mq句

April 0141999

 四月馬鹿病めど喰はねど痩せられず

                           加藤知世子

月馬鹿の句には、自嘲句が多い。自分で自分を馬鹿にしている分には、差し障りがないからである。この句も、典型的なそれだ。「病まねど喰えど太れない」私としては、逆に少々身につまされる句ではあるけれども、見つけた瞬間には大いに笑わせてもらった。作者の人柄がよくないと、なかなかこうは詠めないだろう。楽しい句だ。このように自分で自分を笑い飛ばせる資質は、俳人にかぎらず表現者一般にとって、とても大切なものだと思う。それだけ深く、自分を客観視できるからだ。その意味で、この国の文芸や芸術作品には、とかく二枚目のまなざしで表現されたものが多くて辟易させられることがある。ときに自己陶酔的な表現も悪くはないが、度が過ぎると嫌味になってしまう。同様に、美男美女につまらない人物が多いのは、他人の好意的な視線だけを栄養にして育ってきているからで、自己否定ホルモンの分泌が足らないせいだろう。他人は馬鹿にできても、ついに自分を馬鹿にすることができない……。せっかく生まれてきたというのに、まことに惜しいことではないか。バイアグラも結構なれど、こうした「馬鹿」につける薬も発明してほしい。(清水哲男)


April 1442000

 針のとぶレコード川のあざみかな

                           あざ蓉子

ざ蓉子の句のほとんどは、字面で追ってもつかめない。イメージや感覚の接続や断裂、衝突を特徴としている。この場合は、感覚的に味わうべきなのだろう。すなわち、レコード(もちろんSP版、蓄音機で聞く)の針とびのときに感じる「あ、イタッ」という感覚と薊(あざみ)のトゲに触った感触とが照応しているのだ。この感覚的な理解からひっくりかえってきて、はじめて句は作者がレコードを聞いている光景を想起させるというメカニズム。窓から春の川辺が見えている部屋の光景も、浮かんでくる。戦後大ヒットした流行歌に「あざみの歌」というのがあった。「山には山の憂いあり」と歌い出し、「まして心の花園に咲きしあざみの花ならば」で終わる。恋の悩みを歌っているが、素朴なあざみの花をあしらったところに、この歌の戦後性が見て取れよう。身も心も疲れ果てていた若者の胸に咲くのだから、たとえば薔薇のような豪華な花では耐えられない。薊ほどの地味な野の花が、ちょうどよかったのだ。俳句でいえば「深山薊は黙して居れば色濃くなる」(加藤知世子)と、こんな感覚につながっていた。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)


June 0262000

 吾子着て憎し捨てて美しアロハシャツ

                           加藤知世子

手な身なりは、軽薄や不良に通ずる。旧世代は、総じてそんなふうに思いがちだ。いまどきの茶髪やピアスや厚底サンダルに違和感を抱くのも、やはり圧倒的に旧世代の人たちだろう。母親として、アロハシャツを着て得意になっている息子が心配で、心配のあまりに憎たらしくさえ見えてきた。「そんなものは捨てちゃいなさいっ」。で、いざ捨てるとなってよくよく見ると、句の心持ちになった。この気持ちのひっくり返り加減を正直に表現したところ、作者の困惑ぶりが、実に面白い。物の本によれば、アロハはホノルル在住の中国人が発案したものだという。言われてみると、なるほど中国風の色彩の美しさだ。日本には戦後渡ってきて、大流行した。なにしろお堅い歳時記ですら、季語として独立した項目を作ったくらいだから、とても無視などできなかったわけだ。その後はだんだんと「夏シャツ」の項目に吸収される傾向にあるが、現在いちばん新しい講談社の『新日本大歳時記』では、依然として独立項目の座を占めている。例句には「アロハ着て竜虎の軸を売り余す」(木村蕪城)など。ちなみに、私は一度も着たことがない。べつに旧世代の美意識に与したからではなく、単純に恥ずかしいからだ。それに浴衣と同様、あれは私のように痩せた男には似合わないと思う。『俳諧歳時記』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 0362003

