2000N3句

March 0132000

 芽柳や傘さし上げてすれ違ふ

                           満田春日

が浅緑の芽を吹き始めた。毎年のことではあるが、春待つ心には嬉しいもの。降っている雨も、心なしかやわらかく感じられる。だから、混雑している道路でいちいち「傘さしあげてすれ違ふ」のも、冬場とは違い、むしろ楽しい気分なのだ。私などの世代には、ついでに「柳芽を吹くネオンの下で、花を召しませ……」という戦後の流行歌「東京の花売り娘」なども思い出されて、過剰な懐しさに誘われてしまう。「芽柳」の魔力である。もとより、作者はそんなことまで言おうとしているのではない。しかし、何ということもない句のようながら、早春の都会点描として、なかなかの腕前が示されている。掲句は、第一回「俳句界」新人賞の候補作になった「桃色月見草」30句(選考委員の黛まどかが三位に推薦している)のなかの一句だ。他にも「三月やまだ暖かきビスケット」などの佳句があり、淡彩風スケッチの魅力を十分に感じさせてくれている。今後に期待できる人だと思った。さて、はやいもので季は三月。焼き立てのビスケットのように、読者の皆さんにとって、やわらかくも香ばしい月でありますように。「俳句界」(2000年3月号)所載。(清水哲男)


March 0232000

 ミユンヘンの木の芽の頃の雨の写真

                           京極杞陽

なる観光写真というのでもない。京極杞陽は、昭和十年(1935)から一年間、ヨーロッパに遊学している。日本への帰途、たまたま立ち寄ったベルリンで高浜虚子の講演を聞き、翌日開かれた日本人会による虚子歓迎句会にも出席。それが虚子との運命的な出会いとなった。作者はいま、その当時の写真に見入っている。早春のミュンヘンは、まだ日本よりも相当に寒い。しかも、雨が降っている。なつかしく眺めながら、撮影当時には気にもしていなかった雨に濡れた木の芽に視線がいき、そこから街全体のたたずまいや音や香りを思い出している。写された人物や背景の建物よりも、いまとなれば、ついでに写りこんでいる木の芽が、いちばん雄弁にミュンヘンを物語っているということだろう。こういうことは、よくある。記録は、閲覧するときの環境に応じて、いろいろに姿を変える。意味あいを変える。だから、あらゆる記録にはクズなどない。写りがよくないからと、ポイポイ写真を捨ててしまう女性がいるけれど、もったいないかぎりである。『くくたち・下巻』(1977)。(清水哲男)


March 0332000

 われの凭る壁に隣は雛かざる

                           飴山 實

羽打ち枯らした浪人が、長いものを抱くようにして壁に凭(もた)れかかっている。もはや進退きわまったという姿。長屋の壁は薄いので、隣家で雛祭を寿ぐさんざめく笑い声などが聞こえてくる。ホーホケキョ。「もう、春か」。……というような情景では、まったくない(笑)。しかし、こんな情景に通じるような落魄の心持ちが、作者にはあったのだろう。この明暗の対比が、近代的抒情効果を生む仕掛けの正体だ。一方、隣の部屋には、笑いさざめく人たちの間に、こういう年老いた女性も静かに座っている。「来し方や何か怺へし雛の貌」(菅井富佐子)。毎春見慣れてきた雛の顔であるが、こうやってつくづく眺めていると、何か物言いたげなようであり、それを懸命に怺(こら)えているようである。さながら私の人生のように、言いたいことも言わずに、雛もここまで過ごしてきたのか。人形に感情移入できるのは、やはり女性に特有の才質の一つと言うべきだろう。今日飾られている雛人形には、雛の数だけ、それぞれの女性の思いがこもっているのだ。そう思うと、いかに私のごとき暢気な男でも、あらたまった気持ちにさせられる。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


March 0432000

 卒業歌遠嶺のみ見ること止めむ

                           寺山修司

者の生きた年代からすると、戦後もまだ数年というときの卒業式だ。歌っている卒業歌は、どこの学校でも『仰げば尊し』と決まっていた。その一節には「身を立て名を揚げ、やよ励めや」とあり、卒業生の理想的な未来像が指示されている。で、歌いながら「遠嶺のみ見ること止めむ」というのだから、明らかに寺山少年は、このフレーズに反発している。同じころに「たんぽぽは地の糧詩人は不遇でよし」と書いた少年だもの、なんで、旧弊な出世主義的理想像にうなずくことができようか。その意気や、よしである。昔の少年の反骨精神、純情とは大抵このようなかたちをしていた。ただし、実業の世界ではなかったにせよ、青森から東京に出てきた後の寺山修司の仕事ぶりを思うとき、私は複雑な心で掲句を見つめざるを得ない。彼ほどに「身を立て名を揚げ、やよ励めや」と、詩歌や演劇活動に邁進した男も珍しいからだ。この句を作ったときに、既にして彼は、別の意味での立身出世の「遠嶺」のみは、しっかり見ていたのだろうか。でも、そんな意地悪な味方をするのは止めにしよう。この「純情」こそを味わえばよいのだと、一方で私の心はささやきはじめている。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(清水哲男)


