1999N10句

October 01101999

 突抜ける青が好き青十月の

                           北島輝郎

球。ストレートに、十月をむかえた喜びを歌っている。爽やかな十月。今年も、そうあってほしいものだ。。さて、せっかくの爽やかな句の雰囲気に水をさすようだが、今日は一理屈こねたくなっている(えっ、いつものことだって、……すみません)。そんな気分になったのは、句の「好き」に触発されたからだ。いつの頃からか、俳句や短歌に「好き」だの「嫌い」だのという生(なま)の感情がそのまま詠まれるようになってきた。とてもひっかかる言葉遣いだ。理由は、もとより「好き」や「嫌い」は誰にでも生ずる感情だけれど、それを生で表現することの意図がわからない点にある。そうした作品を読むと、「好き」「嫌い」は作者の勝手であるが、読者である私はそう言われても困ってしまう場合が多いのだ。そこのところを、作者は読者が困らないように説得するのが「作品」であるのに、それをしていない「作品もどき」が大半である。私の常識では、この種の書き物を文学とはとても呼べない。文学以前に、作者がそうした個人的にしか通用しない生の感情を、なぜ作品として発表したいのか。他人に読んでもらいたいのか。不可解すぎて欠伸が出てしまう。社会常識もたいしたものではないことを前提にして言うのだが、こうした表現などをひっくるめて、世間は「変態」と呼んできた。ただ、私に言わせれば「変態」も結構なのだけれど、幼稚な「変態」は「嫌い」だということである。(清水哲男)


October 02101999

 女ゐてオカズのごとき秋の暮

                           加藤郁乎

乎大人のことだから、美女と差し向いで一杯やっている図だろう。目の前の女にくらべれば、「秋の暮」なんぞはオカズみたいなものさとうそぶいている。いささかの無頼を気取った江戸前の粋な句だ。でも、句の解釈をここで止めてはいけない。「結構なご身分で……、ご馳走様」と、ここで止めてしまうのは、失礼ながら素人の読み。句の奥底には、実は痛烈な俳句批判がこめられている。すなわち、多くの俳人たちが「秋の暮」に対するときの「通俗」ぶりを嫌い、批判しているのである。そのへんの歳時記をめくってみればわかるが、通俗的な寂寥感と結びつけた「秋の暮」句のなんと多いことか。抒情の大安売り。みんな演歌の歌詞みたいで、うんざりさせられる。作者とて、もとより「秋の暮」の抒情を理解しないわけではない。が、ここは一番、俳人たちの安易な態度を批判しておく必要があると、悪戯っぽくひねってみせたのが、この句の正体である。同様の発想が生んだ句に「軽みとな煮ても焼いても秋の暮」がある。なお、「秋の暮」は秋の日暮れのことで「暮の秋(秋の終り)」ではない。『秋の暮』(1980)所収。(清水哲男)


October 03101999

 黒塗りの昭和史があり鉦叩

                           矢島渚男

ぶん、私の解釈は間違っている。「黒塗りの昭和史」とは暗黒の歴史そのもの、ないしは黒い装釘の歴史の本か、いずれかを指すのだろう。が、私は変なことを考えた。俗に「黒塗り」といえば、高級な乗用車のことだ。皇族や政財界の大物が乗り、宗教家やヤクザの親分などが乗り回す。「黒塗り」をそのように受け取ると、表裏の社会の権力者の一つの象徴ということになる。そんな「黒塗り族」が形成した昭和史を一方に見据え、他方に、権力者にとってはあまりにもか細い「鉦叩(かねたたき)」の声を庶民の声の象徴として配置した。か細いというよりも、「黒塗り」の中からは、鉦叩の声など聞こえやしない。むろん作者は鉦叩の側にいるから、どこかでかすかにチンチンと鳴いている声が、さながら昭和史への葬送の鉦のように聞こえている……。このとき「黒塗り」は、いつの間にか霊柩車に化しているというわけだ。体長、わずかに一センチの鉦叩。「五ミリの魂」と粋がることもできないほどに、「黒塗り」の暴走ぶりは凄まじかった。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


October 04101999

 稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ

                           中村汀女

は「ぬ」と発音する。遠くの夜空に、音もなく雷光のみが走る。稲妻(いなづま)は「稲の夫(つま)」の意で、稲妻によって稲が実るという俗説から秋の季語となった。その稲妻を「ゆたか」と受け止めている感性に、まずは驚かされる。私などは目先だけでとらえるから、とても「ゆたか」などという表現には至らない。作者は目先ではなく、いわば全身で稲妻に反応している。他の自然現象についても、そういう受け止め方をした人なのだろう。汀女句の「ふくよかさ」の秘密は、このあたりにありそうだ。昔の主婦は、格段に早起きだった。だから「寝べきころ」とは、明日の家族の生活に支障が出ないようにセットされた時間だ。このことについても、作者が全身でゆったりと受け止めている様子が、句からよく伝わってくる。その意味では「ゆたか」を除くと凡庸な作品に思えるかもしれないが、それは違う。私たちが、いま作者と同じ立場にあると仮定して、はたして句のように些細な日常を些細そのままに切り取れるだろうか。ここに隠されてあるのは、極めて犀利なテクニックが駆使された痕跡である。『汀女句集』(1944)所収。(清水哲男)


