫かはわからないが、道端などでジーと鳴いている虫がある。淋しい鳴き声だ。これを昔の人は、蚯蚓(みみず)が鳴くのだと思ったらしい。実際には螻蛄(けら)の鳴き声である。で、ここから出てきたのが「蚯蚓鳴く」という秋の季語。虚子に「三味線をひくも淋しや蚯蚓なく」という小粋な句もあり、この季語を好む俳人は昔から多いようだ。ところで掲句は、鳴くわけもない蚯蚓が駅前で鳴いていたことが、ちゃんと市史には載っていますよと報告している。そんなことが市史に載っているわけはないのだが、この二重に吹かれたホラが面白い。ホラもこんな具合に二つ重ねられると、一瞬なんだか真実のようにも思えたりするから不思議だ。関係者以外はほとんど誰も読まない市史という分厚い本に対する皮肉とも読めるけれど、そんなふうに大真面目に取らないほうがよいだろう。情緒てんめんたる季語を逆手に取って、クスクス笑いしている作者とともに大いに楽しめばよいと思う。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


October 17101998

 星降るや秋刀魚の脂燃えたぎる

                           石橋秀野

く晴れた秋の夜、作者は戸外で秋刀魚を焼いている。第三者としてそんな主婦の姿を見かけたら、微笑を浮かべたくなるシーンであるが、作者当人の気持ちは切迫している。秋刀魚にボッと火がついて、火だるまになった様子を「燃えたぎる」と表現する作者は、名状しがたい自分の心の炎をそこに見ていると思われる。単なる生活句ではないのである。いや、作者が生活句として書こうとしても、どうしてもそこを逸脱してしまう気性が、彼女には生来そなわっていたというべきなのかもしれない。浅薄な言い方かもしれないが、火だるまになれる気性は男よりも数段、女のほうにあらわれるようだ。だから「生来」と、私としては言うしかないのである。上野さち子の名著『女性俳句の世界』(岩波新書)より、秀野の俳句観を孫引きしておく。敗戦直後の1947年の俳誌「風」に載った文章である。「俳句なんどなんのためにつくるのか。飯の足しになる訳ではなし、色気のあるものでもなし、阿呆の一念やむにやまれずひたすらに行ずると云ふより他に答へやうのないものである」。このとき、秀野三十九歳。掲句は1939年、三十一歳の作品だ。『桜濃く』(1959)所収。(清水哲男)


October 18101998

 丹波栗母の小包かたむすび

                           杉本 寛

から小包が届いた。開けてみるまでもなく、この時季だから、中身は丹波の大栗と決まっている。しっかりとした「かたむすび」。この結び方で、同梱されているはずの便りを読まずとも、まずは母の健在が知れるのである。ガム・テープ全盛の現代では、こうしたコミュニケーションは失われてしまった。自分の靴の紐すら満足に結べない子供もいるそうで、紐結びの文化もいずれ姿を消してしまうのだろう。昔の強盗は家人を縄や紐で縛って逃走したものだが、いまではガム・テープ専門だ。下手に上手に(?)縛って逃げたりすると、かえってアシがつきやすい。最近では、あまり上手に縛り上げられていると、警察はとりあえずボーイ・スカウト関係者を洗い出したりする。いまだに未解決の「井の頭バラバラ事件」のときが、そうだった。紐がちゃんと結べるというのは、もはや特種技能に属するのだ。話は脱線したが、この句を書いた二年後に、作者は「年つまる母よりの荷の縄ゆるび」と詠んでいる。一本の細い縄もまた、かくのごとくに雄弁であった。『杉本寛集』(1989)所収。(清水哲男)


October 19101998

 あきぐみに陽の匂う風吹き来たる

                           金子兜太

通には「ぐみ(茱萸)」と言う地方が多いと思うが、植物名としては句のように「あきぐみ(秋茱萸)」と呼ぶのが正式だ。私の田舎ではそこここに原生しており、学校帰りに枝ごと折り取っては食べながら歩いたものだ。赤くて小さな実は甘酸っぱく、少し渋い。茱萸の実の熟れる十月の半ばともなると、山国の風は冷たさを増してくる。が、ときに恩寵のように柔らかく暖かな風が吹く日もある。この句はそんな風をとらえているが、なんという優しいまなざしであろう。実はそれも道理で、前書に「姪百世(ももよ)結婚」とあって、祝婚句なのだ。たぶん色紙に記されて贈られたであろうこの句を、新婚夫婦はどこに飾ったのだろうか。むりやりに句から教訓を引き出す(これが俳句読みのいけないところだと、李御寧が『蛙はなぜ古池に飛びこんだのか』で叱っている)必要もないけれど、恩寵のようなおだやかな風に恵まれた若い二人の生活にも、どこかに渋い味が隠されていることを、作者は言っておきたかったのかもしれない。代表作とはならないにしても、兜太の抒情的才質をうかがわせるに十分参考になる美しい作品だ。『皆之』(1986)所収。(清水哲男)