March 0532000

 準急のしばらくとまる霞かな

                           原田 暹

急に乗っているのだから、長旅の途中ではない。ちょっとした遠出というところだ。ポイントの切り換えか、後からの急行を追い抜かせるためか、いずれにしても、数分間の停車である。急いでいるわけでもないので、春がすみにつつまれた周辺の風景を、作者はのんびりと楽しんでいる。急行だったら苛々するところを、準急ゆえの、この心のゆとり。車内もガラガラに空いていて、快適な環境だ。こんなときに私などは、どうかすると、このままずうっと停車していてほしいと思うときがある。時間通りに目的地に着くのが、もったいないような……。都会の「通勤快速」だとか「快速電車」だとかは、命名からしてあわただしい感じだけれど、「準急」とはよくも名付けたり。名付けた人は、単に「急行」に準ずる速さだからと散文的に考えたのだろうが、なかなかにポエティックな味がある。同じ作者に「折り返す電車にひとり日永かな」もあって、ローカル線の楽しさがにじみ出ている。「鉄道俳句」(?!)もいろいろあるなかで、地味ながら異色の作品と言ってよいだろう。ああ、どこかへ「準急」で行きたくなってきた。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


March 0632000

 月曜は銀座で飲む日おぼろかな

                           草間時彦

暦を過ぎたあたりの句。当時の作者は講談社版『日本大歳時記』の編集に携わっていたはずなので、定期的な仕事のために、月曜日が東京に出てくる日だったのかもしれない。事情はともかくとしても、「月曜日」に飲むというのが、いかにも年齢的にふさわしい。銀座の夜が、いちばん空いている日。若いサラリーマンたちは、体力温存のためにさっさと家路をたどる曜日だからだ。仕事を終えて、気のおけない友人の待っている銀座の酒房へと向かうときは、気持ちそのものが楽しき春「おぼろ」なのである。ほぼ同時期の「しろがねのやがてむらさき春の暮」は伊豆での作句だが、銀座の夕景だとて、春は「むらさき」に暮れていく。酒飲みならではのワクワクする気分が、よく伝わってくる。酒房での会話は、とくに何を話すというわけでもない。「ああ…」だとか「うん…」だとかと、言葉少なだ。それでも何かが確実に通じ合うのは、積年の友人のありがたさというものである。なんだか、さながらに小津安二郎の映画のなかにいるようではないか。ひるがえって私などは、いまだにあくせくしていて、飲むとなると「金曜日」。人生は、なかなか映画のようには運んでくれない。『夜咄』(1986)所収。(清水哲男)


March 0732000

 花種子を播くは別離の近きゆゑ

                           佐藤鬼房

者は東北の人だから、実際に花の種子を播(ま)くのは、四月に入ってからになるのだろう。年譜によれば、三十代より胆嚢を病み、頻繁に入退院を繰り返している。したがって、句の「別離」には、みずからの死が意識されている。いま播いている種子が発芽して花をつけるころには、もはや生きていないかもしれないという万感の思い。だからこそ、いつくしみの思いをこめて種子を播き、新しい生命を誕生させたいのだというロマンチシズム。かつて詩人の三好豊一郎(故人)が、鬼房の句について、次のように書いたことがある。「俳諧の俳味に遊ぶよりも、俳句という形に自己の人生への感慨を封じこめることで、外界はおのずから作者の心象の詩的イメージとなって描き出される。そういう句が多い」(「俳句」1985年7月号)。掲句もその通りの作品で、現実の「花種子を播く」という外界的行為は、抽象化され心象化されて独特のロマンチシズムへと読者を誘っているのだ。読んだ途端に、同じ東北人だった寺山修司の愛した言葉を思い出した。「もしも世界の終わりが明日であるにしても、私は林檎の種子を蒔くだろう」。『何處へ』(1984)所収。(清水哲男)


March 0832000

 大人だって大きくなりたい春大地

                           星野早苗

直に、おおらかな良い句だと思った。辻征夫(辻貨物船)の「満月や大人になってもついてくる」に似た心持ちの句だ。三つの「大」という字が入っている。もちろん、作者は視覚的な効果を計算している。辻の句とは違い、技巧の力が働いている。このとき「春大地」の「大」に無理があってはならないが、ごく自然にクリアーした感じに仕上がった。ホッ。だから、句の成り立ちからして、掲句は写生句ではありえない。頭の中の世界だ。その世界を、いかに外側の世界のように出して見せるのか。そのあたりの手品の巧拙が勝負の句で、「船団の会」(坪内稔典代表)メンバーの、とくに女性たちの得意とする分野と言ってよいだろう。が、このような句作姿勢には常に危険が伴うのだと思う。技巧と見せない技巧を使うことに執心するがために、中身がおろそかになる危険性がある。「おろそか」は、技巧の果てに作者も予期しない別世界が出現したときに、「これはこれで面白いね」と自己納得してしまう姿勢に属する。俳句は短い詩型だから、この種の危険性は、なにも「船団俳句」に特有のことではないのだけれど、最近「船団」の人の句をたくさん読んでいるなかで、ふと思ったことではある。『空のさえずる』(2000)所収。(清水哲男)


