ノ子句

September 0791999

 れもん滴り夜に触れし香を昇らしむ

                           櫛原希伊子

もん(檸檬)の故郷はインド。ただし、日本が輸入しているのは、多くアメリカ西海岸からだ。一年中出回っているので季節感に乏しい果実だが、秋に実るので秋の季語とされてきた。句意は明瞭だ。ただし「れもん(を)絞り」ではなく「滴り」と詠んだところが、句品を高める技巧の妙と言うべきか。「絞り」と書けば主語は作者になるけれど、「滴り」の主語は「れもん」それ自体である。誰が絞って滴らせたわけでもない。すなわち、ここでの「れもん」は、あたかも神の御手が絞り給うたかのようにとらえられており、そのことを受けて作者は香を天に「昇らし」めている。夕食後の紅茶のひとときでもあろうか。「れもん」が貴重だったころの檸檬賛歌として、極めて上質な抒情句と言えよう。こんなふうに檸檬の香を大切にして楽しんだ時代が、懐しい。それに引き換え、何にでもレモンを添えてくる昨今の食べ物屋の無粋は、なんとかならないものか。最も腹が立つのは、コーラにまでくっつけてくる店だ。イヤだねえ、田舎者は。同じ田舎者として、恥ずかしくて顔が赤くなる。(清水哲男)


July 0272000

 山百合の天に近きを折り呉るる

                           櫛原希伊子

誌「百鳥」が届くと、待ちかねて同人欄で最初に読むのが、櫛原希伊子の句だ。この人の句は、なによりも思い切りがよい。「天に近きを」と言ったのは、事実描写であると同時に、山百合のこの上ない美しさに「天」を感じたからだ。野生の山百合には、他の百合には及ばない気高さがある。この気高さは、たしかに「天」を思わせる。小学校の通学路(山道)に、山百合の乱れ咲く小高い山があった。たまに道草をして、山百合や小笹の群生する丘を分けのぼり、寝転がって空を眺めるのが好きだった。空からは、長閑な閑古鳥の声が聞こえ、細目で真下から見上げる花の美しさは、子供心にも強く訴えてくるものがあった。後に「山のあなたの空遠く、さいわい住むと人の言う」ではじまるカール・ブッセ(だったかしらん)の詩を習ったが、私にはとうてい外国人の詩とは思えなかった。なんだか、その頃の自分の気持ちを代弁してくれているように感じたからである。詩に山百合は出てこないが、私にははっきりと見えるような気がした。いまでも、この詩を思い出すと、まっさきに山百合の姿が浮かんでくる。山百合の句で人口に膾炙しているのは、富安風生の「山百合を捧げて泳ぎ来る子あり」だろう。風生の句もまた、事実描写であるとともに、その気品のある美しさへの思いを「捧げて」に込めている。やはり、「天」に通じているのだ。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


August 3082000

 青瓢ふらり散歩に出でしまま

                           櫛原希伊子

(ふくべ)は瓢箪(ひょうたん)の実。まだ青い瓢が、ふらりと下がっている。この様子を「散歩」の「ふらり」にかけた句。ちょっとそこまでと出かけて、なかなか戻ってこない人。悪友に出くわして赤提灯にでもしけこんだか、麻雀屋でジャラジャラはじめてしまったか。待つ身としては腹立たしくもあり、その毎度の暢気さが可笑しくもあり……。最初に、私はこう読んだ。しかし、作者の自註によると、そんな暢気な話ではなかった。「散歩に行ってくるよと、そのまま帰らぬ人となった友がいる。この次、何が起るか知れぬ不安」を詠んだ句だった。もちろん、句だけからここまで読み取ることはできないだろう。だが、注意深く読むと、なるほど単に暢気な人の様子を詠んでいるのではないことはうかがえる。キーは「青瓢」の「青」にある。この「青」は、上五に「瓢」を安定させるための修辞的な付けたしではない。「青」に若い生命を象徴させて、句全体にかぶせられていたのだった。暢気を詠むのであれば、たとえば「瓢箪や」くらいのほうが効果的だろう。「青瓢ね、ああ、瓢箪だからふらりだね」と読んでしまった私が軽率だった。暢気だった。十七音、おそるべし。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