October 20101998

 一本のマッチをすれば湖は霧

                           富沢赤黄男

は「うみ」と読ませる。霧の深い夜、煙草を喫うためだろうか、作者は一本のマッチをすった。手元がぼおっと明るくなる一方で、目の前に広がっている湖の霧はますます深みを帯びてくるようだ。一種、甘やかな孤独感の表出である。と、抒情的に読めばこういうことでよいと思うが、工兵将校として中国を転戦した作者の閲歴からすると、この「湖の霧」は社会的な圧力の暗喩とも取れる。なにせ1941年、太平洋戦争開戦の年の作品だからだ。手元の一灯などでは、どうにも払いのけられぬ大きな壁のようなものが、眼前に広がっていた時代……。戦後、寺山修司が(おそらくは)この句に触発されて「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と書いた。寺山さんは、日活映画の小林旭をイメージした短歌だとタネ明かしをしていたが、それはともかくとして、相当に巧みな換骨奪胎ぶりとは言えるだろう。ただし、書かれている表面的な言葉とは裏腹に、寺山修司は富沢赤黄男の抒情性のみを拡大し延長したところに注目しておく必要はある。寺山修司の世界のほうが、文句なしに甘美なのである。(清水哲男)


October 21101998

 汽罐車の火夫に故郷の夜の稲架

                           大野林火

夫(かふ)は、汽罐車の罐焚きのこと。稲架は、刈り取った稲を乾燥させるための木組み(ないしは竹組み)のことだが、これを「はざ」と呼ぶのは何故だろうか。私の田舎(山口県)では、単に「いねかけ」と言っていたような記憶がある。稲城という地名があるが、この稲城も稲架のことである。ところで、この句は身延線で汽罐車を見た際のフィクションだと、林火自身が述べている。「火夫は、まだ若い。いま汽罐車はその故郷を通過している。沿線には稲架が立ち並び、その数や厚みで、今年の稔りがどうであったかはこの火夫にすぐ知られよう。そこには父母・兄弟の手掛けた稲架も交っていよう。罐焚きの石炭をくべる手に一段と力の入ったことであろう。この句、そうした空想のもとになっている」。空想にせよ、この国の産業が農業ベースから外れてきはじめた頃(1964)、生まれ育った土地を離れて働く者の哀感がよく伝わってくる。夜の汽罐車を、走らせる側からとらえた目も出色だ。『雪華』(1965)所収。(清水哲男)


October 22101998

 秋霧のしづく落して晴れにけり

                           前田普羅

辞麗句という言い方がある。もちろん俳句の「句」を指しているわけではなく、よい意味に使われることのない言い方だが、この句を読んだ途端に、私はこれぞ文字通りに率直な意味での「美辞麗句」だと思った。とにかく、しばし身がしびれるくらいに美しい句だからである。光景としては、濃い秋の霧がはれてくるにつれて、上空の見事に真青な空が見えてきた。周囲の霧に濡れた草や木々はいまだ雫を落としており、そこにさんさんと朝日があたりはじめたというところだろう。この句が美しくあるのは、なんといっても「秋霧の」の「の」が利いているからだ。「秋霧のしづく」を落としている主体は草や木々であることに疑いはないが、しかし、この「の」はかすかに「秋霧」そのものが主体となっている趣きも含んでいる。つまり、この「秋霧」はどこか人格的なのであり、くだいていえば「山の精」のような響きをそなえている。そのような「山の精」が雫を落としている……のだ。舞台の山も登山などのための山ではなく、山国で山に向き合って生活している人ならではの山なのであり、山に暮らしている人ならではの微妙な、そして俳句ならではの絶妙な言葉使いが、ここに「美麗」に結晶している。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


October 23101998

 鯛焼やいつか極道身を離る

                           五所平之助

者は『煙突の見える場所』などで知られた映画監督。本邦初の本格的トーキー映画『マダムと女房』(1931)を撮った人だ。「旅」と「カメラ」と「俳句」を趣味とした。その昔、前田普羅の「加比丹」同人だったこともある。「鯛焼」と「極道(ごくどう)」との取り合わせが面白い。それも取り合わせの妙というのではなく、しごく自然な時の流れのなかでのことなのだから、面白いというよりも泣き笑い的な淋しさがあると言うべきかもしれない。若いころにはそれなりに「ワル」だったと自認してきたが、いつしか「ワル」としての突っぱりにもくたびれてしまい、気がついたら、なんとふにゃらふにゃらと「鯛焼」なんぞを嬉しそうに食っている。……ザマはねえ。我が青春は、はるか遠くに過ぎ去ったという感慨だ。が、当今流行の赤瀬川原平風に言うと「老人力がついてきた」句ということになる。これからはますます老人の句や文芸が増えてきそうだが、あまりに早く、過ぎ去った年月を抒情するのは危険だ。余命が長すぎて、そこから先に進めなくなる。そういうことは、十二分に「老人力」がついてからにしたほうがよさそうである。『五所亭俳句集』(1969)所収。(清水哲男)