October 05101999

 ひんがしに霧の巨人がよこたわる

                           夏石番矢

ういう句は、丸呑みにしたい。「ひんがし(東)に」とあるから朝霧だと思うが、そんな詮索もせずに丸呑みにしてみて、消化できるかどうかを、しばらく待ってみる。消化できなかったら、吐き出せばよい。句は深い霧に対する作者の印象をストレートに述べているので、なかにはイメージに違和感を覚えて承服しがたい読者がいても当然のことだろう。私は承服したけれど、同様の発想は、童話の世界などではありふれたものである。ただし「ひんがし」と文語的に踏み出したことで、この巨人が日本神話のなかにでも「よこたわる」かのようなイメージを獲得している点に注目しておきたい。番矢のオリジナリティは「ひんがし」の「ん」一文字に発揮されているというわけだ。すなわち「ん」一文字によって、この巨人が西欧の人物ではなく、この国の巨人となった。アア、読売巨人にも、これくらいの摩訶不思議さがあったらなあ(笑)。自分で自分のことを「ミラクル」なんて言ってるようではねえ。『神々のフーガ』(1990)所収。(清水哲男)


October 06101999

 コスモスの押しよせてゐる厨口

                           清崎敏郎

花にすると可憐な風情のコスモスも、なかなかどうして根性のある花である。その性(さが)は、獰猛(どうもう)とさえ思われるときがある。まるで、誰かさんのように……(笑)。句のごとく、小さな津波のようにどこにでも押しよせてくる。頼みもしないのに、押しかけてくる。句は獰猛を言っているのではないが、逆に可憐を言っているのでもない。その勢いに目を見張りながら、少したじろいでいる。だから、この花は厨口(くりやぐち)など、表からは目立たないところに植えられてきた。いや、植えたとか蒔いたとかということではなく、どこからか種子が風に乗ってきて、自生してしまっていることのほうが多いのかもしれない。一年草だから、花が終わると根を引っこ抜く。この作業がまた大変なのだ。そんな逞しさのせいで、コスモスは徐々に家庭から追い出されている花だとも言えよう。最近の庭では、あまり見かけなくなった。長野県の黒姫高原や宮崎県の生駒高原などが名所だと、モノの本に書いてある。東京では立川の昭和記念公園が新名所で、ここには黄色い品種が群生しているらしい。コスモスも、わざわざ見に出かける花になりつつある。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)


October 07101999

 朝露に手をさしのべて何か摘む

                           大串 章

の庭で、たとえば妻が何かを摘んでいる。そんな姿を垣間見た写生句と理解してもよいだろう。実際に、そのとおりであったのかもしれない。しかし、私はもう少し執念深く、句にへばりついてみる。この「何か」が気になるからだ。「何か」とは、何だろうか。と言って、「何か」が草の花であるとか間引き菜であるとかと、その正体を突き止めたいわけじゃない。そうではなくて、この「何か」が句に占める役割が何かということを考えてみている。つまり作者は、故意に「何か」という言葉を据えた気配があるからだ。草の花や間引き菜に特定すると、句からこぼれ落ちてしまうもの。そういうものをこぼしたくないための「何か」を、作者は求めたにちがいない。そう考えて何度も読んでいるうちに、いつしか浮かび上がってきたのが、人の所作のゆかしさである。その露の玉のような美しさ。特定の誰彼のゆかしさというのではなく、古来私たちの生活に根付いてきた所作のゆかしさ全体を、作者は「何か」という言葉にこめて暗示している。こう読んでみると、小さな日常句がにわかに大きな時空の世界に膨れ上がってくるではないか。「百鳥」(1999年10月号)所載。(清水哲男)


October 08101999

 転けし子の考へてをり秋天下

                           上野 泰

さな子供が転んだ(転(こ)けた)。子供は一瞬、自分の身に何が起きたのかわからない。泣きもせず、転んだままの姿勢でじっとしている。作者には、その姿が何かを「考へてを」るように見えている。澄み渡った秋空の下、「考へてを」る子供だけにスポットがあてられ、周辺の景色や音はすべて消されている。大きな青空の下のちっぽけな命。この対比が訴えてくるのは、大人である私たちの命のありようもまた、この小さな子供のそれのようだということである。川崎展宏の鑑賞を引いておく。「カンガエテオリと読んで来る時間のよろしさ、間のよろしさ、秋天(しゅうてん)のもとにこの子だけの居る世界。切ない」。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