March 0932000

 春宵や食事のあとの消化剤

                           波多野爽波

つかくの春宵なるに、色気なきこと甚だしき振るまいなり。されど、かくまでの色気なき振るまいを材に、かくまでに妙な色気を点じ得たる爽波は、さながらに達人とも名人とも言うべけんや。なあんて、擬古文(?!)は難しいものですね。春宵の少しぼおっとしたような感覚が、よく伝わってきます。よほど、胃の弱い人だったのでしょうか。胃弱の文学者といえば、有名なのは漱石でしょう。しきりにタカジヤスターゼ(高峰譲吉がコウジカビから創製した酵素剤の商品名)を飲んでいた様子が、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の描写にうかがわれます。「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。そのくせに大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二、三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。……」。先生の胃弱は終章にいたるまで言及されており、よほど漱石がこの持病に苦しめられていたことがわかります。ここでもう一度掲句に返ってみると、味わいはずいぶんと変わったものに感じられますね。爽波と漱石とは、もちろん何の関係もありません。春宵の過ごし方といっても、当たり前ながら人さまざまで、誰もがうっとりとしているわけではないのだと、作者はいささか不機嫌なのでしょう。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


March 1032000

 天が下に春いくたびを洗ふ箸

                           沼尻巳津子

の訪れは、もちろん水の温んできた感触から知れるのだ。悠久の自然の摂理にしたがって、また春がめぐってきた。「天が下に」ちんまりと暮らしている人間にも、大自然の恩寵がとどけられた。そんな大きい時空間の移り行きのなかで、私は「いくたび」の春を迎えてきただろうか。小さな水仕事をしながら、ふと感慨が頭をよぎった。人の営みは小さいけれど、ここで作者はその小ささをこそ愛しているのだ。台所はしばしば俳句の題材に採り上げられるが、「天が下に」と大きく張って「洗ふ箸」と小さく収めたところが、作者の手柄である。水仕事だけではなくて、人間のすべてのちんまりとした営みを「天が下に」置いてみるという気持ちなのだろう。同じ作者の句に「一斉にもの食む春の夕まぐれ」の佳句があって、ここでも「天が下に」が意識されている。「全体」から「個」へ、はたまた「個」から「全体」へと。そうしたスケールの、絶妙な出し入れの才に秀でた俳人だと思う。『背守紋』(1988)所収。(清水哲男)


March 1132000

 落第も二度目は慣れてカレーそば

                           小沢信男

語は「落第」で春。変な季語もあったものだが、学校の社会的位置づけが高かった時代の産物だ。いうところの「キャリア」を生み出すためのシステムだけに、逆に落伍者も大いに注目されたというわけである。落第した当人は、一度目はがっかりしてショボンとなるが、二度目ともなるとあきらめの境地に入り、暢気にカレーそばなんかを食っている。それでも、ザルそばなんかじゃなく、少しおごってカレーそばというあたりが、いじらしい。自分で自分を慰めているのだし、甘やかしてもいるからだ。私も、大学で二度落第した。一度目は絶対的な出席日数不足。二度目は甘く見て、田中美知太郎の「哲学概論」を落としたのが響いた。句の通りに、二度目でも確かに「慣れ」の気分になるものだ。学費を出してくれている父親の顔はちらりと思い出したが、深く落ち込むことはなかった。同病相哀れむ。同じ身空の友人たちと酒を飲みながら、「このまま駄目になっていくのかなあ」とぼんやりしていた。後に大学教授になる友人に「おまえらは怠惰なんや」と言われても、一向にコタえなかった。落第生には、優等生が逆立ちしてもわかりっこない美学のようなものが、なんとなくあるような気すらしていたのだ。石塚友二に「笛吹いて落第坊主暇あり」がある。「暇」は「いとま」。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


March 1232000

 猪が来て空気を食べる春の峠

                           金子兜太

(いのしし・句では「しし」と読ませている)というと、とくに昔の農家には天敵だった。夜間、こいつらに荒らされた山畑の無残な姿を、私も何度も見たことがある。農作物を食い荒らすだけではなく、土を掘り返して野ネズミやミミズなどを食うのだから、一晩にして畑はめちゃくちゃになってしまう。俳句で「猪」は秋の季語だが、もちろんそれはこうした彼らの悪行(?!)の頻発する季節にちなんだものだ。猪や鹿を撃退するために「鹿火屋(かびや)」と言って、夜通し火を焚いて寝ずの番をする小屋を設ける地方もあったようだが、零細な村の農家にはそんな人的経済的な余裕はなかった。せいぜいが、猟銃を持っているときに出くわしたら、それで仕留めるのが精いっぱい。仕留められた猪も何度も見たけれど、いつ見ても、とても可愛い顔をしているなという印象だった。日本種ではないようだが、いま近くの「東京都井の頭自然文化園」で飼われている猪族も、実に愛嬌のある顔や姿をしている。まともに見つめると、とても憎む気にはなれないキャラクターなのだ。だから、この句の猪の可愛らしさも素直に受け取れる。ましてや「春の空気」しか食べていないのだもの、私もいっしよになって口を開けたくなってくる……。『遊牧集』(1981)所収。(清水哲男)