October 24101998

 落花生みのりすくなく土ふるふ

                           百合山羽公

姓の、このみじめさをわかる人が、いまのこの国に何人くらいいるだろうか。とても百万人以上は、いそうもないような気がする。が、わからなくても、わからない人の責任ではない。地中で実を結ぶ植物であることを知らない人も多くなってきたが、その人たちの認識不足と責めるわけにもいかない。日本の農業は、もうとっくの昔に「知られざる産業」になっているからだ。落花生はかつて、肥沃でない土地でも育つ代表的な豆科の植物として有名だった。砂地みたいなところでも、元気に育った。にもかかわらず、何かの拍子でこういうことになったりする。引っこ抜くとスカスカな感じの鞘(さや)が現われて、土をふるう手に元気がなくなるのも当然だ。昔の農家での落花生栽培は、たいていが現金収入を得るための方策だったから、気持ちも萎えるわけである。このページをはじめてから、歳時記を開かない日はないが、このような句の将来を思うと、暗澹たる気分になってくる。四季に生起する自然現象に依拠した構成の歳時記も、やがてはなくなってしまうのではあるまいか。最近、ヤケに人事句が流行しているのも、その兆しだろう。ならば、当サイトでは「最後のクラシカルな歳時記」を目指そうか。……などと、時々肩に力が入り過ぎるので、ハンセイはしています。(清水哲男)


October 25101998

 梨園の番犬梨を丸齧り

                           平畑静塔

をもぐ季節としてはいささか遅すぎるが、犬が梨を食べるとは知らなかったので、あわてての掲載だ。三鷹図書館から借りてきた『自選自解・平畑静塔句集』(白鳳社・1985)で、発見した。さっそく、作者に語ってもらおう。舞台は、宇都宮南部の梨園である。「……この梨園の出口に一頭の大犬が括られて番犬の用をさせられている。裏口からもぐり込むのを防ぐのだが、めったに吠えない。私たち初見のものも、人相風体がよいのか、吠えようとしないで近づくので、手にした梨を一つ地に置くと、番犬はしめたとばかりにかじりついて、丸ごと梨を食べてしまったのである。お見事と云うよりほかに言葉なしに感に入ったのである」。犬に梨園の番をさせるというのも初耳だが、梨を好む犬がいるとは、ついぞ聞いたことがない。梨園の番をしているうちに、好きになってしまったのだろうか。もっとも、私は犬を飼った経験がないので、単に知識が不足しているだけなのかもしれないのだけれど……。ところで「なしえん」と読まずに「りえん」と読む梨園(歌舞伎界)もある。作者の自解がなかったら、こちらの梨園と解釈するところだった。あぶない、あぶない。『漁歌』(1981)所収。(清水哲男)


October 26101998

 秋風や模様のちがふ皿二つ

                           原 石鼎

壇では、つとに名句として知られている。どこが名句なのか。まずは、次の長い前書が作句時(大正三年・1914)の作者の置かれた生活環境を物語る。「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去つて仮の宿りをなす」。文芸を志すとは、父母を裏切ること。そんな時代風潮のなかで、決然と文芸に身を投じた作者への喝采が一つの根拠だろう。ちなみに、石鼎は医家の生まれだ。第二の根拠は、二枚の皿だけで貧苦を表現した簡潔性である。模様の違う皿が意味するのは、同じ模様の小皿や大皿をセットで買えない貧窮生活だ。しかも、この二枚しか皿を持たないこともうかがえる。そして第三は、皿の冷たさと秋風のそれとの照応の見事さである。詠まれているのは、あくまでも現実的具体的な皿であり秋風であるのだが、この照応性において、秋風のなかの二枚の皿は、宙にでも浮かんでいるような抽象性を獲得している。すなわち、ここで長たらしい前書は消えてしまい、秋風と皿が冷たく響き合う世界だけが、読者を呑み込み魅了するのである。この句には飽きたことがない。名句と言うに間違いはない。『定本石鼎句集』(1968)所収。(清水哲男)


