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December 17121999

 遠火事や窓の拭き残しが浮いて

                           松永典子

防車のサイレンの音が聞こえてきた。火事である。どこだろうか。こういうときには、誰だって耳を澄ますのと同時に、サイレンの音のする方角を見る。その方角に窓がなければ、方角に近い窓を開けて首を伸ばしたりする。幸いにして火事は遠かったようだが、方角は作者の部屋の窓のそれと一致していた。遠火事にひとまず安堵したまではよかったのだけれど、今度は一瞬凝視した窓の汚れが目についてしまったという構図だ。火事さえなければ、気にならなかった汚れだったかもしれない。ちゃんと拭いたつもりが、拭き残されていた汚れ。火事のことなど忘れ去って、今度は窓の汚れに心を奪われている……。日常的な生活のなかでの感情と感覚のありどころは、このように次から次へと切り替わっていくのだということ。そのあたりの機微を、非常に巧みに捉えた句だと思う。昔の共同体ならば、半鐘がジャンと鳴っただけで、遠くでも近くでも心は火事に奪われた。だが、現代の心は、遠ければ、すぐに別の次元に心が飛んでしまう。作者に時代風刺のつもりはあるまいが、昔の人にはそう読まれるかもしれない。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


February 1622000

 山に雪どかつとパスタ茹でてをり

                           松永典子

日の「夏にしあれば」から、季節は一転して真冬へと……。実は、昨日の天気予報で「川鋭し」の故郷近辺に大雪警報が出ていたので、ぱっと掲句を思い出したという次第。もちろん私が子供だったころにパスタなんて洒落た食べ物はなかったけれど、饂飩(うどん)だっていいわけだし、作者の思いは時間を逆転しても十分に通用する。「どかつと」は雪とパスタの両方の量にかけられており、それだけでも作者の非凡な才能を認めざるをえない。加えて、素朴でのびやかな感覚が素敵だ。外の寒さと厨房の暖かさとの対比までは、少し俳句を齧った人には思いの至る発想だが、たいていはちまちまとした句になってしまいがち。ところが見られるように、作者は堂々としている。してやったりの小賢しさがない。内心では「してやったり」なのではあろうけれど(失礼)、それをオクビにも表に出さないという、いわば秘めたる力技の妙。きっと、この「どかつと」茹でられたアツアツのパスタは美味しかったでしょうね。と、思わずも作者に話しかけたくなるところに、真面目に言って、俳句的表現の必然不可欠性が存在する。私たちが俳句をないがしろにできない根拠が、質量ともにここに「どかつと」例証されている。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


May 0252000

 行く春のお好み焼きを二度たたく

                           松永典子

きに人は、実に不思議で不可解な所作をする。「お好み焼き」ができあがったときに、「ハイ、一丁上りッ」とばかりにコテでポンと叩くのも、その一つだ。たいていの人が、そうする。ただし、街のお好み焼き屋にカップルでいる男女だけは例外。焼き上がっても、決して叩いたりはしない。しーんと、しばし焼き上がったものを見つめているだけである。逆に、これまた不思議な所作の一つと言ってよい。句は、自宅で焼いている光景だろう。大きなフライパンかなんかで、大きなお好み焼きができあがった。そこで、すこぶる機嫌の良い作者は、思わずも二度叩いてしまった。ポン、ポン(満足、満足)。折しも季節は「行く春」なのだけれど、感傷とは無関係、これから花かつおや青海苔なんぞを振りかけて、ふうふう言いながら家族みんなで食べるのだ。元気な主婦の元気ですがすがしい一句である。ここで、いささかうがったことを述べておけば、作者は憂いを含む季語として常用されてきた「行く春」のベクトルを、180度ひっくり返して「夏兆す」の明るい意味合いを込めたそれに転化している。句が新鮮で力強く感じられるのは、多分にそのせいでもある。『木の言葉から』(2000)所収。(清水哲男)


