ct句

March 0132000

 芽柳や傘さし上げてすれ違ふ

                           満田春日

が浅緑の芽を吹き始めた。毎年のことではあるが、春待つ心には嬉しいもの。降っている雨も、心なしかやわらかく感じられる。だから、混雑している道路でいちいち「傘さしあげてすれ違ふ」のも、冬場とは違い、むしろ楽しい気分なのだ。私などの世代には、ついでに「柳芽を吹くネオンの下で、花を召しませ……」という戦後の流行歌「東京の花売り娘」なども思い出されて、過剰な懐しさに誘われてしまう。「芽柳」の魔力である。もとより、作者はそんなことまで言おうとしているのではない。しかし、何ということもない句のようながら、早春の都会点描として、なかなかの腕前が示されている。掲句は、第一回「俳句界」新人賞の候補作になった「桃色月見草」30句(選考委員の黛まどかが三位に推薦している)のなかの一句だ。他にも「三月やまだ暖かきビスケット」などの佳句があり、淡彩風スケッチの魅力を十分に感じさせてくれている。今後に期待できる人だと思った。さて、はやいもので季は三月。焼き立てのビスケットのように、読者の皆さんにとって、やわらかくも香ばしい月でありますように。「俳句界」(2000年3月号)所載。(清水哲男)


July 1572005

 椎の花降つて轍の深きかな

                           満田春日

語は「椎の花」で夏。もう花期は過ぎたかな。子供の頃、近所に椎の大木があった。夏は蝉取りの宝庫であり、秋には落ちてくる実を食べたものだが、花なんぞには関心がなかったので、つぶさに観察したことはない。ただなんとなく、淡黄色の花がわあっと固まって咲いていたような記憶が……。ただし、この花に「散る」という言葉が似合わないことだけはわかる。ちらほらと散るのではなくて、高いところから長い穂ごと落ちてくるからだ。調べてみると、これは雄花なんだそうだが、とにかく椎の花それ自体は強烈な匂いとあいまって、およそリリカルな情趣には遠い花だ。したがって、句の散文的な「降つて」の言い方は極めて妥当、降った花穂が「轍(わだち)」に嵌り込んでいて、そのことからあらためて轍の深さを思ったのも妥当な心の動きである。他の植物の花びらだと、よほど散り敷いている場合は別として、なかなか轍の深さにまでは思いが及ぶまい。やはり花びらとは言い難いボリューム感のある椎の花穂だから、落ちている量は少なくても、轍とその深さが鮮やかに思われたのだ。鬱蒼たる夏木立には、少し湿り気を帯びた風が吹いているのだろう。最近の道はどこもかしこも舗装されてしまい、轍を見かけることも少なくなってしまった。その意味でも、私には懐かしい土の匂いがしてくるような一句であった。『雪月』(2005)所収。(清水哲男)


September 1792005

 掛稲のむかうがはから戻らぬ子

                           満田春日

語は「掛稲(かけいね)」で秋、「稲架(はざ)」に分類。乾燥させるために稲架に掛けわたしてある、刈り取った稲群のこと。この季節の、昔なつかしい田園風景だ。たいていは一段に干すが、地方によっては段数の多いものもある。ちょこまかと走り回って遊んでいた「子」が、不意に掛稲の向こう側に行ってしまった。よくあることで、こちら側からはどこまで行ったのかが隠れて見えない。とくに心配することもないので、しばらく戻ってくるのを待っていたが、なかなか姿を現してくれない。「おや、どうしたのかな」と、少し不安になってきた図だろうか。これもまた親心というもので、他人からは「まさか永遠に帰ってこないわけではあるまいし」と、笑い飛ばされるのがオチだろう。ただ私は、作者の本意に適うかどうかは別にして、句には「永遠に戻らない子」が含意されているように思われた。すなわち、たいがいの親子の別れというものは、親の側に立てば,このようにやってくるのが普通だろうと……。さっきまでそこらへんで遊んでいたようなものである子が、たとえば進学や就職、結婚などのために親元を離れていく。親としては、はじめは稲架の向こう側に行ったくらいの軽い気持ちでいるのだけれど、以後はついに共に暮らすこともなく終わるケースは多い。私自身も子として、大学進学以来、一度も親と同居することはなかった。『雪月』(2005)所収。(清水哲男)


July 3172015

 老鶯の声つやつやと畑仕事

                           満田春日

の鳴き声は秋のジジッジジッの地鳴きに始まって冬のチャッチャッの笹鳴き、ホーホケキョウの春の囀り、夏の老鶯の鳴き盛りと四季を彩ってゆく。秋冬に山にいたものも、春には公園や庭の藪中や川原のヨシやススキの原などに移ってくるが、鳴き声は聞こえても姿はなかなか確認できない。一説には鶯にも方言があって地方地方での鳴き方には差があるらしい。繁殖相手に競争が少ない地方ではのんびりと鳴き、競争の激しい所では激しく鳴くとも言われている。一般にホーホケキョウは「法、法華経」と聞きなされている。今畑打つ傍らで鳴く鶯の声は恋の一仕事を終えた余裕なのかつやつやと聞こえる。あるいは熟練した人間国宝の様な鳴き技かも知れぬ。夏の萬物の盛るころ、命に懸命に向かうのは鳴きしきる老鶯も畑打つ人間もおなしである。他に<からませし腕の記憶も青葉どき><乳母車上ぐる階段アマリリス><短夜の書架に学研星図鑑>など掲載。俳誌「はるもにあ」(2014年8月号)所載。(藤嶋 務)




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