September 2392000

 秋涼し蹠に感ず水の張り

                           櫛原希伊子

註に、水元公園にてとある。「蹠(あうら)」は足の裏。作者は、池の畔に立っている。天気晴朗なり。ようやく新涼(「秋涼し」は「新涼」のパラフレーズ)の気が四方に充ち、心身ともに快適だ。「水の表面張力が蹠を押しているような気がした。水の中の杭と水辺の私とは涼しさで繋がれる」(自註)。眼目は「感ず」だろう。このような生まな言葉は、ふつうは俳句の外に置いておく。いちいち「感ず」では、小学生の作文じゃあるまいし、うるさくてかなわない。しかし、そんなことは百も承知で、あえて「感ず」を持ち込んだところで、句に力と幅が出た。危険な戦法だが、これで句が強く生きることになった。なぜ、この戦法がとられたのか。試みに「感ず」ではなく「蹠を押して」とでも言い換えてみると、理由がはっきりする。読者の目は「押して」に集中し、それはそれで悪くはないが、句がひどく小さくなってしまう。せっかく作者が「秋涼し」と大きく晴朗に張った構図が、どこかに行ってしまうのだ。だから「感ず」と(「感じただけ」と)、故意に「水の表面張力が蹠を押しているような気」を強調しなかった。隠し味にとどめた。「水の表面張力が蹠を押しているような気」は、作者独自の感覚だ。「なるほどね」と、読者を唸らせる発見であり手柄である。この発見と手柄にすがりつかないことで、作者は「秋涼し」を大きく歌えた。私だと、多分こうはいかない。山っ気を出して、手柄にすがりついてしまう。必然的に、句は小さくなる。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


October 05102000

 ねむたしや霧が持ち去る髪の艶

                           櫛原希伊子

しかに、霧は「ねむた」くなる。山の子だったから、この季節には薄い霧にまかれて登校した。うっすらと酔ったような感じになり、それがかすかな眠気を誘い出すようである。「夢うつつ」とまではいかないが、景色のかすむ山道は、夢の淵につながっているようにも思えた。その霧が、風に吹かれてさーっと晴れていく。夢の淵も、たちまちにして現実に戻る。しかし、まだ「ねむたし」の気分はそのままなので、消えた霧といっしょに「ふと大事なものを失ったような気がする」(自註)。その大事なものが「髪の艶(つや)」であるところに、女性ならではの発想が感じられ、作者のデリカシーを味わうことができた。男だと、どう詠むだろうか。自問してみたが、具体的には思い浮かばない。強いて言うならば身体的な何かではなく、精神的な何かだろうか。でも、それではおそらく「髪の艶」の具体には適うまい。説得力に欠けるだろう。具体を言いながら抽象を言う。俳句様式の玄妙は、そういうところにもある。櫛原希伊子の魅力は、一瞬危うくも具体を手放すように見えて、ついに手放さないところにあるようだ。常に、現場を離れない。冬季になるが、もう一句。「枯れ切つて白き芦なり捨て身なり」。季語は「枯芦」。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


