kuq句

October 16101999

 じゅず玉は今も星色農馬絶ゆ

                           北原志満子

ゅず玉(数珠玉)と農馬(農耕馬)が結びつくのは、この草が水辺に自生する植物だからである。「馬洗ふ」という夏の季語もあるように、農耕に疲れた馬を川や湖で洗って疲労を回復させてやるのが、夕暮れ時の農家の日課であった。馬の行水だ。そんな光景のなかでは、いつも数珠玉が群生して揺れていた。なのに現在では農作業の機械化がいちじるしく進み、もはや農耕馬が存在したことすらも忘れられかけている。一方の数珠玉はといえば、昔と変らず秋風に揺れているというのに……。「星色」とは、数珠玉の実が緑色から灰白色(ないしは黒色)に変わっていく途中の色を指したのだろう。少年時代、私の村にも十数頭の農馬がいた。だから、行水の光景にも親しかったし、作者の思いもよくわかる。で、秋の農繁期が終わると、これらの馬を集めて競馬が行われた。文字どおりの「草競馬」だった。日頃激しい労働はしていても、走るトレーニングなどしたこともない馬たちのレースは、子供心にもなんだか哀れに思えたものだ。馬力はあっても、脚が出ないのだ。句を読んで、ふとそんなことも思い出してしまった。ちょっぴり泣けてきた。『北原志満子』(1996・花神現代俳句シリーズ)所収。(清水哲男)


June 2662003

 いつよりの村のまぼろし氷雨の馬

                           北原志満子

語は「氷雨(ひさめ)」。しばしば物議をかもす季語で、俳句では通常夏季としているが、一般的には冬季と理解する人がほとんどだろう。夏季としたのは、文字通りの氷の雨、すなわち雹(ひょう)を指すからだ。対して冬季と感じるのは、みぞれに近い冷たい雨、すなわち氷のような雨と思うからで、新しい『広辞苑』などでは両義が並記されている。どちらが正しいかということになれば、理屈では氷の雨そのものを指す夏季説が、比喩的に受け取る冬季説よりも直裁的で正確であるとは言える。しかし、一般的に冬季と解されてしまうのは、何故なのだろうか。一つには夏の雹が頻繁に降るものではないからだろうし、もう一つには詩や歌謡曲で冬季として流布されてきた影響も馬鹿にならないと思う。では掲句の「氷雨」の季節はいつだろうかと考えてみて、私の結論はやはり俳句の伝統に添った夏季に落ち着いた。冬の冷たい雨と解しても、句がこわれることはないけれど、雹が農作物や家畜への被害をもたらすことを思えば、「村」の句である以上、夏季とみるのが順当だろう。このときに「氷雨の馬」とは、突然の雹に驚き暴れる馬のイメージであり、そのイメージがこの村には、いつのころからか「まぼろし」として貼り付いていると言うのである。貧しい村の胸騒ぎするような不吉なまぼろしだ。何度も何度も雹にやられてきた村人は、この季節になると、氷雨に立ち騒ぐ馬のまぼろしに悩まされるのである。『北原志満子句集』(1975)所収。(清水哲男)




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