October 09101999

 くらくなる山に急かれてとろろ飯

                           百合山羽公

遊びの帰途。早くも暗くなりはじめた空を気にしながらも、とろろ飯を注文した。早く山を下りなければという思いと、せっかく来たのだから名物を食べておかなければという欲望が交錯している。私にもこういうことがよく起きて、食べ物でもそうだが、土産物を買うときにも「急かれて」しまうことが多い。作者にはいざ知らず、私は優柔不断の性格だから、いろいろと思いあぐねているうちに、時間ばかりが過ぎていってしまうのである。その意味で、この句はよくわかる。たいていの人は、そうではないと思う。名物があったら迷わず早めに食べたり買ったりして、帰りの汽車のなかでは、にぎやかに合評会をやったりしている。実に、羨ましい。「とろろ」は古来、栄養価の高いことから「山薬」といわれて珍重されてきた。自然薯(じねんじょ)を使うのが本来だけれど、希少なために、近年では栽培した長芋などで作る。これを麦飯にかけたのが「麦とろ」。白い飯にかけると食べ過ぎるので、それを防ぐために麦飯が登場したのだそうな。(清水哲男)


October 10101999

 来賓の姿勢つづきぬ運動会

                           岡本高明

動会に来賓(らいひん)を呼ぶのは、何故なのか。文化祭や学芸会に来賓のいる風景は、私の通った学校では一度も目にしたことがない。ま、常識的に考えて、富国強兵策の名残りだろうとは思うけれど……。「文弱の徒」に用はないというわけだ。で、来賓なる人物はきちんとスーツを着こんでやってきて、テント席の下でお茶なんぞを啜っている(お茶汲みは女生徒の担当だ)。どんな競技が行われても、面白くもないというような顔をして、終始姿勢を崩さない。句は、そのことを言っている。運動会のテーマで、来賓に着目した句は珍しい。作者については何も知らないが、学校関係者なのだろうか。それはともかくとして、この句は必ずしも来賓への皮肉を意図したものではないだろう。ありのままを述べ、後の解釈は読者にゆだねている。すなわち「運動会」に寄り掛かって句をおさめている。まことに「俳句的な俳句」の技法が使われているところが、特徴だ。そんなによい句ではないけれど、俳句的という意味では、なかなかに達者な作品である。本日は「体育の日」。読者のなかに来賓で呼ばれている方がおられましたら、運動場でこの句を思い出していただきたい。なるほど「姿勢つづきぬ」だなあと苦笑されることだけは、請け合いますので。「俳句文芸」(1999年10月号)所載。(清水哲男)


October 11101999

 門の内掛稲ありて写真撮る

                           高浜虚子

のある農家だから、豪農の部類だろう。普通の屋敷に入る感覚で門をくぐると、庭には掛稲(かけいね)があった。虚をつかれた感じ。早速、写真に撮った。それだけの句だが、作られたのが1943(昭和18)年十月ということになると、ちょっと考えてしまう。写真を撮ったのは、作者本人なのだろうか。現代であれば、そうに決まっている。が、当時のカメラの普及度は低かった。しかも、ハンディなカメラは少なかった。そのころ私の父が写真に凝っていて、我が家にはドイツ製の16ミリ・スチール写真機があったけれど、よほどの好事家でないと、そういうものは持っていなかったろう。しかも、戦争中だ。カメラはあったにしても、フィルムが手に入りにくかった。簡単に、スナップ撮影というわけにはいかない情況だ。虚子がカメラ好きだったかどうかは知らないが、この場面で写真を撮ったのは、同行の誰か、たとえば新聞記者だったりした可能性のほうが高いと思う。で、虚子は掛稲とともに写真におさまった……。すなわち「写真撮る」とは、写真に「撮られる」ことだったのであり、いまでも免許証用の「写真(を)撮る」という具合に使い、この言葉のニュアンスは生きている。「撮る」とは「撮られる」こと。自分が撮ったことを明確に表現するためには、「写真撮る」ではなく「写真に(!)撮る」と言う必要がある。ああ、ややこしい。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


October 12101999

 赤き帆とゆく秋風の袂かな

                           原 裕

書に「土浦二句」とある。もう一句は「雁渡るひかり帆綱は鋼綱」。いずれも秋の湖辺(霞ヶ浦)の爽やかさを詠んでいて、心地よい。「赤き帆」は、彼方をゆくヨットのそれだろう。秋風を受けた帆のふくらみと袂(たもと)のふくらみとを掛けて、まるで自分がヨットにでもなったような気分。上機嫌で、湖べりの道を歩いている。読者に、すっと伝染する良質な機嫌のよさだ。遠くの帆の赤が、ひときわ鮮やかだ。恥ずかしながら私の俳号は「赤帆(せきはん)」なので、この句を見つけたときは嬉しかった。二句目と合わせて読むと、秋色と秋光のまばゆい土浦(茨城)の風土が、見事に浮かび上がってくる。作者にはこの他にも「色彩」と「光線」に鋭敏な感覚を示した佳句が多く、この季節では「紫は衣桁に昏し秋の寺」などが代表的な作品だろう。この「紫色」の重厚な深みのほどには、唸らされてしまう。作者・原裕(はら・ゆたか)は原石鼎(はら・せきてい)の後継者として長く「鹿火屋」の主宰者であったが、この十月二日に亡くなられた。享年六十七歳。今日が告別式と聞く。合掌。『風土』(1990)所収。(清水哲男)


