Uq句

September 2691999

 鵯と暮らし鵯の言葉も少しずつ

                           阪口涯子

の名前を表わす漢字にも読みを忘れてしまうものが多いが、鳥の名前のそれも同様だ。卑しい鳥と書いて、「ひよどり」と読む。句では多くの地方の通称である「ひよ」と読ませている。なぜ、鵯は卑しい鳥なのだろう。推測だが、秋になると山から食料を求めて里に出現するという「食い意地」故の命名だったのではないか。おまけに、ピーヨ、ピーヨ、ピルルッなどと鳴き声がうるさい。それが、ますます卑しい感じを助長したのであろう。作者は、そんな鵯にも、ちゃんと言葉があるのだという。ただ騒々しいだけの鳥ではないのだという。もちろん、その通りだろう。言葉というのか、鳥の鳴き声にも種々ニュアンスの差がある。でも、作者がここで言いたいのは、つまり、そんなニュアンスが聞き分けられるようになったほどに、ようやく今の地に馴染んできたということだ。鵯を表に出して、実は自分の生活の履歴を語っているわけである。俳句ならではの技法。ただ、混ぜ返すようだけれど、最近の東京あたりの鵯は、ほとんど一年中「里」に定着している。私なども、鵯と「暮らし」ているようなものである。いずれ、この鳥は秋の季語から抹殺されてしまうかもしれない。(清水哲男)

[読者から寄せられた資料] 「ホホキドリ」のように、鳥の鳴き声をうつす写生語に、「トリ」ということばを付けて、鳥名にすることは、そんなに珍しいことではない。たとえば、「ヒヨドリ」。都会に多い鳥なので、あなたも毎日ヒヨドリの声を耳にしているにに違いない。「ピーヨ」とか「ヒーヨ」と鳴いていないか。あの鳴き声を「ヒヨ」とうつし、それに「トリ」をつけて誕生した名前だ(山口仲美『ちんちん千鳥のなく声は』P29)。


October 23102002

 草原に人獣すなおに爆撃され

                           阪口涯子

季句。かつての大戦中の作品で、往時の作者は中国の大連にいた。作句年度は古いけれど、この世に戦争があるかぎり、掲句は古びることはないだろう。戦争は「人」のみを殺すのではない。「獣」もまた、殺されていく。殺されるという意味では、人も獣も同じ位置にある生き物なのであって、ひとくくりに「人獣」でしかない。果てしなく広がる草原の上空に、突如爆撃機の黒い編隊が現れ、容赦なく大量の爆弾を投下しはじめる。といっても、敵が何もない草原を攻撃するはずもないから、そこには町があり工場や学校があり、そして基地がある。むろん、人もいて獣もいる。それら攻撃対象を、まるで何もない場所であるかのようにアタックする感覚には、眼下に展開する風景はただの「草原」にしか見えないだろうし、攻撃される側にしても、その無防備に近い状態において、さながら「草原」に身をさらしているように感じられるということだ。すなわち「すなおに」爆撃されるしかないのである……。このときに「すなおに」とは、何と悲しい言葉だろうか。苛烈な現実を声高に告発するのではなく、現実を透明で無音の世界に引き込んでいる。この句には、爆撃の閃光もなければ轟音もないことに気がつく。しかし、現実として人獣は確かに死んでいくのである。今日、作者の涯子(がいし)を知る人は少ないだろうが、高屋窓秋の盟友であり、新興俳句の旗手であった。もっと読まれてよい俳人だ。『北風列車』(1950)所収。(清水哲男)


August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)




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