 何か負ふやうに身を伏せ夫昼寝

                           加藤知世子

語は「昼寝」で夏。昼寝というと、たいがいは呑気な寝相を思ってしまうが、掲句は違う。「身を伏せ」て寝るのは当人の癖だとしても、何か重いものを負っているかに見えるというのである。最近の夫の言動から推して、そんな具合に見えているのだろう。痛ましく思いながらも、しかしどうしてやることもできない。明るい夏の午後に、ふっと兆した漠然たる不安の影。この対比が、よく生きている。一つ家に暮らす妻ならではの一句だ。ちなみに、「夫」は俳人の加藤楸邨である。ただ実は、作者・知世子の夫を詠んだ句には、このようなシリアスな句は珍しい。例外と言ってもよいくらいだ。家庭での楸邨はよほどの怒りん坊であったらしく、その様子は多くカリカチュアライズされて妻の句に残されている。「怒ることに追はれて夫に夏痩なし」。これまた妻ならではの句だけれど、距離の置き方が掲句とは大違いだ。ああまた例によって怒ってるなと、微笑すら浮かべている。なかで極め付けは「夫がき蜂がくすたこらさつさとすさるべし」だろう。「き」と「く」は「来」で、なんと夫を「蜂」と同じようなものだとしているのだから、思わずも笑ってしまう。三十六計逃げるに如かず、君子危うきに近寄らず。と、楸邨の癇癪玉を軽く避けている図もまた、長年連れ添った妻ならではの生活模様だ。夫よりも一枚も二枚も上手(うわて)だったと言うしかないけれど、しかし読者には、これで結局はうまくいっている夫婦像が浮かび上がってくる。『朱鷺』(1962)所収。(清水哲男)


July 1872008

 紅の花枯れし赤さはもうあせず

                           加藤知世子

の花が夏に枝の先に黄色の花をつけ、しだいに赤色に変化してゆく。赤色になった紅の花はやがて枯れてしまうが、枯れてしまった赤さはもう色褪せることはないと作者は事実を言う。これは事実だが作者の思いに聞こえる。どういう思いか。それは命が失われてもその赤が永遠に遺されたという感動の吐露である。花の色はそのまま人間の生き方の比喩になる。眼前の事物を凝視することから入って、人生の寓意に転ずる。これは「人間探求派」と呼称された俳人たち、特に加藤楸邨、中村草田男の手法について言われてきたことだ。「人間探求派」の出現の意義は反花鳥諷詠、反新興俳句にあった。だから従来の俳趣味に依らず、近代詩的モダニズムに依らずの新しいテーマとして、写実を超えたところに「文学的」寓意を意図したのだった。加藤楸邨理解としてのこの句に盛られた寓意は手法として納得できる。一方で楸邨は「赤茄子の腐れてゐたるところより幾許もなき歩みなりけり」の齋藤茂吉の短歌を自分の目標として明言している。茂吉の腐れトマトの赤は寓意に転じない。もっと視覚的で瞬間的な事物との接触である。この知世子句のような地点の先に何があるのか、そこを探ることが「人間探求」の新しい歴史的意味を拓いていくことになる。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 28122012

 蛾を救ひその灰色をふりむかず

                           加藤知世子

のとき作者34歳。前書きに「夫に」とある。楸邨は4歳年上。結婚14年目の作品である。三月号所載で他は冬季の句が並んでいるからこの蛾は冬の蛾と解していい。楸邨が蛾をつまんで外に置いた。「救ひ」だから放ったというよりもそっと葉の上にでも置いたのであろう。妻はその蛾が気になっているのだが、夫はもう見向きもしない。楸邨という人、それを見ている妻の心境。夫婦の独特の呼吸が伝わってくる。同号の楸邨作品に「芭蕉講座發句篇上巻」成ると前書きを置いて「寒木瓜のほとりにつもる月日かな」の一句。楸邨の人柄がただただ懐かしい。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)




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