March 1332000

 春不況マンガと日経を読む若さ

                           福住 茂

況は、もとより季節などには関係はない。が、句の「春不況」の「春」には意味がある。おりしも春闘の時期だからだ。同じ作者に「十五夜の光る鉄路を点検す」があるので、鉄道労働者だと知れる。昔は基幹産業の担い手として、鉄道労組の春闘は注目の的だった。実力行使ともなれば、電車が止まってしまうのだから、この時期には新聞などでも闘争の予測や思惑が華々しくとびかったものである。それが最近では、不況のせいで、まったく沈静化してしまった。鉄道に労組なんてあるのか、そんな感じにまでなってきた。先の日比谷線事故でも、労組の見解やアピールは何も聞こえてこない。危険と向き合いながら現場で働く人々の声こそ、利用者は聞きたいのに……。かつての激しい春闘時代を知る作者は、この季節にのほほんと漫画を読み、他人事のように「日本経済新聞」を読む若者たちに、半ば呆れ、半ば感嘆している。たしかに、時代は変わってしまった。しかし、この変わりようで本当によいのだろうか。句は、そういうことを言いたいのだ。現代俳句協会編『現代俳句年鑑2000』(1999)所載。(清水哲男)


March 1432000

 卒業式辞雪ちらつけり今やめり

                           森田 峠

の女生徒の絵について、北国の読者からメールをいただきました。「当地では、卒業式と桜の花の色はあまり結びつきません。きのうも、とても『春の雪』とはいえぬ積雪がありました」。そういえば、そうですね。東京あたりでも、中学の卒業式のころに絵のような桜が咲く(高校だと三月初旬の式が多いので、桜とは無縁)のは、十年に一度くらいでしょうか。北国のみなさんは、卒業と雪とがむすびつくのは普通のことでしょう。ところで、作者は作句当時、尼崎市立尼崎高校の国語科の先生でした。関西です。彼の地の三月の雪は珍しく、式辞の間にも季節外れの雪が気になって、ちらちらと窓の外を見やっているという情景。先生としては、卒業式は毎春の決まりきった行事ですから、熱心に式辞に聞き入るというようなこともないわけです。そんな気分の延長されてできたような句が「卒業子ならびて泣くに教師笑む」。もとより慈顔をもっての微笑でしょうが、卒業に対する教師の思いと生徒のそれとは、どこかで微妙に食い違っている……。教師になったことがないのでわかりませんが、そんなふうに読めてしまいました。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


March 1532000

 瓦せんべい風をまくらにねむる町

                           穴井 太

季の句だが、風の強い春先ないしは野分けの季節を思わせる。「瓦せんべい」の名産地なのだろうが、私には見当がつかない。。町並みもまた瓦(屋根)のつづく古い土地で、風の強い夜には、人っ子ひとり歩いていない。町の人は、みんなもう眠ってしまっているかのようである。ごうごうと吹きすぎる風の音のみで、町は風をまくらに寝ているという感じがしてくるのだ。真っ暗な工場の倉庫では、ひりひりと瓦せんべいが乾いていることだろう。旅にしあれば、こんなことを思うことがある。ところで、余談。瓦せんべいは小麦粉で作りますが、有名な「草加せんべい」などは米粉製ですね。小麦粉せんべいのほうが、ずっと歴史は古く、源は遠く中国に発しているのだそうです。小麦粉製であれ米粉製であれ、せんべいは好物でしたが、どうも最近はいけません。職場でのおやつに出たりすると、小さく割ってから口に入れることにしています。若いころは、ビールの栓だって歯で抜けたのに……。「もう、あかんなア」という心持ちにならざるをえません。『天籟雑唱』(1983)所収。(清水哲男)


March 1632000

 水温む赤子に話しかけられて

                           岸田稚魚

魚、最晩年(享年は七十歳だった)の句。「赤子」は身内の孫などではなく、偶然に出会った他家の赤ちゃんと解したい。少年時代から壮年期にいたるくらいまで、とりわけて男は、こうした場面には弱いものだ。たまたま電車やバスのなかで、乗りあわせた赤ちゃんと目があったりすることがある。オンブやダッコをしている母親はあっちの方を向いているので、赤ちゃんはこっちの方に関心を抱くのだろう。ときに声をあげて、なにやら挨拶(?)してくれるのだが、当方としては大いにうろたえるだけで、とても返答することなどできはしない。といって、むげに目をそらすわけにもいかないので、曖昧な笑いを浮かべたりするだけ。なんとも、情けない気分。しかし妙なもので、五十歳にかかったあたりから、だんだんと小声ながらも、そんな赤ちゃんに応接ができるようになってくる。応接していると、むしろ嬉しくなってくるのだ。いまは、このことの心身的な解釈はしないでおくが、句の眼目は自然の「水温む」よりも、作者自身の「気持ちの水」が「温む」ことで「春」を感じているところにある。遺句集『紅葉山』(1989)所収。(清水哲男)