October 13101999

 老い母は噂の泉柿の秋

                           草間時彦

が実るのは秋にきまっているが、あえて「柿の秋」としたのは、たわわに実る柿の姿を強調したかったのだと思う。「泉」と照応して、おのずと自然の豊穣な雰囲気が出ている。ただ、豊穣といっても、この場合は噂話しのそれだ。老いた母が、泉の水のようにとめどなくくり出してくる他人の噂。老いても元気なのはなによりだけれど、聞かされる身としては、いささか辟易しているという図だろう。「柿の秋」ならぬ「噂の秋」だ。女性一般の噂話し好きは、いったい、どこから来るものなのか。むろん例外の女性もいるが、総じて女性はぺちゃくちゃと他人の動静についてしゃべることを好む。それこそ「泉」だとしか言いようのない人もいる。私などがじっと聞いていると、究極のところ、彼女は自分のする噂話しを自分自身に言い聞かせているような気がしてくる。聞いてくれる他人を媒介にして、自己説得しているように思えてくるのだ。となると、彼女にとっての噂話しとは、いわばアイデンティティを確認するための生活の知恵なのだろうか。このあたりのことを考えてみるのも面白そうだが、そんなヒマはない。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


October 14101999

 ものかげに煙草吸ふ子よ昼の虫

                           鈴木しづ子

とえば「娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ」などと奔放に書いた作者の、もう一つの顔はこのようであった。人にかくれて煙草を吸う少年、あるいは少女。チッチッと弱々しげな昼の虫の音が「ものかげ」から聞こえてくる。めったに姿を見せない鉦叩(かねたたき)の類だろうか。作者によって「子」と「虫」がこのように切り取られたとき、その相似性が語るものは、生きとし生けるものなべての哀れさであろう。ただし注目すべきは、作者がどこかでこの「哀れ」を楽しんでいる気配のうかがえるところだ。自虐の深さまでには至っていないが、この気分が昂揚すると娼婦句の世界へとつながっていくのだと思われる。『女流俳句集成』(1999・立風書房)の年譜によれば、鈴木しづ子は1919年(大正8年)東京神田生まれ、東京淑徳高等女学校卒。松村巨愀の主宰誌「樹海」に出句し、戦後間もなくは各務原市に住んで二冊の句集を出版したが、その後はぷつりと消息を断ってしまった。現在に至るも、生死不明という。第一句集『春雷』(1946)所収。(清水哲男)


October 15101999

 手でひねり点け手でひねり消す秋灯

                           京極杞陽

灯は「あきともし」と読ませる。そういえば、以前の電燈のスイッチは電球の真上についていた。いまでは部屋の片隅に取り付けてあるスイッチを押すか、ぶら下がっている紐を引っ張って点灯する様式のものが普通だ。いちいち電球の上に手を伸ばして「ひねり点け」るのが面倒なので、改良されたというわけである。作句年代を調べたら、1976年(昭和51年)とあった。そんなに昔のことでもない。それにしても、妙なことに感心する人もいたものだ。……と思うのは間違いで、この様式のスイッチだからこそ「秋灯」と結びつく句になったのである。そぞろ寒さが感じられる秋の夜に、電燈のぬくもりは心地よい。このスイッチでないと、秋灯の温度が体感できないということである。今様のスイッチは電燈から遠く離れていて、もはやこの情趣とは無縁になってしまった。道具ひとつの盛衰が私たちの情感に影響していると考えると、空恐ろしくなってくる。あと半世紀もたたないうちに、この句は図解でもしないと理解不能になるだろう。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


October 16101999

 じゅず玉は今も星色農馬絶ゆ

                           北原志満子

ゅず玉(数珠玉)と農馬(農耕馬)が結びつくのは、この草が水辺に自生する植物だからである。「馬洗ふ」という夏の季語もあるように、農耕に疲れた馬を川や湖で洗って疲労を回復させてやるのが、夕暮れ時の農家の日課であった。馬の行水だ。そんな光景のなかでは、いつも数珠玉が群生して揺れていた。なのに現在では農作業の機械化がいちじるしく進み、もはや農耕馬が存在したことすらも忘れられかけている。一方の数珠玉はといえば、昔と変らず秋風に揺れているというのに……。「星色」とは、数珠玉の実が緑色から灰白色(ないしは黒色)に変わっていく途中の色を指したのだろう。少年時代、私の村にも十数頭の農馬がいた。だから、行水の光景にも親しかったし、作者の思いもよくわかる。で、秋の農繁期が終わると、これらの馬を集めて競馬が行われた。文字どおりの「草競馬」だった。日頃激しい労働はしていても、走るトレーニングなどしたこともない馬たちのレースは、子供心にもなんだか哀れに思えたものだ。馬力はあっても、脚が出ないのだ。句を読んで、ふとそんなことも思い出してしまった。ちょっぴり泣けてきた。『北原志満子』(1996・花神現代俳句シリーズ)所収。(清水哲男)


