vト三句

October 31101998

 老人端座せり秋晴をあけ放ち

                           久米三汀

汀(さんてい)は、小説家・劇作家として有名だった久米正雄の俳号だ。といっても、彼の作品を読んだことのある人が、現代ではどれくらいいるだろうか。若い人は、名前すら知らないかもしれない。と、なんだか偉そうに書いている私も、実は受験浪人時代に『受験生の手記』を文庫本で読んだだけだ。秀才の弟に受験でも恋愛でも遅れをとり、ついに主人公が自殺に追い込まれるという暗い小説だった。ところで作者は、中学時代から俳壇の麒麟児とうたわれていた。だから、いわゆる文人俳句の人たちとは素養が違う。基本が、ちゃんとできていた。この句は昭和十年代前半のものと思われるが、なんでもない光景を、きちんと俳句にしてしまうところはさすがである。秋晴れの日、家の障子をすべて開けはなって、ひとり老人が背筋をのばして端然と座っている……。それだけのこと。が、この老いた男の様子はいかにもそれらしく、読者はまずそれに真面目にうなずくのだけれど、そのうちになんだか滑稽を覚えて笑えてくるのでもある。これが、いうところの「俳味」だろうか。何度思い出しても、飽きない味わいがある。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)


April 2742000

 うららかや袱紗畳まず膝にある

                           久米三汀

の置けない茶会の席である。茶碗を受けたあとの袱紗(ふくさ)が、畳まれずにずっと膝にあるという図。いかにうちとけた茶会とはいえ、普段ならきちんと畳むところだ。つい畳まずにあるのは、この麗かさのせいなのだと……。三汀(久米正雄)は十代より俳人として名を知られたが、途中から小説に転じて成功をおさめた。と言っても、今日彼の小説を読む人がいるかどうか。同じ鎌倉に住んだ永井龍男に簡潔な人物スケッチがあるので、引いておく。「明治大正を通じて、狭い世界に閉じ籠っていたわが国の文学・文学者は、大正期の末頃からにわかに社会性を帯びたが、久米正雄は当時の文壇を代表して一般社会に送り出された選手であった。派手な才能人であっただけに、文学者として社会人として常に毀誉褒貶の中にいた。人前では微笑を絶やさず明朗な人であったが、傷つくことも多く、苦渋に顔をゆがめて独居するさまを、その自宅で私はしばしば見た。俳句は、そのような鬱を散じるためにあった。三汀の句は紅を紅、青を青と云い極める華麗さに特徴があった。句座での三汀は純粋であった」(『文壇句会今昔』1972)。また、相当な新しがり屋でもあり、放送をはじめたばかりのラジオを聞くために、自宅に巨大なアンテナをおっ立てた話を随想で読んだことがある。今ならば、間違いなくパソコンにのめりこんでいただろう。「文藝春秋」(1937年4月号)所載。(清水哲男)


January 2112003

 ざうざうと湯ざめしてをり路次咄

                           久米三汀

語は「湯ざめ」で冬。銭湯の帰りの「路次(ろじ)」で、近所の知りあいの人に出会っての立ち話だ。湯ざめを気にしながらも、「咄(はなし)」はなかなか終わらない。こういうことは、日常茶飯事だったろう。目を引くのは「ざうざうと」である。「ぞくぞくと」の音便化と読む人もいるようだが、違うと思う。「ぞくぞくと」であれば、身の内からだんだん寒さが込み上げてくる状態だ。対して「ざうざうと」は、身の内からも何もない。文句無しの冷たい外気に触れて、全身がどんどんと冷え込んできている状態を指すと読める。言い換えれば、「ぞくぞくと」は人の実感にとどまり、「ざうざうと」は人をも含めた界隈全体に押し寄せている寒気を感じさせる。そのとき、路次を吹き抜けていた風の音からの発想だろうか。なお、「三汀」は小説家・久米正雄の俳号である。中学時代から河東碧梧桐門で頭角をあらわし、俳壇の麒麟児とうたわれた。小説家としては、いまで言う中間小説に才能を発揮したが、もはや文庫本にも収録されていないのではあるまいか。私が読んだのは、受験浪人時代にたまたま手にした『受験生の手記』、たった一冊だ。秀才の弟に受験でも恋でも遅れをとり、自殺に追い込まれるという悲しい物語だった。だから、受験シーズンになると、ふっと久米正雄の名を思い出すことがある。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)