March 1732000

 鶏追ふやととととととと昔の日

                           摂津幸彦

面的にも面白い句だが、写生句でもある。戦後しばらくの間は、競うようにして鶏を飼ったものだ。少しでも、栄養不良を解消しようと願ってのこと。だから「昔の日」なのである。夜の間は鶏舎に収容しておいて、朝方に卵を生ませる。昼間は運動を兼ねてそこらへんの物を食べさせようというわけで、放し飼いにした。あのころは、表のどこにでも鶏がいた。まだ「バタリー方式」だなんて酷薄な飼い方も、一般には知られてなかった(私は百姓の息子だったので、雑誌「養鶏の友」で知ってましたけどね、エヘン)。「とととととと」は、そんな鶏たちの走り回る様子の形容であると同時に、夕刻に彼らを鶏舎に追い込むときの「とぉとぉとぉ……」という掛け声だ。なぜ「とぉとぉとぉ、ととととと」と言って追ったのか、その謂れは知らない。馬に止まれと命令するときに使う「ドウドウ」にしてもそうだが、誰か動物との対話に長けた先達の発明語なのではあるだろう。我が家は三十羽ほど飼っていたので、夕刻に何度「とぉとぉとぉ」を連呼したことか。鶏舎に追い込むのは、子供の仕事だった。ちょっと哀愁を帯びたトーンのこの掛け声を、京都の詩人・有馬敲さんが自演して、フォーク全盛時代にレコード化したことがあり、いまでも思い出して聞くことがある。過ぎ去ればすべて懐しい日々……。と、これは亡くなった岡山の詩人・永瀬清子さんの著書のタイトルである。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)


March 1832000

 法隆寺からの小溝か芹の花

                           飴山 實

者の飴山實さんが、一昨日(2000年3月16日)山口で亡くなった、享年七十三歳。面識はなかったが、学生時代に第一句集『おりいぶ』(1959)という、およそ句集らしからぬタイトルに魅かれたこともあって愛読した俳人だ。当時の飴山實は「女工等に桜昏れだす寒い土堤」などの社会性のある抒情句を得意としていて、影響で私も同じような詩の世界を志向した。私のはじめての詩集『喝采』(1963)にはその痕跡が拭いがたく歴然としており、詩人の中江俊夫さんに「どっちつかずで中途半端」と評されたのも、いまは懐しい思い出である。その後の飴山さんは見られるとおりの句境を得られ、独自の地歩を築かれた。句の舞台は、早春のいかるがの里。法隆寺を少し離れた道端の小溝に可憐な芹の花が咲いているのを見つけ、流れる清冽な水が法隆寺に発しているかと思い、そこに悠久の時間を感じている。千年の昔にも、いまと変わらぬ光景があったのだ、と。飴山さんは「酢酸菌の生化学的研究」で、日本農芸化学会功績賞を受けた学者でもあった。合掌。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


March 1932000

 枕頭に陽炎せまる黒田武士

                           高山れおな

田武士は、言うまでもなく「酒は飲め飲め……」の「黒田節」に出てくる福岡は黒田藩の豪傑だ。歌われているのは、母里 (もり)太兵衛なる人物。大杯になみなみと注がれた酒を一気に飲み干したことから、小田原攻めの功績で福島正則が秀吉から拝領した名槍を褒美にもらったという、イッキ飲みの元祖である。若年のころの私は、「日の本一のこの槍を、飲み取るほどに」とは変な歌詞だなと思っていた。槍が飲めるのか、比喩にしても無理がある、と。でも、何のことはない。「飲んで、(その結果として)取る」という意味だったのだ。句は「飲み取った」あとの太兵衛の様子を詠んでいる。この着眼が面白い。さすがの酒豪もマイってしまって、明るくなっても起きられずにグーグー眠っている。既にして日は高く、何やらもやもやと怪しいゆらめき(陽炎)が、太兵衛の枕頭に迫っているではないか。素面(しらふ)であればすぐさま跳ね起きるところだが、ただならぬ気配を察知することもなく、いぎたなく眠りこけている黒田武士……。春ですなあ、という感興だ。ちなみに「黒田節」が全国的に有名になったのは、 1943 年に赤坂小梅がレコードに吹き込んでから。雅楽「越天楽(えてんらく)」の旋律が使われている。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


March 2032000

 春一番来し顔なればまとまらず

                           伊藤白潮

春以降はじめて吹く強い南風が「春一番」。元来は、壱岐の漁師の言葉だったという。吹く風の勢いや方角に、並外れた神経を使って生活している人たちも、たくさんいるのだ。それが「春一番」ともなると、とてもキャンディーズの歌のように暢気にはなれない暮らし……。句の「まとまらず」は卓抜な表現だ。思わず、膝を打った。「ひどい風ですねえ」と入ってきた人。強い風のなかを歩いてきたので、髪は大いに乱れ、しかめっ面にして吐く息もいささか荒い。コンタクトを使っている人だったら、おまけに涙さえ流しているだろう。そんな人の顔つきを一瞬のうちに「まとまらず」と活写して、句が見事に「まとまっ」た。なるほど、人間の顔は時にまとまっていたり、まとまっていなかったりする。江戸っ子風に言うと「うめえもんだ」の一語に尽きる。こういう句に突き当たることがあるから、俳句読みは止められない。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


March 2132000

 春の蛇座敷のなかはわらひあふ

                           飯島晴子

まえられているのは「蛇穴を出づ」という春の季語(当歳時記では、ここに分類)だ。冬眠していた蛇が、穴から這い出してくることを言う。したがって、この蛇はひさしぶりの世間におどおどしている。ぼおっともしている。そこへ、座敷のほうからにぎやかな笑い声が聞こえてきた。笑い声が聞こえてきた段階で、蛇は作者自身と入れ替わる。途端に、すうっと胸の中に立ち上がってくる寂寥感。人がはじめて寂しさを覚えるときの、あの仲間外れにされたような、誰もかまってくれないような孤独感を詠んでいるのだ。実存主義とは何かという問いに答えて、ある人が「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、みんな私のせいなのよ」みたいな思想だと言ったことがある。句の気分は、その類の揶揄を排した実存主義の心理的感覚的な解剖のようにも、私には写ってくる。蛇が大嫌いな人でも、句の世界はしみじみと納得できるだろう。この季語には、美柑みつはるに「蛇穴を出て野に光るもの揃ふ」、松村蒼石に「蛇穴を出づ古里に知己少し」などの多くの佳句もあるが、蛇と作者がすうっと入れ替わる掲句の斬新な発想には、失礼ながらかなわないと思う。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


March 2232000

 連翹の奥や碁を打つ石の音

                           夏目漱石

には黄色い花が多い。連翹(れんぎょう)もその一つだ。渡辺桂子に「連翹の何も語らず黄より葉へ」とあるように、早春、葉の出る前に鮮黄色の四弁花をびっしりと咲かせる。これから咲きはじめる地方もあるだろう。句景は、まことに長閑。通りかかった連翹の咲く家のなかから、パチリパチリと石を置く音がしている。暖かいので、縁側で打っているのかもしれない。この句を読んで、母方の祖父を思い出した。リタイアした後は、毎日のように碁敵の家にいそいそと出かけていた。そんなに面白いものなら教えて欲しいと頼んでみたら、「学生はこんなもの覚えるもんじゃない」とニベもなかった。「時間ばかりかかって、勉強の邪魔になる」というのが、彼の拒絶理由であった。そこで私はひそかに入門書を買ってきて、なんとか置き方を覚えたところで、悪友と一戦まじえてみることにした。二人ともド素人だから、いま思い出しても悲惨な戦いだった。要するに、力の限りのねじり倒しっこ。加えて私は短気なので、辛抱ということを知らない。まるで碁にならないのである。性に合わないと間もなく悟り、すっぱり止めてから四十年。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


March 2332000

 春の月水の音して上りけり

                           正木ゆう子

か、あるいは大きな河の畔での情景だろう。水に姿を写しながら、ゆっくりと上るおぼろにかすむ月。周辺より聞こえてくる水の音は、さながら月が上っていくときにたてている音のようである。掲句を写生句と見れば、このような解釈も成り立つが、しかし、作者はむしろ幻想に近い作品と読んで欲しいのではあるまいか。句の姿勢からして難しい言葉を使っていないし、できるだけ俗世界に通じる具象を排除したがっているように思えるからだ。すなわち、ここでは本当にかすかな水音をたてながら、月が上っているのだと……。だから、月がおぼろに見えるのは、水に濡れているせいなのだ。無数の水滴をまとっている月だからなのである。それにしても、水の音をさせながら上ってくる月とは、なんという美しい発見にして発想なのだろう。もってまわった表現をすることもなく、ここまで大きな幻想世界を描き出した作者に脱帽したい。これからの俳句での抒情の地平が、まだ大きく広がっていく可能性のあることを、雄弁に示唆している句だとも言える。一読感心。「俳句研究」(2000年2月号)所載。(清水哲男)


