V@句

October 27101999

 居酒屋の昼定食や荻の風

                           小澤 實

間の居酒屋は、空間そのものが既に侘びしい。ましてやそこで飯を食うとなると、宴の後の残り物を食べさせられているような気分がする。仕方なく何度か体験したが、店内はなんとなく酒臭くて薄暗いし、親爺や店員にも夜の元気がないしで、こちらまでが哀れになる。そこへもってきて、軒端の荻(おぎ)が風に揺れている。湿地を好む植物(東京には「荻窪」という地名があり、元来が湿地帯であった)だから、この酒場の周辺はじめじめしているのだろう。人間は、なぜ飯などを食うのか。そんな気持ちにさえなってしまう。荻は薄(すすき)に似ている。「荻の葉をよくよく見れば今ぞ知るただおほきなる薄なりけり」(京極為兼)。写実的にはこのとおりだが、ひどくとぼけた歌人もいたもので、鎌倉時代の人である。なお、「荻の風」といえば、伝統的には秋の訪れを告げる風の意味だ。が、この句ではそう受け取ってもよいし、むしろ晩秋の侘びしさを表現していると解釈しても、どちらでもよいと思う。「俳句界」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


August 2882006

 月見草木箱のラジオ灯りけり

                           小澤 實

の出ころに咲くので「月見草」。朝になると、しぼんでしまう。以前にも書いたことだが、私は月見草をそれと意識して見たことはない。しかも、数年前までは黄色い花の「待宵草(まつよいぐさ)」と混同していた。月見草の花は白色だという。図鑑の写真を見ても、見たことがあるようなないような‥‥。同じ夜咲く花でも、月下美人のように豪奢な感じはかけらもないので、見たことがあっても名前まで知ろうとは思わなかったのだろう。そんな花は、他にもいっぱいある。夏の季語だ。そういうことはさておいても、揚句は理解できる。とりたてて新味もない句だが、昔のラジオ少年としては、たまらない懐かしさに誘われた。そうだった、ラジオはみんな木箱に内蔵されていた。夕方、学校から戻ってきて、聴きたい番組のあるときはスイッチをひねる。現代のそれとは違い、当時は真空管方式だったから、すぐには音が聞こえてこない。しばらく待つうちに、ブーンというノイズとともに聞こえてくるのだ。この感覚が、まさに「灯る」なのである。ラジオも灯り、月見草も灯るころに、聞こえてくる番組は「笛吹童子」か「一丁目一番地」か、はたまた民放の「赤胴鈴之助」あたりだろうか。そんなことを思っていると、しばし世の中のとげとげしさを忘失することができた。ところで、作者は1956年の生まれだ。物心のついたころには、既に木箱のラジオは珍しかったのではあるまいか。だとすれば、私は新味のない句と思ったけれど、作者の世代にとって「木箱のラジオ」はむしろ新鮮に感じられるのかもしれない。すると、句の解釈はかなり異なってくるが、まあ、私は私なりに読んだということで。「俳句研究」(2006年9月号)所載。(清水哲男)


August 1282007

 窓あけば家よろこびぬ秋の雲

                           小澤 實

めばだれしもが幸せな気分になれる句です。昔から、家を擬人化した絵やイラストの多くは、窓を「目」としてとらえてきました。位置や形とともに、開けたり閉じたりするその動きが、まぶたを連想させるからなのかもしれません。「窓あけば」で、目を大きく見開いた明るい表情を想像することができます。ところで、家が喜んだのは、窓をあけたからなのでしょうか、あるいは澄んだ空に、ゆったりとした雲が漂っているからでしょうか。どちらとも言えそうです。家が喜びそうなものが句の前後から挟み込んでいるのです。「秋の」と雲を限定したのも頷けます。春の雲では眠くなってしまうし、かといって夏でも冬の雲でもだめなのです。ここはどうしても秋の、空を引き抜いて漂わせたような半透明の雲でなければならないのです。その雲が細く、徐々に窓から入り込もうとしています。家の目の中に流れ込み、瞳の端を通過して行く雲の姿が、思い浮かびます。「よろこぶ」という単純で直接的な表現が、ありふれたものにならず、むしろこの句を際立たせています。考え抜かれた末の、作者のものになった後の、自分だけの言葉だからなのでしょう。『合本 俳句歳時記』(1998・角川書店)所載。(松下育男)


April 2342010

 いまだ名のつかざる男の子あたたかし

                           小澤 實

前をつけられ、名前で呼ばれ、言葉を教えられ、ものの名を教えられて人は常識を身に着ける。法に沿って常識は権力に都合のいいように書き換えられ規定される。右にも左にも上にも下にもはみださぬように設定された中での、倫理観やら反骨などはガス抜きに過ぎない。名前のつく前の裸の赤子に無限の可能性が詰まっている。もっとも弱きものの中にもっとも強固な変革の核がある。「俳句」(2009年5月号)所載。(今井 聖)


August 2482015

 なりすぎの胡瓜を煮るや煮詰めたる

                           小澤 實

瓜を煮るという発想は、あまり一般的ではないだろう。したがって、この句も事実を述べたものではないと思う。煮詰まったのは、アタマの中の鍋でである。情景を想像すると、なんとも暑苦しく鬱陶しい。ここがこの句の眼目だろう。胡瓜はナマで食べるもの。私にもこの固定観念があるけれど、いま、思い出してはっとしたことがある。正確には「煮る」という感じではないが、私が子供だったころに、毎日のように胡瓜の味噌汁を食べていたことだ。食料難で母も味噌汁の具に困ったすえの工夫だったのだろう。もう半世紀以上も前の話だが、子供にもこれがなかなか美味だった。大人になってから、友人にこの話をすると、みなびっくりすると同時に「ウソだろう」と本気にしてくれなかった。それほどに胡瓜のナマ神話は強力なのだ。どなたか、胡瓜の味噌汁を食べたことがある方はいらっしゃらないでしょうか。「俳句」(2015年9月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます