テ館鼠句

December 29121999

 焼芋や月の叡山如意ヶ岳

                           日野草城

館曹人に「月も路傍芋焼くための石を焼く」がある。夜の食べ物と決まったわけではないけれど、やはり寒い夜に食べてこその焼芋(表記は「焼藷」が望ましい)だ。で、夜となれば「月」。曹人句の月は大きく、草城句のそれは遠望する比叡山にかかった小さな月である。いずれも印象深いが、如意ヶ岳の月は京都の底冷えを言外に語っていて鮮やかだ。手にしたあつあつの焼芋との対比で、いっそうの寒さが伝わってくる。例年この時季になると、京都ならぬ東京も郊外の井の頭公園に、車で昼間やってくる焼芋屋がいる。公園に遊びに来る人目当てなのだろうが、年の瀬の人々はそれどころではないようで、見向きもしない。商売になってるのかなと、余計な心配までしてしまうほどだ。しかも、例の「イーシヤーキィイモーッ」の呼び声は、小学生と思われる女の子の声である。助手席あたりのマイクから呼びかけているようで、姿は見えない。ときどきトチッては、笑ったりしている。最近では子供を前に押し立てる商売を見かけなくなったので、通りかかるたびに気になる。(清水哲男)


December 26122000

 鱒鮓や寒さの戻る星の色

                           古館曹人

鮓(ますずし)は富山の名産と聞くが、本場ものは食べたことがない。いわゆる押し寿司だろうか。冬の鮓の冷たい感触は、冷たさゆえに食欲をそそる。傍らに熱いお茶を置き、冷たさも味のうちとして賞味する。揚句では、さらにサーモン・ピンクの鱒の色が、戻ってきた寒さのなかに明滅する星の色にしみじみと通いあっており、絶品だ。ふと、通夜の情景かもしれないと思った。亡き人を偲ぶとき、私たちは吸い込まれるように空を見上げる。死者が召されるという暗黒の「天」には、星がまたたいている。その星のまたたきが、生き残った者たちの慰めとなる。まったく見当外れの読みかもしれないが、いまの私には、むしろこう読んだほうが、しっくりくる。今夜、詩人仲間の加藤温子さんのお通夜(於・カトリック吉祥寺教会)がとりおこなわれる。明日の葬儀ミサには行けないので、今夜でお別れだ。二十年に近いおつきあいだった。きっと星はまたたいてくれ、私はきっと見上げるだろう。温子さん、いつものジーパン姿で会いに行くからね。『樹下石上』所収。(清水哲男)




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