March 2432000

 蒲公英のかたさや海の日も一輪

                           中村草田男

吠埼での連作「岩の濤、砂の濤」のうち。蒲公英(たんぽぽ)はもとより春の季語だが、他の句から推して春というよりも冬季の作品だ。一句目には「燈臺の冬ことごとく根なし雲」とある。一輪の蒲公英が、怒濤の海を真向かいに、地に張りつき身をちぢめるようにして咲いている。たしかに蒲公英は、それでなくとも「かたい」印象を受ける花であるが、寒さゆえに一層「かたく」見えている。生命力の強い花だ。そして曇天の空を見上げれば、そこにも「かたく」寒々とした太陽が、雲を透かして「一輪」咲くようにして浮かんでいる……。この天と地の花の照応が読みどころだ。読むだけで、読者の身もちぢこまってくるようではないか。この句を評して山本健吉は「古今のたんぽぽの句中の白眉である」と絶賛しているが、同感だ。常々「二百年は生きたい」と言っていた草田男ならではの、これは大きく張った自然観・人生観の所産である。かつて神田秀夫は、草田男を「天真の自然人」と言った。『火の島』(1939)所収。(清水哲男)


March 2532000

 深山に蕨採りつつ滅びるか

                           鈴木六林男

い山の奥。こんなところまでは、さすがに誰も蕨(わらび)など採りには来ない。人気(ひとけ)のないそんな山奥で蕨を摘んでいるうちに、ふと「俺はこのままでよいのか」という気持ちが、頭をよぎった。希望も野望も、何一つ成就できないままに、自分は亡びてしまうのではないか。やわらかくて明るい春の日差しの中で、作者はしばし落莫たる思いにふけることになった。「蕨狩」という季語もあって、これは「桜狩」「潮干狩」のように行楽の意味合いを持つが、この場合は行楽ではないだろう。食料難を補うため、生活のために、作者は蕨を摘んでいるのだ。だから、深山にまで入り込んでいる。大人も子供も、生活のために蕨を摘みに出かけた敗戦直後の体験を持つ私などには、とりわけてよくわかる句だ。子供の私に「亡びる」意識はなかったものの、「こんなところで何をやってんだろう」という気持ちには、何度も囚われた。篭にどっさり採って帰ったつもりが、いざ茹でてみると、情けないほどに量が減ってしまう。あのときの徒労感、消耗感も忘れられない。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 2632000

 葛飾や桃の籬も水田べり

                           水原秋桜子

は「まがき」で、垣根のこと。現代の東京都葛飾(かつしか)区というと、私などには工場のたくさんある地帯というイメージが強い。が、句の葛飾は、江戸期以来の隅田川より東の地域全般の地を指している。近代に入ってから、東京、千葉、埼玉に三分割された。昔の東京の小中学校からは遠足の地として絶好だったらしく、少年時の作者も何度か遠足で訪れた土地だという。そのときから作者は葛飾の風景に魅かれ、吟行でも再三訪れており、この地に材をとった句をたくさん作っている。なかでもこの句は、さながら絵に画いたように美しさだ。いや、こうなるともう俳句ではなくて、一枚の風景画だと言ったほうがふさわしい気すらしてくる。葛飾句についての秋桜子のコメントが残っている。「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」。胸の内で長い間あたためられてきた葛飾のイメージは、夾雑物がすべて削がれて、かくのごとく桃の花のように見事に開いたのであった。『葛飾』(1930)所収。(清水哲男)


March 2732000

 たんぽぽのサラダの話野の話

                           高野素十

んぽぽが食べられるとは、知らなかった。作者も同様で、「たんぽぽのサラダの話」に身を乗り出している。「アクが強そうだけど」なんて質問をしたりしている。そこから話は発展して野の植物全般に及び、「アレも食べられるんじゃないか、食べたくはないけれど」など、話に花が咲き、楽しい話は尽きそうにもない。この句は、いつか紹介したことのあるPR誌「味の味」(2000年4月号)の余白ページで見つけた。いつものことながら、この雑誌の選句センスは群を抜いていて、読まずにはいられない。偶然だろうが、これまた楽しみにしている詩のページに、坂田寛夫のたんぽぽの詩「おそまつさま」が出ていた。全文引用しておく(/は改行)。「ストローをくわえるかっこうで/すこしずつ/ウサギの子がたんぽぽを/茎の方から呑みこんでゆく/しまいに花びらが小さい口のふたをした/いいにおいをうっとり楽しむかと思ったら/ひと思いに食べちゃった/「おいしかった」/ため息まで聞こえたような気がしたから/たんぽぽもさりげなく/「おそまつさま」/と答えたかったが/ぎざぎざに噛みひしがれて目がまわり/先の方はもう暗い胃散にこなれかけている」。今日は「味の味」におんぶにだっこ、でした。(清水哲男)