January 1312001

 戸口より日暮が見えて雪の国

                           櫛原希伊子

の演出もないから、外連味(けれんみ)もない。こういう句もいい。雪国というほどではなかったが、ときに休校になるほどは降った故郷を思い出す。何も考えずに、戸口からぼおっと暮れてゆく雪景色を見ていた。土間の冷えは厳しいが、それよりも周辺が暗くなりはじめ、やがて風景が真っ白な幻想の世界一色へと変わっていく様子に魅かれていた。奥の囲炉裏で盛んにぱちぱちと火のはねている音も、懐かしい。だいたいが「夕暮れ」好きで、春も「あけぼの」ではなくて「夕暮れ」だ。性格がたそがれているのかもしれないけれど、たぶん「夕暮れ」からは、義務としての何かをしなくてもよい時間になるからなのだろう。とくに子供の頃は、夜になると、何もすることがなかった。テレビもラジオも、ついでに宿題もなかったので、ご飯がすんだら寝るだけだった。ランプ生活ゆえ、本も読めない。布団にもぐり込んでから、いろんなことを空想しているうちに、眠りに落ちてしまった。考えてみれば、「夕暮れ」以降の私は、鳥や獣とほとんど同じ生活をしていたわけだ。そうした無為の時間を引き寄せる合図が、長い間、私の「夕暮れ」だったので、いつしか身体に染みついたようである。大人になったいまも、夜に抗して何かをする気にはならないままだ。原稿も、夜には書かない。だから「夕暮れ」になると、一日はおしまいだ。大げさに言えば、その時間で社会とは切れてしまう。そんな気になる。ずっと以前に、その名も「夕暮れ族」なる売春組織が摘発されたことがある。新聞で読んで、ネーミングだけは悪くないなと思った。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


March 1132001

 森霞む日付けの赤き日曜日

                           櫛原希伊子

あ、絵になっている。読んだ途端に、実景というよりも、絵を感じた。それも、コンピュータ・グラフィックスで描いたような絵。カレンダーの日曜日の赤い「日付け」が前面にあり、それを通して遠くの森が霞んで見えている。下手くそながら、私はコンピュータの「お絵書きソフト」が好きなので、ついそう思ってしまったのだが、もとより作者にその意識はないはずだ。が、コンピュータを外しても、「日付けの赤き日曜日」というフィルターを通して森を霞ませたところには、モダンなデザイン感覚を感じる。自註で作者が書いているように、日曜日を「赤」としたのは誰なのだろうか。なぜ「赤」なのか。いつごろから行われてきたのだろうか。床屋さんでくるくる廻っている標識の「赤」は動脈、「青」は静脈を意味するそうだが、やはり人体に関連した比喩としての色彩なのだろうか。そう言えば、祝日も「赤」であり、最近のカレンダーでは土曜日も「赤」にしているものも見かけるが、これらは単に日曜日が「休み」という意味からの流用であって、本義の「赤」とは関係はないだろう。でたらめな本義の推測をしておけば、キリストが復活した安息日の日曜日にちなんでの「赤」なのかもしれない。すなわち、十字架で流された血の色だ。ユダヤ教での安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までだから、このあたり、ユダヤ教でのカレンダーでは何色なのだろう。たまたま手元にある中国のカレンダーでも、日曜日は「赤」で表示されている。となれば、宗教とは関係がないのかな。ともあれ、今日は「日付けの赤き日曜日」です。よい一日でありますように。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


April 1642001

 逸る眼をもて風待ちの武者絵凧

                           櫛原希伊子

潟は「見附の凧合戦」と、自注にある。私は、残念なことに凧合戦を見たことがない。いつだったか、五月に行われる浜松の凧揚げの話を現地で聞いたことがあり、一度その勇壮な模様を見たいと思っていたので、掲句に目がとまった。凧には風が必要だから、よい風が吹いてくるのを待っている。風待ちの状態で、実際に血気に「逸(はや)る眼」をしているのは揚げ手の男たちだが、観衆には大凧に描かれた「武者」の眼に、彼らの切迫した気持ちが乗りうつっているように見えるのだ。つまり、ここで凧の「武者」は単なる絵ではなく、いざ出陣の生きた武士なのである。観衆にも、だんだん緊張感が高まってくる。自注にはまた「振舞酒が出た」と記されていて、適度の酒は雑念を払い集中力をうながすから、いやが上にも気分は昂揚せざるを得ない。そんな会場全体の時空間の雰囲気を、ばさりと大きく一枚の「武者絵」の「眼」で押さえたところが、作者の腕の冴え、技術の確かさを示しているだろう。それにしても「逸」という言葉には含蓄がある。原義は「弓なりに曲がる」という意味だそうだが、となれば「逸る」とは常に目的からはずれて「逸(そ)れる」危険性をはらんだ精神状況だ。「逸する」などとも言い、とかく「逸」にはマイナス・イメージの印象があるが、そうではない。何事かをなさんとする時の緊張状態を指している。だから、弓なりになりながら「一か八か」と短絡してしまうと、緊張感が「逸れて」勝負事にはたいてい負ける。蛇足ながら、ハワイのテレビはよく日本の時代劇映画を放映しているが、「一か八か」を翻訳してテロップで「ONE OR EIGHT」とやったことがある。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


July 0872001

 線香花火果てし意中の火玉かな

                           櫛原希伊子

の命は「意中の火玉」にある。真っ赤な火玉が徐々にふくらんでいきパッパッと火花を散らすわけだが、あまり大きくなりすぎるとぽたりと落ちてしまうし、小さいままだと火花もか細く終わってしまう。そのふくらんでいく様子を見ているうちに、なるほど火玉は「意中」としか言いようのない状態に入ってくる。このスリルも、「線香花火」の魅力の一つだろう。句の「火玉」は、大きく熟れたところで惜しくも「果て」てしまった(自註)。ところで、花火師だった父に言わせると、大きな打ち上げ花火よりも「線香花火」のほうが面白いのだそうだ。参考までに、父が某百科事典に書いた解説の引用を。「黒色火薬系の薬剤は燃えてもガスが少なく、薬の6ないし7割が燃えかすとして残る。これには多量の硫化カリウムが含まれていて、丸く縮んで火球をつくり、その表面が空気中の酸素と反応して緩やかに燃える性質がある。木炭の性質は線香花火の原料として重要である。燃えやすい炭(松炭、桐(きり)炭など)に少量の燃えにくい炭(油煙や松煙など)を混合して用いられる。前者は薬剤の初期の燃焼に必要であり、後者は火球の中に残って、爆発的に火球の表面から松葉火花を発生する」〈清水武夫〉。父が面白いと言ったのは、前者と後者の配合が手作業ではなかなか巧くできないところにもありそうだ。つまり、結局は火をつけてみないと効果はわからない……。だから、あらゆる「意中」のものと同様に、この玩具花火も「意中」から大きく外れることが多いということ。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


July 0372002

 羅に透けるおもひを怖れをり

                           櫛原希伊子

語は「羅(うすもの)」で夏。絽(ろ)、紗(しゃ)など、絹の細い繊維で織られた単衣のこと。薄く、軽やか。女性ものが多い。作者自註、「たいした秘密でないにしても、知られたくないこともあるもの。透けるとしたら絽よりも紗の方があやうい気がする」。肌や身体の線が透けることにより、心の中までもが透けて見えてしまいそうだというこの感覚は、まず、男にはないものだろう。俳句を読んでいると、ときおりこうしたさりげない表現から、女性を強く感じさせられることがある。作者は別に自分が女であることを強調したつもりはないと思うが、男の読者は「はっ」とさせられてしまうのだ。逆に意識した例としては、たとえば「うすものといふをはがねの如く着て」(清水衣子)があげられる。薄いけれども「はがねの如く」鋭利なのだよと言うのだが、むしろこの句のほうに、作者の心の内がよく見て取れる面白さ。いずれにしても、女性でなければ発想できない世界だ。前述したように、本来「羅」は和装衣を指したが、最近では夏着一般に拡大して使うようになってきた。小沢信男に「うすものの下もうすもの六本木」がある。この女性たちに、掲句の味わいというよりも、発想そのものがわかるだろうか。私としては、問うを「怖れ」る。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