September 1492000

 ローソンに秋風と入る測量士

                           松永典子

量士もそうだが、警官や看護婦や運転士や客室乗務員など、職場で作業着(制服)を着用して働く職業は多い。着用していると、機能的に仕事がしやすいという利点や、仕事中であることのサインを服自体が発するという利便性があり、権威に結びつくこともあるが、元来はそういう種類の衣服だ。ただ、作業着着用の人の職業が何であっても、共通しているのは、まったく日常的な生活臭を感じさせない点だ。職業に集中したデザインの服は、職業以外の何かを語ることはない。その意味で、着用している人は極度に抽象化された存在となっている。ポルノで「制服モの」に人気があるのは、抽象化された人間の具体を暴くための装置として、制服が位置づけられているからである。掲句は、抽象的な職業人の一人である「測量士」を「ローソン」に入らせたことで、瞬間的にふっと彼の生活臭を垣間見せている。弁当でも求めに入ったのだろう。この測量士の入るところが「ローソン」ではなく、たとえば事務所や公共的な建物だったら、このような生活臭は感じられない。生活のための商品をあれこれ売っている「ローソン」だからこそ、ふっと彼の生活臭がにおってくるのだ。爽やかな「秋風」に運ばれて……。作者の鋭敏な臭覚に、敬意を表する。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


October 29102000

 行先ちがふ弁当四つ秋日和

                           松永典子

日あたり、こんな事情の家庭がありそうだ。絶好の行楽日和。みんな出かけるのだが、それぞれに行き先が違う。同じ中身の弁当を、それぞれが同じ時間に別々の場所で食べることになる。蓋を取ったとき、きっとそれぞれが家族の誰かれのことをチラリと頭に描くだろう。そんな思いで、弁当を詰めていく。大袈裟に言えば、本日の家族の絆は、この弁当によって結ばれるのだ。主婦であり母親ならではの発想である。変哲もない句のようだが、出かける四人の姿までが彷彿としてきてほほ笑ましい。こういうときには、たいてい誰かが忘れ物をしたりするので、主婦たる者は、弁当を詰め終えたら、そちらのほうにも気を配らなければならない。「ハンカチ持った?」「バス代は?」などなど。家族の盛りとは、こういう事態に象徴されるのだろう。みなさん、元気に行ってらっしゃい。また、こういう句もある。「子の布団愛かた寄らぬやうに干し」。よくわかります。一応ざっと干してから、均等に日が当たるようにと、ちょちょっと位置を微妙に修正するのだ。今日あたり、こういう母親もたくさんいるだろう。ちなみに「布団」は冬の季語。「とても好調だ、典子は」と、これは句集に添えられた坪内稔典さんの言葉だ。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


October 07102005

 埠頭まで歩いて故郷十三夜

                           松永典子

語は「十三夜」で秋、「後(のち)の月」に分類。陰暦九月十三日(今年の陽暦では十月十五日)の月のこと。名月の八月十五夜に対して後の月と言い、宇多法皇がはじめた行事とされる。中国の行事である十五夜に対抗して、日本の月ならば十三夜がベストだというわけか。「十三」という数字は、欧米ではキリスト教がらみで嫌う人が多いようだが、日本では「富(とみ)」に通じ、また十二支の次の数でもあるから「出発」に通じて縁起が良いと言われたりする。掲句は、久しぶりに故郷を訪ねた作者が名残りを惜しんで、最後の夜を散策しているのだろう。子供のころに慣れ親しんだ「埠頭(ふとう)」から、もう一度海を眺めておきたい。折しも、今宵は十三夜だ。澄み切った月の光に照らされて歩きながら、この月を「名残の月」とも言うことを思い出して、作者はいちだんと感傷的な気分にひたされてゆく。夜風は、もう肌寒い。月と埠頭。これだけでも絵になりそうな風景に、名残り惜しいという情のフィルターがかけられているのだから、ますますもって美しい絵に仕上がっている。それもカラフルな絵ではなく、モノクロームだ。鮮かに、目に沁みてくるではないか。十三夜の句として、一見地味ながら出色の出来だと思う。『埠頭まで』(2005)所収。(清水哲男)




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