February 0722003

 町は名古屋城見通しに雛売りて

                           久米三汀

語は「雛売る・雛市(ひないち)」で春。三月節句の前に、雛や雛祭りに用いる品々を売る市のことだが、現在ではデパートや人形専門店のマーケットに吸収されてしまった。掲句は、句集の刊行年から推して、明治期の雛市の様子を詠んだものだろう。「名古屋城」ではなく「名古屋」で切って、「城」は「しろ」と読む。長野県の出身だった作者は、とにかく市の豪勢さには驚いたようだ。名古屋城が「見通しの」景観の見事さもさることながら、売られている雛の格も、故郷のそれとは比べ物にならなかったに違いない。なにしろ嫁入りの結納を受け取ったら、その五倍から十倍は嫁入り道具にかけたという土地柄だ。いまでも、名古屋の嫁入りはよほど豪華だという話をよく聞くし、新婚向けのマンションがなかなか売れなかった時代もあったという。一戸建てでなければ家じゃない、あんな西洋長屋に住んでは沽券にかかわるというわけだ。他所者としては、そうした名古屋人のプライドや見栄の張り方に少しは反発を覚えてもよさそうなものだけれど、作者はあっさりと「町は名古屋」だ、たいしたものだとシャッポを脱いでしまっている。挨拶句かもしれないが、このシャッポの脱ぎ方から、往時の名古屋雛市の豪華さ華麗さがしのばれる。雛市のときには、同時に旧家が自慢の雛を、道を通る人に見えるように自宅で公開したというから、そちらもさぞや見事だったはずだ。地元の人の句ではないだけに、説得力を持つ。『牧唄』(1914)所収。(清水哲男)


October 14102003

 新米を燈下に検すたなごゝろ

                           久米三汀

語は「新米」で秋。「検す」は「ためす」。農夫が精米し終えた新米の出来具合を、「燈下」で仔細に真剣な目つきで眺めている。品質如何で、この秋の出荷価格が決まるからだ。たぶん、この年の出来には不安があったのだろう。昼間も見て等級にちょっと不安を持ったので、夜にもう一度、こうして念入りに検しているのである。武骨な農夫のてのひらの上の繊細な光沢の米粒との取り合わせが、米作りに生活をかけている農夫の緊張感を静かに伝えて見事だ。私たちの多くは、このように米の一粒一粒を熱心に見つめることはない。また、その必要もない。だから、たまさかこういう句に出会うと、生産に携わる人たちのご苦労に思いをいたすことになる。昔の農村のことしか知らないけれど、米の品質検査の日は、子供までがなんとなく緊張させられたものだった。検査官がやってきて、庭に積んだ俵の山のなかからいくつか任意の俵を選んで調べてゆく。彼は槍状に先をとがらせた細い竹筒を持っており、そいつを無造作に俵にずぶりと突き刺す。すると竹筒の管を通って、なかの米粒が彼のてのひらにこぼれ落ちてくる仕掛けだ。が、たいていの場合に、てのひらから溢れた米粒が地面にばらばらっとこぼれ落ちてしまう。そのたびに、子供の私は「痛いっ」と思った。むろん、親のほうがもっと痛かったに違いない。そんな遠い日の体験もあって、掲句はことのほかに身にしみる。三汀・久米正雄は小説家だから、自分のことを詠んでいるわけではない。が、ここまで微細に感情移入できるのは、農家の仕事に敬意を払う日常心があってこそのことだろう。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)


May 1552004

 我鬼窟に百鬼寄る日や夏芭蕉

                           久米三汀

に「芭蕉」といえば秋の季語。「夏芭蕉」なら、歳時記的には「玉巻く芭蕉」のことだろう。初夏、固く巻いたままの新葉が伸び、薄緑の若葉がほぐれてくる。芭蕉の最も美しい季節だ。掲句は我鬼窟(芥川龍之介邸)で行われる句会の案内状に、三汀(作家・久米正雄)が記したものだ。仲間内向けのちょっとした挨拶句だから、調子は軽い。句会の様子を伝えた「文章倶楽部」(大正八年八月号)によると、参加者は主人の龍之介、宗匠格の三汀、室生犀星、滝井孝作、菊池寛、江口渙のほか、谷崎潤一郎の義妹・勢以子や大学生など十数名。まさに「百鬼」だ。それにしてもこれだけの人数が集まれば、冷房装置などない頃だから、暑かったでしょうね。詠んだ句を団扇に書いて、それでパタパタやったらしい。そんな調子だから、取り立てて見るべき句も見当たらない。いわゆる「遊俳」気分の座であった。この句を紹介した本『文人俳句の世界』で、小室善弘が気になることを書きつけている。「これはこれで文人交歓の図としてとがめだてするにも及ばないことだが、同じ時期に「胸中に冬の海ある暗さかな」と凄愴な象徴句を作り得る三汀が、文士仲間の宗匠におさまって、せっかくの素質を調子の低い遊びのなかにうやむやにしてしていく気配が感じられるのは、残念な気がする」。遊びだからといって調子を下げているうちに、いつしか下がりっぱなしになってしまう。その怖さは、たしかにある。本格的な結社の宗匠にだって、現にそういうことは起きている。「遊びだけど、真剣に遊ぼう」と言った辻征夫の言葉を、あらためて思い出した。(清水哲男)


