April 121999
父を呼ぶコーヒの時間春の宵
小山白楢
優れた句というのではないが、時代の証言としては微笑ましい作品だ。この句は、新潮社が1951年に発刊した『俳諧歳時記』に載っており、となれば、この茶の間の光景は戦後すぐのものだろう。もとよりインスタント・コーヒーなどなかったころだから、とても貴重なコーヒーというわけで、一家で大事にして飲んでいた雰囲気も表現されている。飲む時間は、一家が揃ってくつろげる時、すなわち宵の刻であった。当時は、夜間にコーヒーを飲むと寝られなくなるということがしきりに言われていた記憶もあるが、そんなことは構わずに、作者一家は宵のコーヒーを楽しみに団欒していたようだ。古い日本映画でも見ているような、そんな懐しさに誘われる。もっとも、我が家にはコーヒーどころか、満足な茶もなかったけれど……。なお、表記の「コーヒ」は誤りではない。作者は、おそらく関西の人ではないだろうか。いまでも関西の店に入ると、「コーヒー」ではなくて「コーヒ」とメニューにある店がある。関西弁の文脈に「コーヒー」を入れて発音すると、たしかに「コーヒ」となるから、こう表記しなければ正確さに欠ける。この類の相違は他にもいろいろあって、関西育ちの家人は「お豆腐」のことを「おとふ」と発音し、メモ的にはしばしば表記もする。(清水哲男)
April 111999
日曜といふさみしさの紙風船
岡本 眸
日曜日。のんびりできて、自分の時間がたくさんあって、なんとなく心楽しい日。一般的にはそうだろうが、だからこそ、時として「さみしさ」にとらわれてしまうことがある。家人が出払って、家中がしんと静まっていたりすると、故知れぬ寂寥感がわいてきたりする。そんなとき、作者は手元にあった紙風船をたわむれに打ち上げてみた。五色の風船はぽんと浮き上がり、二三度ついてはみたものの、さみしい気持ちの空白は埋まらない。華やかな色彩の風船だけに、余計に「さみしさ」が際だつような気がする……。作者はふと、この日曜日そのものが寂しい「紙風船」のようだと思った。ところで、「風船」とは実に美しいネーミングですね。風の船。名付けるときに「風」を採用することは誰にも思いつくところでしょうが、次に「船」を持ってきたのが凄い。凡庸な見立てでは、とても「船」のイメージとは結び付きません。いつの時代の、どんな詩人の発想なのでしょうか。そんなことを考えていたら、ひさしぶりに「紙風船」をついてみたくなりました。あまり大きい風船ではなく、少してのひらに余るくらいの大きさのものを。(清水哲男)
April 101999
囀を聞き分けてゐる鳥博士
大串 章
鳥の鳴き声は、地鳴きと囀り(さえずり)とに分けられる。地鳴きは仲間との合図のためなどの普通の鳴き声であり、囀りは繁殖期の求愛や縄張り宣言のための声だ。したがって、囀りは春の季語。句は、山中での所産だろうか。騒々しいほどに鳴く鳥たちの声を、一つ一つ厳密に聞き分けている「鳥博士」がいる。「博士」は鳥類専門の研究者かもしれないが、ここでは「素人博士」と読んだほうが面白い。鳴き声の種類をとてつもなくたくさん知っている人で、そのことをちょっと自慢に思っている。「鳥博士」にかぎらず、こうした「博士」はどこにも必ずいるものだ。「花博士」であったり「魚博士」であったり、はたまた「酒博士」や「異性博士」等々。当ページの協力者である詩人の井川博年君などは、さしずめ「俳句博士」だろう。この「鳥博士」は、いまのところ大人しい。しかし、こういう人にみだりに質問を発してはいけない。発した途端に、人にもよるが、堰を切ったようにあれこれと説明をしはじめる人もいるからだ。そうなると、辟易させられることも多く、やはり「博士」はひとり静かにそっとしておくべきだということを思い知らされたりする。もとより、それもまた楽しからずや、ではあるのだけれど。俳誌「百鳥」(1999年4月号)所載。(清水哲男)
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