October 17101999

 広瀬川胡桃流るる頃に来ぬ

                           山口青邨

桃(くるみ)は山野の川辺に生えているので、実が川に流れているのは普通の光景なのだろう。私は見たことがないけれど。地味な色の胡桃が川に見えるというのだから、水の清らかさを歌った句だ。澄んだ川水を讃えることで、広瀬川の流れる土地に挨拶を送っている。旅行者としての礼儀である。ところで「広瀬川」というと、あなたはどこの川を連想されるだろうか。詩の好きな読者なら、萩原朔太郎の「広瀬川白く流れたり」(詩集『郷土望景詩』所収)の一行から、前橋市のそれを思われるかもしれない。が、句の広瀬川は仙台の川だ。仙台市の西と北の丘陵地から東の田園地帯へと流れている。「青葉城恋歌」にも登場してくるのが、こちらの広瀬川。ややこしいけれど、違う川を連想したのでは、句味がまったく異なってしまう。「隅田川」や「セーヌ川」なら混乱は起きないにしても、俳句に地名や固有名詞を詠み込む難しさを感じざるを得ない。同時に、俳句が身内やその土地のなかで成立してきた内々の詩型であることについても……。今日の私は仙台にいる。広瀬川を眺めてから、帰京するとしよう。(清水哲男)


October 18101999

 鴨すべて東へ泳ぐ何かある

                           森田 峠

べての鴨が、いっせいに同じ方角に泳いでいく。そういうことが、実際にあるのだろうか。あるとしたら壮観でもあるし、たしかに「何かある」と思ってしまうだろう。群集心理。野次馬根性。はたまた付和雷同性。そうした人間臭さを、鴨にも感じているところが面白い。作者には、この句以前に「ねんねこの主婦ら集まる何かある」があり、これまた面白い。こちらのほうは、たしかに「何かある」から集まっているのだ。その「何か」が知りたい。作者は「鴨」よりも「主婦」よりも、このときに野次馬根性を発揮している。両句のミソは「何かある」だが、この表現は作者の特許言語みたいなものだろう。誰にでも使える言葉であり、使いたい誘惑にもかられるが、使って句作してみると、なんだか自分の句ではないような気がしてしまう。俳句では他にも、こんな特許言葉が多い。たまに起きる盗作問題も、多くは特許言語に関わってのそれだ。なお、単に「鴨」といえば冬の季語。この時季には「初鴨」や「鴨来る」が用意されている。そんなに厳密に分類するのも可笑しな話だけれど、一応そういうことになっているので。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)


October 19101999

 芋煮会阿蘇の噴煙夜も見ゆる

                           鈴木厚子

年度俳句研究賞受賞作「鹿笛」五十句のうち。芋煮会の本家は山形県や宮城県、そして福島県の会津地方だが、最近では全国的に行われるようになった。東京でも多摩川などにくり出す人々がいて、定着しつつある。こちらは九州というわけだが、阿蘇の噴煙を背景にしての大鍋囲みは、さぞかし気宇壮大な気分になることだろう。昼間の阿蘇をバックに芋煮会の写真を撮って、それをネガで見ると、句の視覚的理解が得られる。そこには噴煙をあげる阿蘇の雄大さが強調されているはずで、人の昼間の営みは幻のようにぼんやりとしている。夜も働く自然の圧倒的な力が、句のテーマである。ところで芋煮会の「芋」は「里芋」だ。俳句でも「芋」といえば「里芋」を指してきたが、今日「芋」と聞いて「里芋」を連想する人がどれほどいるだろうか。たまたまこの句の掲載された雑誌に、宇多喜代子が「いも」という一文を寄せている。ある集まりで「いも」と言って何芋を思い出すかというアンケートをとったところ、「サツマイモ」と「ジャガイモ」と答えた人がほとんどだったそうだ。となると、これから「芋」を詠むときには、それが「里芋」であることを指し示すサインを出しておく必要がありそうだ。「俳句研究」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


October 20101999

 うそ寒きラヂオや麺麭を焦がしけり

                           石田波郷

麭は食用の「パン」のこと。ちなみに、麺麭の「麺(めん)」は小麦粉のことであり、「麭(ほう)」は粉餅の意である。なるほど、考えられた当て字だとは思うが、難しい表記だ。さて、何となく寒い感じになってきた朝、作者はいつものようにパンを焼いている。習慣でつけているラジオの音も、今朝は何となく寒そうに聞こえてくる。昔のラヂオ(ラジオ)は茶の間の高いところなどに置いてあったから、台所からではよく聞こえない。そんなラジオに束の間、作者は聞き耳を立てていたのだろう。パンに心が戻ったときには、焦がしてしまっていた……。いまのトースターのように、焼き上がる時間をセットできなかったころの哀話(笑)だ。そこで作者は、うかつな失敗を犯した自分にちょっぴり腹を立てているわけだが、それが「うそ寒」い気持ちを倍加させている。ラジオの放送の中身も大したことはなかったようで、「うそ寒きラヂオ」という表現になった。肌身に感じる寒さにとどまらず、心のうそ寒さまでをも言い止めた句だ。寒いと言えば「嘘」になる「うそ寒さ」。と言うのは「真っ赤な嘘」(笑)で、本意は「薄寒さ」。客観的な「秋寒」などよりも、心理的な色彩の濃い言葉だ。こんな表現は、外国語にはないだろうな。(清水哲男)


