July 211999
里心あはれうすれて帰省せり
鳥越すみ子
帰省の句には、故郷や実家のありがたさや懐しさを詠んだものが多い。けれども、いつも誰もが帰省が楽しいとは限らない。べつに故郷を石もて追われたわけではないが、句のように、なんとなく「里心」が薄れる時期もある。それを「あはれ」と感じるのは、作者の人柄のよさを示す。特別な理由などは、何もないのだ。本人にもわからないところで、帰心が働かないのである。しかし、待っている親や家族がいると思う心で、結局は帰省することになる。そのうっとうしさと億劫な気持ち。実家を遠く離れて生活したことのある読者には、すぐに合点がいくだろう。田舎の親や家族には申し訳ないが、都会の実生活の場のほうがよほど魅力的だからだ。今の東京に出てきている若い友人に聞くと、二人に一人くらいは帰省したくないようなことを言う。もちろん、格別な理由など無いのだ。そこで私は先輩ぶって「帰ってあげなよ」などと言う。言いながら、この句を思い出したりもする。でも、せっかくの夏休みじゃないか、とにかく帰省してみろよと言いつづける。(清水哲男)
July 201999
暑中休暇の雀来てをり朝の庭
清水基吉
子供であれ大人であれ、夏休みの朝は格別な気分になる。とくに休暇がはじまった朝は、いつまで寝ていてもよいようなものだが、かえって早起きをしたりする。日常とは異なる生活時間の流れを意識して、軽い興奮状態になるからだろう。静かで、なんでもないように写る句であるが、そこらあたりの気分をよくとらえている。休暇であろうとなかろうと、毎朝庭に雀は来ているわけで、しかし日頃は気にもとめない存在でしかない。あわただしい朝の時間に追われて、来ていることすら意識しない場合のほうが多いだろう。それを今朝ははっきりと意識して、しばらく眺め入っているという句境。私がサラリーマンだった頃は、こういうときに何故か心の内で「ざまあ見ろ」などとつぶやいていたのは、品性下劣のなせるところか。しかし、休暇も三日目くらいになると無性に人恋しくなってきて、「ざまあ見ろ」の旗はさっさと下ろし、同僚がいそうな新宿の酒場に向かったのだから「ざま」は無かった。格好よくなかった。(清水哲男)
July 191999
なすことも派手羅の柄も派手
杉原竹女
まずは「羅(うすもの)」の定義。私の所有する辞書や歳時記のなかでは、新潮文庫版『俳諧歳時記』(絶版)の解説がいちばん色っぽい。「薄織の絹布の着物で、見た目に涼しく、二の腕のあたりが透けているのは心持よく、特に婦人がすらりと着こなして、薄い夏帯を締めた姿には艶(えん)な趣がある」。要するに、シースルーの着物だ。というわけだから、女の敵は女といわれるくらいで、同性の羅姿には必然的に厳しくなるらしい。とりあえず、キッとなるようだ。派手な柄を着ているだけで、句のように人格まで否定されてしまったりする。コワいなあ。と同時に、一方では俳句でも悪口を書けることに感心してしまう。鈴木真砂女に「羅や鍋釜洗ふこと知らず」があるが、みずからの娘時代の回想としても、お洒落女に点数が辛いことにはかわりあるまい。反対に、男は鍋釜とは無縁の派手女に大いに甘い。「目の保養になる」という、誰が発明したのか名文句があって、私ももちろん女の羅を批判的にとらえたことなど一度もない。新潮文庫の解説者も、同様だろう。それにしても、羅姿もとんと見かけなくなり、かつ色っぽい女も少なくなってきた。昔はよかったな。(清水哲男)
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