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December 22121998

 定年の人に会ひたる冬至かな

                           高橋順子

至。昼の時間が最も短い日。一年を一日に例えるならば、冬至はたそがれ時ということになる。そんな日に偶然にも、定年を迎えた人に会った。定年もまた、人生のたそがれ時には違いない。その暗合に、作者は人生的な感慨を覚えている。そして、作者の感慨は、読者の心の内に余韻となって共鳴していくだろう。さりげないけれど、内実は鋭い句だ。作者は詩人で、俳句もよくする(俳号は泣魚)。「定年」で思い出した。句とは無関係だが、作家の篠田節子という人が「朝日新聞」(12月20日付朝刊)に、こんなことを書いていた。「買物に行って近所に住む定年退職後の『おじさん』に会うと、『ねえ、お茶、飲もうよ』とマクドナルドに連れ込んでしまう友人がいる。山の手の住宅地で、マダムファッションに身を固めて父母会に出席する風土に、きっちり溶け込んでいる主婦である。『おじさん』の話は新鮮で驚かされることが多いという。……」。なんとなく嘘っぽい話だ。事実だとすれば、こんなふうに定年後の男をおちょくる女もいるのかと、腹が立つ。ノコノコついていく男にも呆れるが、マクドナルドでちょっと「おじさん」の話を聞いたくらいで、何か人生のタメになると思っている軽薄な女なんぞの顔も見たくはない。「おじさん」と呼ばれる立場の読者の皆さんも、十分にご注意あれ。『博奕好き』(1998)所収。(清水哲男)


March 2632008

 春の風邪声を飾りてゐるやうな

                           高橋順子

うまでもなく「風邪」は冬の季語であり、風邪にまつわる発熱、咳、声、のど、いずれも色気ないことおびただしい。けれども「春の風邪」となると、様相はがらりと一変する。咳もさることながら、鼻にかかった風邪声には(特に女性ならば)どことなく色気がにじんでくるというもの。「春」という言葉のもつ魔力を感じないわけにはいかない。寒い冬に堪えて待ちに待った暖かい春を迎える日本人の思いには、また格別なものがある。秋でも冬でもない、やわらかくてどこかしら頼りない「春の風邪」だからこそ、「声を飾」ることもできるのであろう。声を台無しにしたり壊したりしているのではなく、「飾りて」と美しくとらえて見せたところがポイント。しかも強引に断定してしまうのではなく、「ゐるやうな」とソフトにしめくくって余韻を残した。そこに一段とさりげない色気が加わった。順子は泣魚の俳号をもつ俳句のベテランであり、すでに『連句のたのしみ』(1997)という好著もある。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけの《駄木句会》を開いているが、掲出句はその席で作ったもの。この句に対し、長吉は即座に「うまいなあ。○だな。なるほどなあ、これ、うまいわ」と手ばなしで感心している。順子は「実感なんですよ、鼻声の」と応じている。なるほど、いくら「春の風邪」でも、男では「声を飾りて」というわけにはいかない。同じ席で「春めくや社のわきの藁人形」という、長吉を牽制したような句も作られている。『けったいな連れ合い』(2001)所収。(八木忠栄)


October 20102010

 時計屋の主人死にしや木の実雨

                           高橋順子

の季語「木の実」には、「木の実時雨」「木の実独楽」「万(よろづ)木の実」など、いかにも情緒を感じさせる傍題がいくつかある。掲句の「木の実雨」も傍題の一つ。まあ、木の実と言っても、一般にはどんぐりのたぐいのことを言うわけだろうけれど、どこか懐かしい響きをもつ季語である。たまたま知り合いか、または近所に住む時計屋の主人なのか、彼が亡くなったらしいのだけれど、コツコツコツコツとマメに時を刻む時計、それらを扱う店の主人の死は、あたかも時計がピタリと止まったかのような感じに重なって、妙に符合する。木の実が落ちる寂しい日に、時計屋のおやじは死んだのかもしれない、と作者は推察している。そこにはシイーンとした静けさだけが広がっているように思われる。「死にしや」という素っ気ない表現が、黙々と働いていたであろう時計屋の主人の死には、むしろふさわしいように思われる。俳句を長いことたしなんでいる順子の俳号は泣魚。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけでやる「駄木句会」で長吉から○をもらった七十余句が、「泣魚集」として順子のエッセイ集『博奕好き』(1998)巻末に収められている。そこからの一句をここに選んだ。他の句には「柿の実のごとき夕日を胸に持つ」や「春の川わたれば春の人となる」などがある。(八木忠栄)


November 07112012

 何にても大根おろしの美しき

                           高橋順子

根を詠んだ句は多いし、「大根洗」「大根干す」などの季語もある。それだけ古くから、大根は私たち日本人の暮しにとって欠かせないものになっているというわけである。食料としてはナマでよし、煮てよし、炒めてよし、漬けてよしである。それにしても、「大根おろし」の句はあまり見かけない。簡単に食卓に並べられる大根おろし。その水気をたっぷり含んだ素朴さに、順子は今さらのようにその美しさを発見し、素直に驚いているのだ。下五を「美しさ」としたのでは間抜けな感嘆に終わってしまうけれど、「美しき」と結んだことで句としてきりっと締まり、テンションが上がった。食卓で主役になることはあり得ないけれど、「大根おろし」がないとどうしようもない日本のレシピはたくさんある。おろしには食欲も気持ちもさらりと洗われる思いがする。大根そのもののかたちは「美しき」とは必ずしも言えないけれど、おろしにすることによって、水分をたっぷり含んだ透明感があって雪のような純白さには、誰もが感嘆させられる。「美しき」とは「おいしさ/美味」をも意味しているのだろう。大根のあの辛味もなくてはならないもの。掲句には女性ならではの繊細な観察が生かされている。順子の他の句「しらうをは海のいろして生まれけり」にも、繊細で深い観察が生きている。『博奕好き』(1998)所収。(八木忠栄)


June 0862016

 あめんぼをのせたる水のしなひけり

                           高橋順子

書きに「六義園」とあるから、駒込の同園の池であめんぼを見つけて詠んだものと思われる。あめんぼ(う)は「水馬」と書く。関西で「みずすまし」のことを呼んでいたのだそうだが、「みずすまし」は「まいまい」のことであって別物とされる。あめの匂いがするところから、古来「あめんぼ(う)」と呼ばれてきた。古い文献に「長き四足あつて、身は水につかず、水上を駆くること馬の如し。よりて水馬と名づく」とある。水上を駆ける馬、とはみごとな着目と命名ではないか。重量のないようなあめんぼをのせて「水のしなひけり」という見立ては、細やかで唸らせる観察である。順子の俳号は泣魚。掲出句は夫君・故車谷長吉との“反時代的生活”を書いたエッセイ集『博奕好き』(1998)に「泣魚集」として俳句が78句収録されているなかの一句。他に「しらうおは海のいろして生まれけり」がある。泣魚は長吉らと連句もさかんに巻き、呼吸の合ったところを見せていた。例えばーー。(八木忠栄)

雨の中森吉山へ秋立つ日/長吉  花野の熊にひびかせよ鈴/泣魚




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