O句

April 2342000

 揚げ物の音が窓洩れ春夕焼

                           三村純也

に「夕焼」といえば、夏の季語。もちろん一年中「夕焼」は現れるが、季節ごとにおもむきは異る。「春の夕焼」はいかにもやわらかく、夏近しを思わせる光りを含んでいて心地よい。そんな夕焼け空の下で、近所の家から揚げ物をする音が聞こえてくる。暖かいので、窓も細目に開けられているのだろう。だとすれば、美味しそうな匂いも漂ってきている。生活の音にもいろいろあるが、台所からのそれは、とりわけて人の心をほっとさせる。食事の用意には、家族の健康と平和が前提になるからだ。べつに何ということもない句ではあるけれど、この句もまた、揚げ物の音のように読者をほっとさせてくれる。このようにほっとさせてくれる句を、無条件に私は支持したい。他の文芸では、なかなか得られぬ感興だからである。作ろうとしてみるとわかるが、意外にこういう句はできないものである。凡句や駄句と紙一重のところで、ほっとさせる句はからくも成立しているとがよくわかる。いうところの無技巧の技巧が要求される。下手を恐れぬ「勇気」が必要となる。だから、難しい。「俳句文芸」(2000年4月号)所載。(清水哲男)


February 1422006

 やけに効くバレンタインの日の辛子

                           三村純也

語は「バレンタインの日(バレンタインデー)」。すっかり定着した感のあるバレンタインの日。最初のころにはもぞもぞしていた俳人たちも、やっと最近では自在に扱うようになってきた。掲句も、その一つ。夕食の料理に添えて出された「辛子(からし)」が、普段とは違って「やけに効く」。思わず、妻にそのことを言いかけて止めたのだろう。そういえば、今日は「バレンタインの日」であった。もしかすると、日頃の行状の意趣返しとばかりに、チョコレートの代わりに辛子で何らかのきつい意思表示をされたのかもしれない。咄嗟にそう思ったからだ。いや、でもそんなはずはない。それは当方の思い過ごしというもので、第一,最前から彼女の様子を見ていると,今日が何の日であるかも忘れているようではないか。いや、でも待てよ。そこが、そもそも変だぞ。今日がどういう日かは、朝からテレビでうんざりするほどやっているし、ははあん、やつぱりこの辛子の効きようは尋常じゃない。だとすれば、何を怒っているのか。いったい、このオレに何を気づかせようというのだろうか。いや、それが何であれ、いまいちばん必要なのは冷静になることだ。それには、いつも通りに知らん顔して食べることだ。それにしても、よく効くなあ、この辛子……。などと、たまたまバレンタインの日であったがための取り越し苦労かもしれない「男はつらいよ」篇でした。『俳句手帖2006年春-夏』(富士見書房)所載。(清水哲男)


April 2442012

 春深しひよこに鶏冠兆しつつ

                           三村純也

わとりは庭で手軽に飼うことができる家禽であった。新鮮で栄養豊富な卵が手に入り、フンは飼料となった。にわとりの餌を刻み、水を取り替え、卵を回収するのは子どもの役目だと聞いたのは、清水哲男さんからだったが、昭和40年代のわが家の回りにもまだちらほらと庭でにわとりを飼っている家は存在した。友人の家にひよこが生まれたと聞いて、学校帰りに見に行くと、たんぽぽの絮毛を重ねたような愛らしいひよこがよちよち歩きまわっている。あまりの可愛らしさに毎日のように寄り道するようになったが、一ヶ月もしないうちにすらりと筋肉質の体躯になり、そのうち鶏冠(とさか)が生えてくる。孵ったばかりのひよこの雌雄を見分けることは極めて難しいそうで、そのため「初生雛鑑別師」という国家資格があるそうだが、彼女に家のひよこたちも、雌は残して、雄は引き取ってもらうことになっていた。鶏冠が大きくなれば雄なのだ。晩春のともすれば汗ばむような日差しのなかで、鶏冠がほの見え始めたとき、ひよこ時代は終わりを告げる。おたまじゃくしの足ほど重要ではなく、人間の親知らずほど無用でもない程度に考えていた鶏冠だが、ひよこたちの運命を左右するものかと思えば、その一点の赤が痛々しく切なく胸に迫ってくる。『觀自在』(2011)所収。(土肥あき子)


September 2992012

 月の海箔置くごとく凪ぎにけり

                           三村純也

や遠景、しんと広がる月の海。満ちている一枚の月光の、静かでありながら力を秘めた輝きをじっと見つめている時、箔、の一文字が浮かんできたのだろう。箔の硬質ななめらかさは、塊であった時とは違う光を放っている。句集ではさらに〈一湾に月の変若水(をちみず)凪ぎにけり〉〈月光に憑かれし魚の跳ねにけり〉と続く。変若水、憑、作者と供にだんだん月に魅入られていくような心地である。これを書いている今日、ふくらみかけた月を久しぶりに仰いだ。はじめは雲もないのにどこか潤んでいたが、やがて秋の月らしく澄んできた十日月だった。週末の天気予報はあまり芳しくない様子、投げ入れた芒を見ながら月を待っているが、果たして。『蜃気楼』(1998)所収。(今井肖子)




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