August 0182002

 若竹の冷え伝ふなり真昼の手

                           櫛原希伊子

語は「若竹」で夏、「今年竹」とも。皮を脱いで生長した今年の竹は幹の緑が若々しく、加えて節の下に蝋質の白い粉を吹いているので、すぐにわかる。竹林は、昼なお薄暗く、そして涼しい。作者は、若々しいその竹に、そっと手を触れてみた。思わずも、吸い寄せられるように、であろう。ひんやりとした感触……。しかしその「冷え」は、脈々と息づいている生命の確かさにつながっていることがわかる。冷たい健やかさというものもあるのだ。この発見に、私は作者とともに感動する。「若竹の肌は、私の手を伝わって何を言いたかったのか。私はどう感じとればよかったのか」(自註)。自然との触れ合いのなかでは、必ず言葉に尽くせない思いが残る。そういうことも、この句は見事に告げている。同じ作者による「今年竹」の句も引用しておく。こちらは、実に爽快だ。「男ゐて雲ひとつなし今年竹」。真っ青な空に向かってすっくと伸びた若い竹が「男」の姿とダブル・イメージとなっており、しかもそれぞれの輪郭がはっきりとしている気持ちの良さがある。「こうあって欲しいと思う男のイメージ」を詠んだのだと、これも自註より。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


September 2292002

 空に柚子照りて子と待つ日曜日

                           櫛原希伊子

語は「柚子(ゆず)」で秋。快晴。抜けるような青空に、柚子の実が照り映えている。「日曜日になったらね」と、作者は子供と出かける約束をしている。遊園地だろうか。約束の日曜日も、こんなに見事な上天気でありますように……。庭で洗濯物を干しながら、学校に行っている子供のことをふっと思いやっている。たとえば、そんな情景だ。大人にとっては、ことさらに特別な約束というのではないけれど、子供にしてみれば、大きな約束である。学校にいても、ときどき思い出しては胸がふくらむ。「はやく、日曜日にならないかなあ」。作者は、というより人の子の親ならば誰でも、そうした子供の期待感の大きさをよく知っているから、「子が待つ」ではなくて「子と待つ」の心境となる。さて、その待望の日曜日がやってきた。母子は約束どおりに、上天気のもと、機嫌よく出かけられたのだろうか。私などは、何度も仕事とのひっかかりで出かけられないことがあったので、気にかかる。作者も自註に、約束が果たせないこともあって、「また今度ね」と言ったと書いている。がっかりして涙ぐんだ子供の顔が、目に浮かぶ。よく晴れていれば、がっかりの度合いも一入だろう。掲句は言外に、何かの都合で約束が反古になるかもしれぬ、いくばくかの不安を含んでいるのではあるまいか。そう読むと、ますます空に照る柚子の輝きが目に沁みてくる。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会)所収。(清水哲男)


November 12112002

 冬蝶の日向セルロイドの匂ひ

                           櫛原希伊子

春日和の庭に、どこからともなく蝶が飛んできた。成虫のまま越年する蜆蝶などもいるから不思議ではないけれど、さすがに飛び方は弱々しい。蝶もはかなげなら、蝶を招いた「日向」もはかなげである。見ているうちに、ふっと作者は「セルロイドの匂ひ」を感じたと言うのである。セルロイドはその昔、玩具の人形などによく使われたから、とくに女の子にとっては匂いも忘れられないだろう。青い目の人形は「アメリカ生まれのセルロイド」という歌もあった。余談ながら、男の子の玩具にはブリキ製が多かったので、匂いではなくて触感として残っている。でも、男の子にもセルロイドの匂いがわかっているのは、下敷きなどの文房具に使用されていたためだ。さて、掲句のユニークなところは、冬蝶のいる日向全体の雰囲気をよく伝えるために、視覚ではなく嗅覚をもって押さえたところだと思う。それも実際の場所には存在しない記憶の中の匂いだから、こちらも冬蝶のいる日向のようにはかなげである。はかなげではあるが、しかし、多くの人が懐しくよみがえらすことのできる匂いという意味では、強い説得力を持つ。すなわち、人には臭覚を通じたほうが、情景がよりよく見えてくるということも起きるということ。五官の区別は便宜的なものであって、私たちは目だけで物をみたり、鼻だけで匂いをかいだりしているのではないということですね。『きつねのかみそり』(2002)所収。(清水哲男)


