ニ衆句

January 0211999

 初髪の尻階段をのぼりゆく

                           柳家小三治

髪は、新年はじめて結い上げられた髪のこと。主として島田など日本髪を言う。襟足も美しく和服姿と調和して、男どもは目の保養をする。中年の初髪も凛としてよいものだが、やはり若い女性の匂い立つような風情は絶品だ。この姿を素直に詠めば、たとえば「初髪の娘がゆき微風したがへり」(柴田白葉女)というところだろうが、作者は落語家らしく(いや「男らしく」と言うべきか)、ちょいとひねってみせた。地下鉄の階段かエスカレーターか、あるいはデパートのそれであろうか。作者の目の前に、初髪の女性の大きなお尻がのぼってゆくというわけで、これまた絶景なれども、いささか鼻白む。と同時に、なんだか嬉しいような気もする。正月風景のスナップ句に、かくのごときローアングルを持ってきたところが愉快だ。柳家小三治は、ここ十年ほどの落語界のなかでは私が最も好きな人で、やがて名人と言われるようになる器だと思う。高座の面構えもいいし、彼の話芸には客に媚びる下品さが微塵も感じられない。かといって名人面をぶら下げているわけでもなく、自然体なのだ。この句においても、また然り。一つ間違えれば下品になるところを、水際で自然にすっと本能的に体をかわしている。すなわち、楽しき人徳の句なのである。作者は昭和十四年(1939)己卯生まれ。年男だ。「うえの」(1999年1月号)所載。(清水哲男)


November 28112007

 ひといきに葱ひん剥いた白さかな

                           柳家小三治

ういう句は、おそらく俳人には好かれないのだろう。しかし、いきなり「ひといきに」「ひん剥」く勢いと少々の乱暴ぶりは、気取りがなく率直で忘れがたい。しかもそれを「白さ」で受けたうまさ。たしかに葱の長くて白い部分は、ビーッと小気味よく一気にひん剥いてしまいたい衝動に駆られる。スピードと色彩に加えて、葱独特のあの香りがあたりにサッと広がる様子が感じられる。台所が生気をとり戻して、おいしい料理(今夜は鍋物でしょうか?)への期待がいやがうえにも高まるではないか。ある有名俳人に「・・・象牙のごとき葱を買ふ」と詠んだ句があるけれど、白さの比喩はともかく、象牙では硬すぎて噛み切れず、立派すぎてピンとこない。葱の名句は、やはり永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」だと、私は決めこんでいる。掲出句には、高座における小三治のシャープで、悠揚として媚を売らず、ときに無愛想にも映る威勢のよさとも重なっているところが、きわめて興味をそそられる。ひといきにひん剥くような威勢と、際立った色彩と香りを高座に重ねて楽しみたい。小三治は「東京やなぎ句会」の創立メンバーで、俳号は土茶(どさ)。俳句についてこう語っている。「俳句ですか。うまくなるわけないよ。うまい人は初めからうまいの。長くやってるからってうまくはならないの。達者になるだけよ。(中略)これからの私は下手でいいから自分に正直な句を作ろうと考えています。ところが、これが難しいんだよね」。よおっくわかります。呵呵。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


February 0422009

 スナックに煮凝のあるママの過去

                           小沢昭一

、昔の家はみな寒かった。ストーブのない時代、せいぜい炬燵はあっても、炬燵で部屋全体が温まるわけではない。身をすくめるようにして炬燵にもぐりこんでいた。まして火の気のない時の台所の寒さは、一段と冷え冷えとしていた。だから昨夜の煮魚の汁は、朝には鍋のなかで自然と煮凝になっていることが多かった。掲出句の煮凝は料理として作られた煮凝ではなく、ママさんが昨夜のうちに煮ておいた魚の煮汁でできた煮凝であろう。お店で愛想を振りまいているママさんの過去について、男性客たちはひそかに妄想をたくましくしているはずだが、知りようもない。知らないなりに、しみじみと煮凝をつついているほうが身のためです。まあ、女性としての変遷がいろいろとあったのでしょう。決して輝かしい一品料理ではなく、さりげない(突き出しの)煮凝に過去の変遷が重なって感じられる。ママさんの過去がそこに一緒に凝固しているようでもある。「煮凝」と「ママの過去」の取り合わせ、昭一ならではの観察に感服。小ぢんまりとしてアットホームなスナックなのだろう。この場合、「女将(おかみ)」ではなく、「ママ」という言葉のしゃれた響きがせつない。一九六九年一月の第一回やなぎ句会の席題句で、天位に入賞した傑作。その席で、ほかに「煮凝や病む身の妻の指図にて」(永井啓夫)「煮こごりの身だけよけてるアメリカ人」(柳家小三治)などの高点句もあった。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


