R句

May 1851999

 五月雨や人語り行く夜の辻

                           籾山庭後

月雨(さみだれ)は旧暦五月の雨だから、梅雨と同義と読んでよいだろう。そぼ降る小雨のなかの夜の辻を、何やら語り合いながら行く人ふたり。それぞれの灰色の唐傘の表情が、ふたりの関係を示しているようだ。だが、もとより作者の関心は話の中身にあるのではなく、情景そのものが持つ抒情性に向けられている。さっとスケッチしているだけだが、情緒纏綿たる味わいがある。籾山庭後は、子規を知り、虚子を知り、永井荷風の友人だった出版人。この句は大正五年(1916)二月に自分の手で出版した『江戸庵句集』に収められている。なぜ、そんなに古い句集を、私が読めたのか。友人で荷風についての著書も多い松本哉君が、さきごろ古書店で入手し、コピーを製本して送ってくれたからだ。「本文の用紙、平綴じの針金ともに真っ赤に酸化していて崩壊寸前」の本が、八千五百円もしたという。深謝。いろいろな意味で面白い本だが、まずは荷風の長文の序文が読ませる。この句など数句を引いた後に、こう書いている。「君が吟詠の哀調はこれ全く技巧に因るものにあらずして君が人格より生じ来りしものなるが故に余の君を俳諧師として崇拝するの念更に一層の深きを加へずんばあらず」。(清水哲男)


December 05121999

 金の事思ふてゐるや冬日向

                           籾山庭後

書に「詞書略」とある。本当は書きたいのだが、事情があって書かないということだろう。なにせ、金のことである。誰かに迷惑がかかってはいけないという配慮からだ。籾山庭後は、経済人。出版社「籾山書店」を経営して身を引いた後も、時事新報社、昭和化学などの経営に参加した。永井荷風のもっとも長続きした友人でもある。冬の日差しは鈍いので、日向とはいえ肌寒い。ただでさえ陰鬱な気分のところに、金のことを考えるのだからやりきれない。さて、どうしたものか。思案の状態を詠んだ句だ。スケールは大違いだが、私も昔、友人と銀座に制作会社を持っていた。だから、作者の気持ちはよくわかるつもりだ。一度でも宛のおぼつかない手形を切ったことのある人には、身につまされる一句だろう。歳末には、金融犯罪が急増する。不謹慎かもしれないが、そこまで追いつめられる人たちの気持ちも、わからないではない。冷たい冬日向のむこうには、冷たい法律が厳然と控えている。 口直し(!?)に、目に鮮やかな句を。「削る度冬日は板に新しや」(香西照雄)。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)


September 0792000

 秋の雲ピント硝子に映りけり

                           籾山庭後

書に「海岸撮影」とある。詠まれたのは、明治末期か、大正初期だ。海岸の写真を撮るべく写真機をセットしたら、ファインダー(ピント硝子)に雲が映った。その雲の形は、既に秋のそれだった。それだけの写生句だが、写真機を通じて秋の雲にはじめて気がついたところに、作者の喜びが表現されている。「映りけり」が、それを伝えている。写真の面白さの第一歩は、このあたりにあるのだろう。人間の目は、あらゆる風景や物などを、いわば勝手に見ているので、見ているはずが気がつかないことも多い。作者の肉眼には海岸の形状だけが見えていて、その上に浮かぶ雲などは、見えてはいても見ていなかったのである。それが写真機の「ピント硝子」を覗いてみると、見えていなかった雲までが形として鮮明に飛び込んできた。写真機の目は風景を切りとり、切り取ったシーンについてはすべてを公平に映し出すから、人間の目とは似て非なる目だ。ましてや、この写真機はピントとフレームを決めたら、フィルムならぬ「乾板(かんぱん)」を差し込んで写すタイプのもの。撮影者が「ピント硝子」を見るためには、黒い布を被らなければならない(昔の学校に来た写真屋さんが、そんな格好で記念写真を撮ってくれましたね)。黒い布で自分の目が現実の外界から遮断されることで、余計に、それまで見えていなかったものが見えてくる理屈となる。「ピント硝子」は、磨りガラス製。海岸風景は、逆さまに映っている。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)


February 2122004

 酒甕に凭りて見送る帰雁かな

                           籾山庭後

語は「帰雁(きがん)・帰る雁」で春。暖かくなって、北の国へと帰りつつある雁のこと。列(棹)をなして、去ってゆく。作者は大きな「酒甕(さかがめ)に」凭(よ)って(もたれて)、はるか上空をゆく彼らを見送っている。時は移ろい、もうこんな季節になったのかという思いが哀感を伴って伝わってくる。もたれている酒甕のなかでは、静かに酒が生長し熟成しつつあるだろう。やがて、ほどよい香気を放つまろやかな味の酒ができあがるのだ。去るものと、とどまって熟するもの。このいずれもが同時に時の経過をあらわしており、動と静の対比を視覚といわば触覚を通じて、一句に収め得たところに妙味が出た。やや大袈裟に言えば、この世の無常観を明晰な構図のなかに定着させることに成功している。いわゆる春愁の感の吐露であるが、誰の春愁にせよ、そのどこかでは必ず無常を感得する心の動きとつながっているのだと思う。先日見に出かけた『ミレーとバルビゾン派』展に、ミレーの「雁」という絵があった。棹をなして渡って行く雁たちを、二人の女性が見上げている構図だ。私などが見ると、掲句と同様な寂寥感を覚えてしまうのだが、描いたミレーはどんな気持ちからだったのだろうか。と、しばし絵の前で考えてしまった。そして、おそらくこの絵には、日本人が感じるような無常観は存在せず、空の雁は渡りの季節をあらわしているだけであり、むしろ主題は女ちの束の間の安息にあるのだろうと、無理矢理に結論づけて絵を離れた。が、西洋の絵に雁が描かれるのは珍しい。ミレーの主題については、もう少し考えてみる必要がありそうだ。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)




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