April 0842003

 山ざくら曾て男は火の瞳持ち

                           櫛原希伊子

のはしくれとしては、面目まるつぶれと頭を垂れるしかない句だ。前書に「『山行かば草生す屍』の歌ありて」とあるから、「曾て(かつて)」とは、大伴家持が「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大皇の辺にこそ死なめ顧みはせじ」と詠んだ万葉の時代だ。微妙な言い方になるが、そのことの中身の現代的な解釈はともかくとして、「男とはかくあるべし」と多くの男も女もが思い信じていた時代があった。「山ざくら」との取り合わせの必然性は、本居宣長の「しきしまの大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」にある。まことに清冽な気概を持った男たちの瞳(め)は、一朝事あらば、たしかに火と燃えたであろう。その炎の色は、花ではなくて葉のそれである。深読みしておけば、山桜の花は女で葉が男だ。だから、女の介入する余地のない武士道にはソメイヨシノが適い、男の道には女とともにあるヤマザクラが似付かわしいと言うべきか。さて、それに引き換えいまどきの男どもときたら……などと、これ以上言うのはヤボである。大伴家持の歌は、第二次世界大戦の際に、戦死者を悼み顕彰する歌として大いに喧伝された。軍国主義者には、格別「大皇の辺にこそ死なめ」のフレーズが気に入ったからだろう。しかし、その気に入り方は歌の本意からは、はるかに遠いものだった。というのも「曾て」の「大皇(おおきみ)」は、いつも戦いの最前線にいたのだからだ。後方の安全地帯で指揮を取るなんてことは、やらなかった。大皇が実際に身近にいて、ともに戦ったからこその「辺にこそ死なめ」であったことを、軍国主義者は都合よく精神的な意味に曲解歪曲したのである。あるいは単に、読解力が不足していたのかもしれないけれど。『きつねのかみそり』(2002)所収。(清水哲男)


June 2262003

 姥捨の梅雨の奥なる歯朶浄土

                           櫛原希伊子

捨(うばすて)伝説にもいくつかあるが、掲句の背景にある話は『大和物語』のそれだろう。この話が、なかでいちばん切なくも人間的だ。「信濃の国に更級といふところに、男住けり。若き時に親死にければ、をばなむ親の如くに、若くよりあひ添ひてあるに、この妻(め)の心いと心憂きこと多くて、この姑(しうとめ)の老いかがまりてゐたるをつねに憎みつつ、男にもこのをばの御心(みこころ)さがなく悪しきことを言ひ聞かせければ、昔のごとくにもあらず、疎(おろ)かなること多くこのをばのためになりゆきけり」。かくして妻の圧力に抗しきれなくなった男は、ある月夜の晩に養母を騙して山に置き去りにしてしまう。が、一夜悶々として良心の呵責に耐えきれず、明くる日に迎えに行ったという話だ。当然といえば当然だけれど、この話を、男は捨てた「男」に感情移入して受け取り、女は捨てられた「女」の身になって受け取る。子供でも、そうだ。掲句でもそのように受け止められていて、どんなところかと訪ねていった捨てられた場所の近辺を、さながら「浄土」のようだと素直に感じて、ある意味では安堵すらしている。それも、いちめん「歯朶(しだ)」の美しい緑に覆われたところだ。「梅雨の奥」のあたりには神秘的な山の霊気が満ちていて、とても人間界とは思えない。「捨てられるならここでもいいか、とふと思う」と自註にあった。『櫛原希伊子集』(2000)所収(清水哲男)