February 2422005

 炬燵今日なき珈琲の熱さかな

                           久米三汀

燵(こたつ)をかたづけた後の句だから、季語は「炬燵塞ぐ(こたつふさぐ)」で春。こういう句は、ちょっと想像では詠めないだろう。実感だ。作者は昨日までは炬燵で珈琲を飲んでいた。そのときには気がつかなかったのだが、こうして炬燵をかたづけて、足下などが冷たいなかで飲むと、こんなに熱いものを飲んでいたのかとあらためて気づいたというのである。周囲の環境によって、同じ温度のものも違ったふうに感じられる。当たり前と言えばそれまでだけれど、こうしたささやかな発見を書きつけるのも俳句の醍醐味だ。三汀は、小説家・劇作家の久米正雄(1891〜1952)の俳号。少年時代から、俳句をよくした。いまの人はもう読まないだろうが、漱石の遺児・筆子との恋の破局を描いた『蛍草』『破船』などで一躍人気作家となり、新感覚の通俗小説にも筆を染めたことで知られる。ところで、お気づきだろうか。掲句を現代の句として読めば道具立てに変わったところはないが、昔の句と知れば「ほお」と思うのが普通だろう。自宅の炬燵で珈琲を飲む。こんなハイカラなことをやっていた人は、そう多くはなかったはずだ。この人はとにかく新しもの好きだったようで、ラジオ放送がはじまったときに受信すべく、鎌倉の自宅の庭にものすごい高さのアンテナを建てたという話を、当人の随筆だったか何かで読んだことがある。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0332006

 春の雪ひとごとならず消えてゆく

                           久米三汀

語は「春の雪」。作者の「三汀」は、小説家として知られた久米正雄の俳号である。掲句は、小室善弘『文人俳句の世界』で知った。追悼句だ。『ブラリひょうたん』などの名随筆家・高田保が亡くなったのは、1952年(昭和二十七年)二月二十日だった。このときの作者は病床にあったので、通夜にも告別式にも参列はしていない。訃報に接して,大磯の高田邸に掲句を電報で打ったものだ。したがって、原文は「ハルノユキヒトゴトナラズキエテユク クメマサオ」と片仮名表記である。電報が届いたのは、ちょうどみんなが火葬場に行く支度をしているところで、その一人だった車谷弘の回想によれば、緊急の場合で、すぐには電文の意味を解しかねたという。紋切り型の弔電が多いなかで、いきなりこれでは、確かに何だろうかと首をかしげたことだろう。しかし、しんみりした味わいのある佳句だ。淡く降ってはすぐに消えてゆく春の雪に重ねて、友人の死を悼んでいるのだが、その死を「ひとごとならず」と我が身に引きつけたところに、個人に対する友情が滲み出ている。しかもこの電報のあと、わずか十日にして、今度は作者自身が世を去ったのだから、「ひとごとならず」の切なさはよりいっそう募ってくる。閏(うるう)二月二十九日、六十一歳の生涯であった。掲句を紹介した永井龍男は「終戦後の生活に心身ともに疲れ果てたと見られる死であった」と述べ、追悼の三句を書いている。そのうちの一句、「如月のことに閏の月繊く」。永井龍男『文壇句会今昔』(1972)所載。(清水哲男)


May 1652007

 神輿いま危き橋を渡るなり

                           久米三汀

は夏祭の総称であり、神輿も夏の季語。他は春祭、秋祭となる。大きな祭に神輿は付きもの。ワッセワッセと勇ましい神輿が、今まさに町はずれの橋を渡っている光景であろうか。「危き橋」という対比的なアクセントが効いている。現今の橋は鉄やコンクリートで頑丈に造られているが、以前は古い木橋や土橋が危い風情で架かっていたりした。もともと勇ましい熱気で担がれて行く神輿だけれど、「危き橋」によっていっそう勢いが増し、その地域一帯の様子までもが見えてくるようである。世間には4トン半という黄金神輿(富岡八幡宮)もあれば、子どもたちが担ぐ可愛い樽みこしもある。掲出句は巨大な神輿だから危いのではない。危い橋に不釣合いなしっかりした神輿が、祭の勢いで少々強引に渡って行く光景だろう。向島に生まれ住んだ富田木歩の句に「街折れて闇にきらめく神輿かな」がある。今年の浅草三社祭は明後十八日から始まる。昨年は神輿に大勢の人が乗りすぎ、担ぎ棒が折れるという事故が起きた。そうした危険に加え、神輿に人が乗るのは神霊を汚す行為だ、という主催者側の考え方も聞こえてくる。今年はどういうことに相成るのか――。三汀・久米正雄は碧梧桐門。一高在学中に新傾向派の新星として俳壇に輝いた。のち、忽然と文壇に転じた。戦後は俳誌「かまくら」を出し、鎌倉の文士たちと句作を楽しんだ。「泳ぎ出でて日本遠し不二の山」三汀。句集に『牧唄』『返り花』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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