October 27101998

 かけそばや駅から山が見えている

                           奥山甲子男

まれた季節は、いつだろうか。蕎麦といえば普通は秋か冬かということになるが、この場合は駅のホームにある立ち食い蕎麦屋での句だから、無季としておく。作者が見ている山にも、季節感は書かれていない。そのあたりは、読者の想像におまかせなのである。そうした意味での明確な季節感はないのだけれど、まかされた読者の側では、ちゃんと季節感があるように感じられる。そこが面白い。ということは、誰にも駅のホームで「かけそば」を注文する作者の状況がわかり、それがあたかも自分の体験であるように感得されるからだろう。そこで、ある読者は「春」だと思い、別の読者は「秋」だと感じる。それで、いいのだ。とにかく、作者は急いでいる。乗り換えか、あるいはここで下車するのか、いずれにしてもゆっくり食事を取っているヒマはないのである。で、作者は急いで注文して、蕎麦が出てくるまでの束の間に所在なく遠くを見やると、そこには山が連なっていたというわけだ。目前の仕事に追われている目が、ほんの一瞬、見知らぬ「山」に感応する……。それだけの話だが、この種のことは誰にでも起きる。まさに人生の機微を巧みにとらえた句と言えよう。『火』所収。(清水哲男)


October 28101998

 信号の青つぎも青夕時雨

                           清水 崑

者の家から荻窪へ行く途中のバス停に、清水二丁目というのがあって、その標識に左に清水一丁目、右に清水三丁目とある。そこを通るとき、いつもこの句を思い出すのだ。作者が清水で、すべて清水だらけというのがおかしい(このインターネットの発信者も清水さんです)。ちなみに、そのすぐ近くには井伏鱒二の家があり、井伏は「清水町の先生」と呼ばれていました。河童の絵と政治マンガで知られる清水崑は文壇句会の常連で、『狐音句集』がある。この題も洒落てますね。音(おん)の「コオン」と狐の鳴き声の「コン」と「崑」。この句と句集については、車谷弘『わが俳句交遊記』で覚えた。冬の句では「古本の化けて今川焼愛し」が面白い。山から初時雨の便りが聞こえてきます。俳句では、そろそろ秋も終り。(井川博年)

[清水付記・もう三十年も前の鎌倉の飲み屋で、清水崑さんと同席したことを思い出した。仕事でもなんでもなく、たまたま店が混んでいたので、そういうことになったのだった。なにせ崑さんは著名人だったので恐縮していたら、にこにこと「同じ清水ですなあ」とおっしゃってくださり、気が楽になった。]


October 29101998

 丸善にノートを買つて鰯雲

                           依光陽子

五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)


October 30101998

 たんたんの咳を出したる夜寒かな

                           芥川龍之介

書に「越後より来れる嫂、当歳の児を『たんたん』と云ふ」とある。「たんたん」は、当歳(数え年一歳)というのだから、まだ生まれて間もない赤ん坊の愛称だ。その赤ん坊が、夜中に咳をした。風邪をひかしてしまったのではないかと、ひとり机に向かっていた父親は「ひやり」としたのである。晩秋。龍之介の手元には、おそらくはもう火鉢があっただろう。同じ内容の句に「咳一つ赤子のしたる夜寒かな」があって、こちらの前書には「妻子はつとに眠り、われひとり机に向ひつつ」とある。どちらの句も、新米の父親像が飾り気なく書かれていて好感が持てる。いずれの句が優れているかは判定しがたいところだが、「たんたん」のほうに俳諧的な面白みは出ているように思う。実際、新米の父親というものは仕様がない。赤ん坊の咳一つにも、こんなふうにうろたえてしまい、おろおろするばかりなのである。この句を読むと、我が身のそんな日々のことを懐しく思い出してしまう。龍之介もまた、しばらくの間は原稿を書くどころじゃない気分だったろう。『澄江堂句集』(1927)所収。(清水哲男)


October 31101998

 老人端座せり秋晴をあけ放ち

                           久米三汀

汀(さんてい)は、小説家・劇作家として有名だった久米正雄の俳号だ。といっても、彼の作品を読んだことのある人が、現代ではどれくらいいるだろうか。若い人は、名前すら知らないかもしれない。と、なんだか偉そうに書いている私も、実は受験浪人時代に『受験生の手記』を文庫本で読んだだけだ。秀才の弟に受験でも恋愛でも遅れをとり、ついに主人公が自殺に追い込まれるという暗い小説だった。ところで作者は、中学時代から俳壇の麒麟児とうたわれていた。だから、いわゆる文人俳句の人たちとは素養が違う。基本が、ちゃんとできていた。この句は昭和十年代前半のものと思われるが、なんでもない光景を、きちんと俳句にしてしまうところはさすがである。秋晴れの日、家の障子をすべて開けはなって、ひとり老人が背筋をのばして端然と座っている……。それだけのこと。が、この老いた男の様子はいかにもそれらしく、読者はまずそれに真面目にうなずくのだけれど、そのうちになんだか滑稽を覚えて笑えてくるのでもある。これが、いうところの「俳味」だろうか。何度思い出しても、飽きない味わいがある。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)




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