October 21101999

 万太郎が勲章下げし十三夜

                           長谷川かな女

宵の月が「十三夜」。陰暦八月十五日の名月とセットになっていて「後(のち)の月」とも言い、大昔には十五夜を見たら十三夜も見るものとされていたそうだ。美しい月の見納め。風雅の道も大変である。で、片方の月しか見ないのを「片見月」と言ったけれど、たいていの現代人は今宵の月など意識してはいないだろう。それはともかく、十三夜のころは寒くなってくるので、ものさびしげな句が多い。「りりとのみりりとのみ虫十三夜」(皆吉爽雨)、「松島の後の月見てはや別れ」(野見山朱鳥)。そんななかで、この句は異色であり愉快である。「万太郎」とは、もちろん久保田万太郎だろう。秋の叙勲か何かで、万太郎が勲章をもらった(ないしは、もらうことになった)日が十三夜だった。胸に吊るした晴れがましい勲章も、しかし十三夜の月の輝きに比べると、メッキの月色に見えてしまう。ブリキの勲章……。かな女は、そこまで言ってはいないのだけれど、句には読者をそこまで連れていってしまうようなパワーがある。勲章をもらった万太郎には気の毒ながら、なんとなく間抜けに思われてくる。寿ぎの句だが、寿がれる人物への皮肉もこめられていると言ったら、天上の人である作者は否定するだろうか。にっこりするだろうなと、私は思う。(清水哲男)


October 22101999

 落栗をよべ栗の木を今朝見たり

                           後藤夜半

くあることだが、この句の前でも立ち往生してしまった。さあ、わからない。三十分ほど考えたところで出かける時間となり、バスのなかで反芻し、仕事場に着いてからも頭に引っ掛かったままだった。原因は、最初に「よべ」を「呼べ」と思い込んでしまったところにある。どうも「呼べ」ではないらしいと思い直したのは、放送中だった(こういうことも、よくあります)。スタジオから出て来て、「よべ」「よべ」と二三度となえているうちに、パッと「昨夜」を「よべ」と読むことに気がついた(これまた、よくあること)。なあんだ。で、後は簡単。作者は、旅先にあるのだろう。昨夜、道ばたで落栗を見かけ、「おや、こんなところに、なぜ栗が」と思っていたのだが、今朝明るくなって見てみると、そこにはちゃんと栗の木があったよ。……というわけだ。考えてみれば、作者もこの句を得るのに夜から朝まで、半日という時間をかけている。読者の私も、理解するのにほぼ半日を費やした。おあいこだ。と言うのも、なんか変だけど。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


October 23101999

 秋風や射的屋で撃つキューピッド

                           大木あまり

に「秋風が吹く」というと、「秋」を「飽き」にかけて、男女の愛情が冷める意味に用いたりする。句は、そこを踏まえている。ご存じキューピッドは、ローマ神話に出てくる恋愛の神(ちなみに、ギリシャ神話では「エロス」)。ビーナスの子供で、翼のある少年だ。この少年の金の矢を心臓に受けた者は、たちまち恋に陥るという。そのキューピッドが、それこそ仕事に「飽き」ちゃったのか、こともあろうに日本の射的屋で金の矢ならぬコルクの弾丸を撃っている。ターゲットは煙草や人形の類いだから、いくら命中しても恋などは生まれっこない。いかにも所在なげな少年の表情が見えるようだ。秋風の吹くなかのうそ寒い光景であると同時に、作者自身に関わることかどうかは知らねども、背景には愛情の冷めた男女の関係が暗示されているようだ。そぞろ身にしむ秋の風。おそらくは、実景だろう。まさか翼があるわけもないが、作者は射的屋で鉄砲を撃つ外国の美少年を目撃して、とっさにキューピッドを連想したに違いない。このように「秋風」を配した句は珍しいので、みなさんにお裾分けしておきたい。『雲の塔』(1993)所収。(清水哲男)


October 24101999

 日本シリーズ釣瓶落しにつき変はり

                           ねじめ正也

の親にして、この子あり。この子とは、熱烈な長嶋ジャイアンツ贔屓のねじめ正一君。お父上も、相当な野球狂だったらしい。「渾身の投球を子に木々芽吹く」。こうやって、子供を野球選手に仕立て上げたかったようで、実際、正一君を高校に野球入学させたところまではうまくいった。日大二高だったか、三高だったか。句であるが、息つくひまもないほどに「つき」が変わる熱戦を詠んでいる。が、「釣瓶(つるべ)落し」の比喩はいささか気になる。日本シリーズは秋に行われるので、「秋の落日は釣瓶落し」からの引用はわかるけれど、これだと時間経過の垂直性のみが強調される恨みが残る。野球というゲームの空間的な水平性が、置き去りにされてしまっている。たしかに「つき」の交代は時間の流れのなかで明らかになるわけだが、「つき」の変化が認められる根拠には水平性がなければならない。もっと言えば、時間が経過するから「つき」が変わるのではなく、空間が歪んだりするので「つき」も変わるのだ。でも、こんな理屈はともかくとして、句の「どきどき感覚」は捨てがたい。ちなみに、作句年は1990年(平成二年)。日本シリーズで、藤田ジャイアンツが森ライオンズにストレート負けした年である。『蠅取りリボン』(1991)所収。(清水哲男)