May 2052009

 鶯のかたちに残るあおきな粉

                           柳家小三治

は「春告鳥」とか「花見鳥」とも呼ばれるように、季語としては通常は春である。けれども、東北や北海道では夏鳥とされ、「老鶯」の場合は晩春から夏にかけてとされるのだから、この時季にとりあげてもよかろう。鶯はきれいに啼く声や鮮やかな鶯色、つまり声と色彩に注目して詠われることが多い。俳句では「鶯」の一語に、すでに「啼いている鶯」の意味がこめられているから、「啼く鶯」とも「鶯啼く」とも詠む必要はない。小三治は、ここでは鶯の「かたち」から入って、青黄粉の「あお」に到っている。そこに注目した。餅か団子にまぶして食べた青黄粉が、皿の上にでもたまたま残った、そのかたちが鶯のかたちに似ていることにハッと気づいたのであろう。青豆を碾いた青黄粉の色は鶯色に近いし、そのかたちに可愛らしさが感じられたのであろう。黄粉も青黄粉も、今は和菓子屋でなければ、なかなかお目にかかれなくなった。この投句があった東京やなぎ句会の席に、ゲストで参加していた鷹羽狩行はこの句を“天”に選んだという。そして「すばらしい。歳時記を出す時には〈鶯餅〉の例句に入れたい」とまで絶賛したと、狩行は書いている。青黄粉といえば、落語に抹茶とまちがえて青黄粉と椋の皮を使ったことで爆笑を呼ぶ「茶の湯」という傑作がある。その噺が小三治の頭をちらりとかすめていたかも……。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


July 0972014

 羅や母に秘めごとひとつあり

                           矢野誠一

にだって秘めごとの一つや二つあるだろう。あっても不思議はない。家庭を仕切って来たお母さんにだって、長い年月のうちには秘めごとがあっても、むしろ当然のことかもしれない。しかも厚い着物ではなく、羅(うすもの)を着た母である。羅をすかして見えそうで見えない秘めごとは、子にとって気になって仕方があるまい。この場合、若い母だと生臭いことになるけれど、そうではなくて長年月を生きて来た母であろう。そのほうが「秘めごと」の意味がいっそう深くなってくる。母には「秘めごと」がたくさんあるわけではなく、「ひとつ」と詠んだところに惹かれる。評論家・矢野誠一は東京やなぎ句会に属し、俳号は徳三郎。昨年七月の例会で〈天〉を二つ獲得し、ダントツの高点を稼いだ句。同じ席で「麦めしや父の戦記を読みかへす」も〈天〉を一つ獲得した。披講後に、徳三郎は「父と母の悪事で句が出来ました」と言っている。同じ「羅」で〈天〉を一つ獲得した柳家小三治の句「羅や真砂女のあとに真砂女なし」も真砂女の名句「羅や人悲します恋をして」を踏まえて、みごと。『友ありてこそ、五・七・五』(2013)所載。(八木忠栄)


March 1832015

 肩ならべ訪ふぶらんこの母校かな

                           柳家小三治

句では「ぶらんこ」は「ふらここ」「ふらんど」「鞦韆」「秋千」など傍題がいくつかある。その状況や句姿によって、さまざまな遣い方があるわけだ。小学校だろうか、何かの用があって友人と一緒に母校を訪ねたのだろう。単に訪ねたというだけでなく、その折に昔よく遊んだぶらんこが懐かしく、二人そろって乗ってみたときの情景である。その気持ちはいかにも「母校かな」(!)であろう。ところで、こんなことが数年前にあった。ーー四谷四丁目に、しっかりした木造の廃校になった校舎をそのまま活用して、区民の公共施設として今なお使われている大きな旧小学校がある。私が参加しているある句会は、ここで毎月開催されている。この旧小学校にかつて柳家小三治が学んでいたことを、何かで知った私は俳句もやっている小三治師に、その旨ハガキを出した。さっそく返事が来て「四谷第四小学校卒業生・柳家小三治」とあった。さすが落語家、シャレたものです。愉快! 但し、掲出句の「母校」が旧四谷第四小学校か否かはわからない。二期四年間務めた落語協会会長を昨年任期満了で退任された。他に「天上で柄杓打ち合う甘茶かな」がある。『五・七・五 句宴四十年』(2009)所載。(八木忠栄)




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