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1999N1019句(前日までの二句を含む)

October 19101999

 芋煮会阿蘇の噴煙夜も見ゆる

                           鈴木厚子

年度俳句研究賞受賞作「鹿笛」五十句のうち。芋煮会の本家は山形県や宮城県、そして福島県の会津地方だが、最近では全国的に行われるようになった。東京でも多摩川などにくり出す人々がいて、定着しつつある。こちらは九州というわけだが、阿蘇の噴煙を背景にしての大鍋囲みは、さぞかし気宇壮大な気分になることだろう。昼間の阿蘇をバックに芋煮会の写真を撮って、それをネガで見ると、句の視覚的理解が得られる。そこには噴煙をあげる阿蘇の雄大さが強調されているはずで、人の昼間の営みは幻のようにぼんやりとしている。夜も働く自然の圧倒的な力が、句のテーマである。ところで芋煮会の「芋」は「里芋」だ。俳句でも「芋」といえば「里芋」を指してきたが、今日「芋」と聞いて「里芋」を連想する人がどれほどいるだろうか。たまたまこの句の掲載された雑誌に、宇多喜代子が「いも」という一文を寄せている。ある集まりで「いも」と言って何芋を思い出すかというアンケートをとったところ、「サツマイモ」と「ジャガイモ」と答えた人がほとんどだったそうだ。となると、これから「芋」を詠むときには、それが「里芋」であることを指し示すサインを出しておく必要がありそうだ。「俳句研究」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


October 18101999

 鴨すべて東へ泳ぐ何かある

                           森田 峠

べての鴨が、いっせいに同じ方角に泳いでいく。そういうことが、実際にあるのだろうか。あるとしたら壮観でもあるし、たしかに「何かある」と思ってしまうだろう。群集心理。野次馬根性。はたまた付和雷同性。そうした人間臭さを、鴨にも感じているところが面白い。作者には、この句以前に「ねんねこの主婦ら集まる何かある」があり、これまた面白い。こちらのほうは、たしかに「何かある」から集まっているのだ。その「何か」が知りたい。作者は「鴨」よりも「主婦」よりも、このときに野次馬根性を発揮している。両句のミソは「何かある」だが、この表現は作者の特許言語みたいなものだろう。誰にでも使える言葉であり、使いたい誘惑にもかられるが、使って句作してみると、なんだか自分の句ではないような気がしてしまう。俳句では他にも、こんな特許言葉が多い。たまに起きる盗作問題も、多くは特許言語に関わってのそれだ。なお、単に「鴨」といえば冬の季語。この時季には「初鴨」や「鴨来る」が用意されている。そんなに厳密に分類するのも可笑しな話だけれど、一応そういうことになっているので。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)


October 17101999

 広瀬川胡桃流るる頃に来ぬ

                           山口青邨

桃(くるみ)は山野の川辺に生えているので、実が川に流れているのは普通の光景なのだろう。私は見たことがないけれど。地味な色の胡桃が川に見えるというのだから、水の清らかさを歌った句だ。澄んだ川水を讃えることで、広瀬川の流れる土地に挨拶を送っている。旅行者としての礼儀である。ところで「広瀬川」というと、あなたはどこの川を連想されるだろうか。詩の好きな読者なら、萩原朔太郎の「広瀬川白く流れたり」(詩集『郷土望景詩』所収)の一行から、前橋市のそれを思われるかもしれない。が、句の広瀬川は仙台の川だ。仙台市の西と北の丘陵地から東の田園地帯へと流れている。「青葉城恋歌」にも登場してくるのが、こちらの広瀬川。ややこしいけれど、違う川を連想したのでは、句味がまったく異なってしまう。「隅田川」や「セーヌ川」なら混乱は起きないにしても、俳句に地名や固有名詞を詠み込む難しさを感じざるを得ない。同時に、俳句が身内やその土地のなかで成立してきた内々の詩型であることについても……。今日の私は仙台にいる。広瀬川を眺めてから、帰京するとしよう。(清水哲男)




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