October 25101999

 魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも

                           正木ゆう子

わず、笑ってしまった。愉快、愉快。「魔がさす」に事欠いて、糸瓜(へちま)になってしまったとはね。作者の困惑ぶりが、周囲の糸瓜にとりあえず「どうもどうも」と挨拶している姿からうかがえる。どうして糸瓜になっちゃったのか。なんだかワケがわからないながら、とっさに曖昧な挨拶をしてしまうところが、生臭くも人間的で面白い。でも、人間はいくら「魔がさして」も糸瓜にはなれっこないわけで、その不可能領域に「魔がさして」と平気で入っていく作者の言葉づかいのセンスはユニークだ。大胆であり、不敵でもある。もしも、これが瓢箪(ひょうたん)だと、面白味は薄れるだろう。子供の頃に糸瓜も瓢箪も庭にぶら下がっていたけれど、生きている瓢箪は、存外真面目な顔つきをしている。そこへいくと、糸瓜はいつだって、呑気な顔をしていたっけ。私も「魔がさし」たら、糸瓜になってみたいな。昔は浴用に使われたとモノの本にも書いてあり、私も使った覚えはあるのだが、今ではどうだろうか。もはや、無用の長物(文字どおりの長物)と言ったほうがよさそうだ。ここ何年も、糸瓜のことを忘れていた。この句に出会って、それこそ「どうもどうも」という気分になっている。俳誌「花組」(1999年秋号)所載。(清水哲男)


October 26101999

 秋薔薇や彩を尽して艶ならず

                           松根東洋城

は「いろ」、艶は「えん」と読む。毎日、俳句を読むようになってから、自分にいかに動植物に関わる知識が欠けているかを痛感している。特殊な動植物のそれではなく、そこらへんで見かける植物や動物について、知らないことが多すぎるのだ。これではならじと、ここ三年ほど、一つ一つ覚えるようにしてきたものの、まだまだ駄目である。今朝方も庭に薔薇が咲いているのを見て、狂い咲きかなと思っていたら、俳句の季語に「秋薔薇」が存在することを知って愕然としたばかりだ。講談社から新しく出た『新日本大歳時記』をパラパラめくっていたら、目に飛び込んできた(ちなみに、当ページが一応のよりどころにしている角川書店の『俳句歳時記』には、「秋薔薇」の項目はない)。講談社版から、解説を引き写しておく。「薔薇は四月、五月と咲くので夏の季語であるが、一段落して盛夏を休み、秋涼しくなって再び咲くのを秋薔薇という。二度目なので樹勢に左右され、花はやや小ぶりであることが多い。秋気いや増す中で芳香を放って咲く気品が愛される」(伊藤敬子)。で、例句として掲句がプリントされているのだが、解説との微妙なニュアンスのずれが面白い。解説者は秋薔薇の美点を芳香に見ており、作者は色彩に見ている。いずれにしても両者ともが、秋の薔薇のほめ方に少し困っている。「色はいいんだけどなあ」と書いた東洋城のほうが、少し正直である。(清水哲男)


October 27101999

 居酒屋の昼定食や荻の風

                           小澤 實

間の居酒屋は、空間そのものが既に侘びしい。ましてやそこで飯を食うとなると、宴の後の残り物を食べさせられているような気分がする。仕方なく何度か体験したが、店内はなんとなく酒臭くて薄暗いし、親爺や店員にも夜の元気がないしで、こちらまでが哀れになる。そこへもってきて、軒端の荻(おぎ)が風に揺れている。湿地を好む植物(東京には「荻窪」という地名があり、元来が湿地帯であった)だから、この酒場の周辺はじめじめしているのだろう。人間は、なぜ飯などを食うのか。そんな気持ちにさえなってしまう。荻は薄(すすき)に似ている。「荻の葉をよくよく見れば今ぞ知るただおほきなる薄なりけり」(京極為兼)。写実的にはこのとおりだが、ひどくとぼけた歌人もいたもので、鎌倉時代の人である。なお、「荻の風」といえば、伝統的には秋の訪れを告げる風の意味だ。が、この句ではそう受け取ってもよいし、むしろ晩秋の侘びしさを表現していると解釈しても、どちらでもよいと思う。「俳句界」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