October 07102003

 針千本飲ます算段赤のまま

                           櫛原希伊子

語は「赤のまま(赤のまんま)」で秋。蓼(たで)の花。粒状の赤い花が祝い事に出される赤飯に似ているので、この名がついたという。女の子のままごと遊びでも、赤飯に見立てられる。揚句は、そんなままごと時代の思い出だろう。「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ますっ、指切った」と、あれほど固い約束をしたのに、友だちが約束を破った。よし、どうしてこらしめてやろうかと「算段」しながら、友だちを待ち伏せている。明るい秋の日差しのなかで、赤のままが揺れている。あのときは本当に怒っていたのだけれど、今となっては懐かしい思い出だ。何を約束し、どんなふうに仕返しをしたのかも忘れてしまった。久しく音信も途絶えているが、彼女、元気にしてるかなア。子供のときによく遊んだ友だちのことは、喧嘩したことも含めて懐かしい。もう二度と、あの頃には戻れない。ところで、この「針千本」の針のことを、私はずっと縫い針のようなものかと思ってきた。が、念のためにと調べてみたら、どうやら間違いのようである。といって、定説はない。が、縫い針ではなくて、魚のフグの一種とする説が有力だ。その名のとおり、体表にウロコが変化した強くて長い針を持っている。実際には、針は350〜400本程度。普段、針は後ろ向きに寝かせているが、危険が迫ると体をふくらませて針を立たせる。こうなると、ウニやクリのイガのようになってしまい、何者もよせつけない。こんなものを飲まされて、腹の中でふくらまれてはたまらないな。縫い針にせよフグにせよ、現実的には飲めるわけもないが、比喩としては、一度に飲ますことのできそうなフグのほうがより現実的だと言うべきか。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


February 2322004

 寿限無寿限無子の名貰ひに日永寺

                           櫛原希伊子

際に「日永寺」という名の寺は千葉県にあるけれど、ここでは春の季語「日永」で切って読み、春の寺のおだやかなたたずまいを想起すべきだろう。「寿限無」はむろん、落語でお馴染みの長い名前だ。はじめて男の子を授かった長屋の八五郎が、何かめでたい名前をつけてほしいと坊さんに相談したところ、出てきた名前がこれだった。「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれず かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところに すむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんの ぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーの ぽんぽこなの ちょうきゅうめいのちょうすけ」。最初の「じゅげむ(寿限無)」からして、寿(よわい)限り無しと、すこぶるめでたい。落語の登場人物だからまったくのフィクションかと思っていたら、実在の人物と聞いて驚いた。それが証拠に、戦中まで東京四谷の法眼寺に彼の墓があったそうだ。なにしろ馬鹿長い名前なので、高さは33メートルもあり、天気が良ければ上野あたりからでも見えたという。惜しいことには空襲で真ん中あたりが破損し、折れたら危険だというので撤去されてしまった。姓は鈴木で神田の生まれ、長じて大工職、1897年(明治30年)に98歳で亡くなっている。寿限無とまではいかなかったが、昔にすればかなりの長寿だ。こんな墓を建てたほうも建てたほうだとも思うが、まるでそれこそ落語みたいな呑気さを地でいったところに心がなごむ。こんな話を思い合わせて掲句に帰ると、春風駘蕩、ギスギスした世の中をしばし忘れさせてくれるのである。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