March 2832000

 マダムX美しく病む春の風邪

                           高柳重信

きつけの酒場の「マダム」だろう。春の風邪は、いつまでもぐずぐずと治らない。「治らないねえ。風邪は万病の元と言うから、気をつけたほうがいいよ」。などと、客である作者は気をつかいながらも、少しやつれたマダムも美しいものだなと満足している。「マダムX」の「X」が謎めいており、いっそう読者の想像力をかき立てる。泰平楽な春の宵なのだ。ご存知のように「マダム(madame)」はフランス語。この国の知識人たちが、猫も杓子もフランスに憧れた時代があり、そのころに発した流行語である。しかし、最近では酒場の女主人のことを「ママ」と呼ぶのが一般的で、「マダム」はいつしかすたれてしまった。貴婦人の意味もある「マダム」を使うには、いささかそぐわない女主人が増えてきたせいだろうか。たまに年配者が「マダム」と話しかけていると、なにやらこそばゆい感じを受けてしまう。「マダム」という言葉はまだ長持ちしたほうなのだろうが、流行語の命ははかない。それにしても現在の「ママ」とは、どういうつもりで誰が言いだしたのか。戦後に進駐してきたアメリカ兵の影響だろうか。私も使うけれど、なんだか母親コンプレックス丸だしの甘えん坊みたいな気もして、後でシラフになってから顔が赤くなったりする。『俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


March 2932000

 下萌にねじ伏せられてゐる子かな

                           星野立子

の子の喧嘩だ。取っ組み合いだ。「下萌(したもえ)」というのだから、草の芽は吹き出て間もないころである。まだ、あちこちに土が露出している原っぱ。取っ組み合っている子供たちは、泥だらけだ。泥は、無念にも「ねじ伏せられてゐる」子の顔や髪にも、べたべたに貼りついているのだろう。それだけの理由からではないが、どうしても「ねじ伏せられてゐる」子に、目がいくのが人情というもの。通りかかった作者は「あらまあ、もう止めなさいよ」と呼びかけはしたろうが、その顔は微笑を含んでいたにちがいない。元気な子供たちと下萌の美しい勢いが、春の訪れを告げている。取っ組み合いなど、どこにでも見られた時代(ちなみに句は1937年の作)ならではの作品だ。句をじっと眺めていると、この場合には「ゐる」の「ゐ」の文字が実に効果的なこともわかる。子供たちは、まさに「ゐ」の字になっている。これが「い」では、淡泊すぎて物足りない。旧かなの手柄だ。私も「ねじ伏せられたり」「ねじ伏せたり」と、短気も手伝って喧嘩が絶えない子供だった。去年の闘魂や、いま何処。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


March 3032000

 検眼のコの字ロの字や鳥雲に

                           林 朋子

に帰っていく鳥たちは雲に入るように見えることから、春の季語「鳥雲に(入る)」ができた。「鳥帰る」の比喩的な表現。一所懸命に「コの字」や「ロの字」を見つめていた作者が、検眼を終えて窓外の空に目をやると、いましもはるかな雲のなかに鳥たちが入っていく姿が見えた。近距離の検眼表からかなたの鳥たちへと、無理なく視線が移動している。意表をついた発想とも言えるが、視線の動きはあくまでも自然であり、なめらかだ。ここが、句のポイント。次に、検眼記号をカタカナに見立てたところを子供の発想として読むと、句は追想句となる。言外にこめられた子供時代の甘酸っぱい思い出……。私はそのように読んで、これが抒情性を増幅させる肝心なポイントだと思った。余談になるが、私は子供のころに目がよすぎて、検眼の時はかえって恥ずかしかった。2.0あたりはわざと間違えて、常に1.5でとどめることにしていた。そんなふうだったので、戦国時代に生まれていたら、高い木にでものぼって「見張り」が勤まるから楽だったろうなと、暢気なことを考えていたっけ。四十代まで、目の不自由を感じたことはなかった。いまは罰が当たったけど。これでは、目の句は作れない。作者の視力は健常なのか、それとも……。『森の晩餐』(1994)所収。(清水哲男)


March 3132000

 世の中は三日見ぬ間に桜かな

                           大島蓼太

の「世の中」は、自然的環境を指している。戸外、周囲の意味。「あな寒といふ声、ここかしこに聞ゆ。風さへはやし。世の中いとあはれなり」(『蜻蛉日記』下)の用法だ。句意は説明の必要もあるまいが、桜の開花のはやさを言ったもの。たしかに、咲きはじめると、すぐに満開になってしまう。散るのも、またはやい。ところで、この句を諺か警句みたいな意味で覚えている人がいる。いや、そう覚えている人のほうが多いかもしれない。「世の中」を社会的環境ととらえ、桜花の咲き散るようなはやさで、社会は変化するものだという具合に……。落語のマクラにも、その意味でよく使われる。ただし、こういうふうに覚えている人は、たいてい原句を間違ってそらんじているのが普通のようだ。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」ではなく「世の中は三日見ぬ間桜かな」と、助詞を勝手に入れ替えている。「に」と「の」の入れ替え。なるほど、これでは警句に読めてしまう。無理もないか。たった一文字の違いによる、この激しい落差。地下の作者は泣いているだろう。蓼太(りょうた)は、18世紀の江戸に住んだ俳人。信州出身とも伝えられるが、出自は明らかでない。『蓼太句集』所収。(清水哲男)




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