October 28101999

 殺される女口あけ菊人形

                           木村杢来

居の一場面を菊人形に仕立ててあるわけだが、殺される女の口が開きっぱなしなのが、ひどく気になったというのである。凄絶なシーンのはずが、開いた口のせいで痴呆的にすら感じられる……。そこが、人形的なあまりに人形的な切なさではある。漱石の『三四郎』に団子坂(東京千駄木)の菊人形が出てくる。「どんちゃんどんちゃん遠くから囃している」とあり、明治末期の菊人形は秋最大級の見せ物として人気があったようだ。私に言わせれば、菊と人形の組み合わせなどゲテモノにしか見えないけれど、ゲテモノは見せ物の基本だから、あって悪いとは思わないが好きではない。渡辺水巴などは、真面目につきあって「菊人形たましひのなき匂かな」と詠んでいる。そういう気にもなれない。どうせ詠むのなら、大串章のように「白砂に菊人形の首を置く」と、楽屋を詠むほうが面白い。ドキリとさせられる。私とは違って、大串章は菊人形に好意をもっての作句だろうが、このシーンを描くことで見せ物の本質はおのずから描破されている。先日、菊作りの専門家に聞いたら、今年は中秋までの暑さがたたって仕上がりが遅いそうだ。菊人形展や菊花展の関係者は、さぞや気をもんでいることだろう。(清水哲男)


October 29101999

 蒲団着て先ず在り在りと在る手足

                           三橋敏雄

しかに、この通りだ。他の季節だと、寝るときに手足を意識することもないが、寒くなってくると、手足がちょっと蒲団からはみだしていても気になる。亀のように、手足を引っ込めたりする。まさに「在り在りと在る手足」だ。それに「在」という漢字のつらなりが、実によく利いている。例えば「ありありと在る」とやったのでは、つまらない。蒲団の句でもっとも有名なのは、服部嵐雪の「蒲団着てねたるすがたやひがし山」だろう。このように、蒲団というと「ねたるすがた」は多く詠まれてきているが、自分が蒲団に入ったときの句は珍しいと言える。ま、考えてみれば当たり前の話で、完全に寝てしまったら、句もへちまもないからである。ところで、蒲団を「着る」という表現。私は「かける」と言い、ほとんど「着る」は使ったことがない。もとより「着る」のほうが古来用いられてきた表現だけれど、好みの問題だろうが、どうも馴染めないでいる。「帽子を着る」「足袋を着る」についても、同様だ。もっと馴染めないのは英語の「wear」で、髪飾りの「リボンをwearする」にいたっては、とてもついていけない。『畳の上』(1988)所収。(清水哲男)


October 30101999

 水のなき湖を囲へる山紅葉

                           深谷雄大

者は旭川市在住。前書に「風連望湖台吟行」とある。「風連望湖台」とは、どこだろうか。北海道には無知の私だから、早速ネット検索で調べてみた。と、「北海道マイナー観光地ガイド」というページが出てきて、名寄市近郊であることがわかった。いわゆる上川地方だ。札幌からは、高速道路を使えば車で3時間10分ほどで行けるとある。「風連(ふうれん)望湖台自然公園」という水郷公園になっていて、見える湖は「中烈布湖」であることまでは判明した。が、後の情報は希薄で、湖の説明もなければ、読み方も書いてない。はなはだ不親切。「マイナー」だからこそ、きちんと説明すべきなのに……。そんなわけで、句が生まれた環境はわからない。それでも私が魅かれたのは、水のない湖(うみ)を囲む紅葉という構図そのものに、作者のリリカルなセンスのよさを感じたからだ。この句は自然に私を、我が青春の愛唱歌である塚本邦雄の「みづうみにみづありし日の恋唄をまことしやかに弾くギタリスト」(愛唱歌と言いながら表記はうろ覚え。いずれ訂正します)に導いてくれた。塚本歌がフィクションであるという差はあるが、センスのよさという意味では、両者に隔たりはないだろう。『端座』(1999)所収。(清水哲男)


October 31101999

 日あたりや熟柿の如き心地あり

                           夏目漱石

惑などという年令は、とっくのとうに過ぎてしまったのに、いまだに惑ってばかりいる。句のような心地には、ならない。いや、ついになれないだろうと言うべきか。このとき、漱石は弱冠二十九歳。あたたかい日のなかの熟柿は美しく充実して、やがて枝を離れて落下する自分を予知しているようだ。焦るでもなく慌てるでもなく、自然の摂理に身をまかせている。そんな心地に、まだ若い男がなったというのだから、私には驚きである。ここでは、みずからの充実の果ての死が、これ以上ないほどに、おだやかに予感されている。人生五十年時代の二十九歳とは、こんなにも大人だったのか。「それに比べて、いまどきの若い者は……」と野暮を言う資格など、私にはない。西暦2000年まであと二ヶ月。一年少々で、二十世紀もおしまいだ。「二十一世紀まで生きられるかなあ。無理だろうなあ」。小学生のころ、友だちと話したことを、いまさらのように思い出す。切実に死を思ったのは小学生と中学生時代だけで、以後は生きることばかりにあくせくしてきたようである。『漱石俳句集』(岩波文庫・1990)所収。(清水哲男)




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