January 0112005

 初茜鶏鳴松をのぼりけり

                           櫛原希伊子

けまして、おめでとうございます。この清冽な抒情句をもって、2005年のスタートとします。季語は「初茜(はつあかね)」で新年。初日の出る直前の東の空はほのぼのと明るくなり、やがて静かに茜色がさしてくる。身も心も洗われるように清々しくも、しかし束の間のひとときだ。とりわけて、電灯の無かった時代の人々には、待ちかねた新年の光に心の震える思いがあっただろう。その昔から現代にいたるまで、いまの都会では無理だとしても、この時間になるといちばんに雄鶏が「咽喉(のんど)の笛を吹き鳴らし」(島崎藤村「朝」)てきた。その雄叫びにも似た「鶏鳴(けいめい)」は、句の作者も自注で記しているように、赤のイメージだ。その赤き声が、茜空をバックに黒々と大地に根を生やした「松」の大木にのぼってゆく……。まさに、自然が巧まずして描き上げた一幅の画のようではないか。いや、句の作者その人が巧まずして描いたからこそ、そのように受け取れるのだ。このような句に出会うとき、俳句という文芸を知っていて良かったと、しみじみと思う。この毅然とした鶏鳴が、なにとぞ本年の世界中の人々の幸せにつながりますように。祈りながら、今年も当サイトを増殖させてゆく所存です。よろしく、おつきあいくださいますように。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


June 0462006

 鍵穴殖え六月の都市きらきらす

                           櫛原希伊子

語は「六月」。作者自注に「このころ、マンションというものがあちらこちらにできはじめ高速道路が走り、都市が拡張していった」とある。「このころ」とは、1965年(昭和四十年)である。東京五輪開催の翌年だ。普通の感覚からすれば、「六月」は雨の季節だから、「きらきら」しているはずはない。しかし当時の都市は、たしかに掲句の言うように、たとえ低い雲がたれ込めていようとも、発展していく活力が勝っていたので「きらきら」と輝いて見えたのだった。都市の膨張ぶりを、ビルの林立などと言わずに、「鍵穴殖(ふ)え」としたところも面白い。「このころ」の世相を思い出すために、当時流行した歌にどんなものがあったかを調べてみた。洋楽では何と言ってもビートルズだったが、日本の歌でヒットしたのは次のような曲だった。「女心の唄」(バーブ佐竹・♪ あなただけはと信じつつ 恋におぼれてしまったの)、「まつの木小唄」(二宮ゆき子・♪ 松の木ばかりが まつじゃない 時計をみながら ただひとり)、「兄弟仁義」(北島三郎・♪ 親の血をひく 兄弟よりも かたいちぎりの 義兄弟)、「二人の世界」(石原裕次郎・♪ 君の横顔 素敵だぜ すねたその瞳(め)が 好きなのさ)、「愛して愛して愛しちゃったのよ」(田代美代子・♪ 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ あなただけを 死ぬ程に)、「女ひとり」(デューク・エイセス・♪ 京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり)、「涙の連絡船」(都はるみ・♪ いつも群れ飛ぶ かもめさえ とうに忘れた 恋なのに 今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が 独りぼっちで 泣いている)、「君といつまでも」(加山雄三・♪ ふたりを 夕やみが つつむ この窓辺に あしたも すばらしい しあわせが くるだろう 君の ひとみは 星と かがやき(略) しあわせだなあ 僕は君といるときが一番しあわせなんだ 僕は死ぬまで君をはなさないぞ いいだろう)、「知りたくないの」(菅原洋一・♪ あなたの過去など 知りたくないの)。とまあ、こんな具合で、歌もまた「きらきら」しており、まことに歌は世につれの感が深い。一方で、この年の暗い出来事としては、アメリカによるベトナム戦争への介入があった。だが、多くの人々に、この戦争の泥沼化への予感はまだなかったと思う。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


July 2972016

 飛ぶ鳥の腋平らなり朝曇

                           櫛原希伊子

日様の窓を開けると鳥が飛んでいる。翼をいっぱいに広げて飛んでいるので腋がぴんと平らに張られている。折しもの朝曇り、さして眩しくも無い空の色がしっくりと目に馴染む。来し方も平凡、行く末もそうありたいなどとふと思う。ワタシも随分遠くまで飛んできたものだが、思い残す事もさしてないなあ。などと清々しい気分で空を眺めている。今日も斯く安らかな命の一時を得て、お茶がことさら美味しい。他に<目にふれるものことごとく旱石><宇や宙や土用入りなる作法あり><のどぶえの湿りほどほど天の川>など。俳誌「百鳥」(2014年10月号)所載。(藤嶋 務)




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