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1999N731句(前日までの二句を含む)

July 3171999

 坂の上日傘沈んでゆきにけり

                           大串 章

暑の坂道。はるかに前を行く女性の日傘が、坂を登りきったところから、だんだん沈んでいくように見えはじめた。ただそれだけのことながら、真夏の白っぽい光景のなかの日傘は鮮やかである。光景の見事な抽象化だ。ところで、ここ数年の大串章の句には、切れ字の「けり」の多用が目立つ。長年の読者兼友人としては、かなり気になる。「けり」は、決着だ。巷間に「けり」をつけるという文句があるくらいで、「けり」はその場をみずからの意志によって、とにもかくにも閉じてしまうことにつながる。閉じるとは内向することであり、読者にはうかがい知れぬところに、作者ひとりが沈んでいくことだ。もとより「けり」には、連句の一句目(発句)を独立させるのに有効な武器として働いてきた歴史的な経緯があり、その意味で大串俳句はきわめてオーソドックスに俳句的な骨組みに従っているとは言える。が、社会的に連句の意識が希薄ないま、なぜ「けり」の頻発なのだろうか。句の日傘を私は女性用と読んだけれど、そんなことを詮索する必要などないと、この「けり」が告げているような気もする。坂の上で日傘が沈んだ……。それで、いいではないか、と。この光景の抽象化は、この「けり」のつけ方は、作者の人知れぬ孤独の闇を暗示しているようで、正直に言うと、私にはちょっと怖いなと思っている。新句集『天風』(1999)所収。(清水哲男)


July 3071999

 暑気中りどこかに電気鉋鳴り

                           百合山羽公

烈な暑さが身体に命中してしまった。いわゆる「暑さ負け」(これも季語)の状態が「暑気中り(しょきあたり)」だ。夏バテよりも、もう少し病気に近いか。夏には元気はつらつとした句が多い反面、とても情けない句も結構たくさんある。「暑気中り」をはじめ、「寝冷え」「夏の風邪」「水中り」「夏痩」「日射病」「霍乱(かくらん)」「汗疹(あせも)」など、身体的不調を表現する季語も目白押しだ。不調に落ち込んだ当人は不快に決まっているが、傍目からはさして深刻に見えないのは、やはり夏という季節の故だろう。掲句もその意味で、作者にとってはたまったものではない状態だが、元気な人にはどこかユーモラスな味すら感じられるだろう。そうでなくともぐったりとしている身に揉み込むように、どこからか電気鉋(かんな)のジーッシュルシュルというひそやかな音が、一定のリズムのもとに聞こえてくる。辛抱たまらん、助けてくれーっ、だ。皆吉爽雨には「うつぶして二つのあうら暑気中り」があって、こちらの人は完璧にノビている。こんな句ばかりを読んでいると、当方が「句中り」になりそうである。(清水哲男)


July 2971999

 少女と駈く一丁ほどの夕立かな

                           岸田稚魚

の大気は不安定だ。晴れていたのが、一天にわかにかきくもり、ザーッと降ってくる。そんなに家が遠くないときには、作者のように、とにかく駆け出す。気がつくと、見知らぬ女の子も同じ方向にいっしょに並んで駆けている。こんなときには、お互い連帯感がわくもので、ちらりと目で合図を送るようにしながら、走っていく。このとき、作者は六十代。息も切れようというものだが、元気な女の子に引っ張られるようにして走っている自分が楽しくなっている。そんな気分が、よく出ている。数字にうるさい読者にお伝えしておけば、一丁(町とも)は六十間、一間をメートルに換算すると1.81818メートル。ということは、二人が走っているのは、およそ百メートルほどの近距離という計算だ。だが、もともとこの丁(町)という数助詞は、昔の町から隣町への距離を単位としたアバウトな数字である。したがって、一丁の意味は、ちょっとそこまでといった感覚のなかにあるものだった。句でも、同様だ。翌日からは、この二人が顔を合わせると、思わずもにっこりということになっただろう。夕立フレンドである。『萩供養』(1982)所収。(清水哲男)




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