ヤ谷g句

May 1752000

 女知り青蘆原に身を沈む

                           車谷長吉

書に「播州飾磨川」とある。作者の故郷の川だ。俳句ではなかなかお目にかかれない題材だが、小説家の作者にしてみれば「イロハ」の「イ」の字くらいのテーマだろう。生い茂る蘆の原に身を沈めたのは、気恥ずかしい気持ちからではない。異性を知るとは人生の一大事であり、その一大事を通過したときの虚脱感のような感覚を詠んだ句だ(と読んだ)。要するに「へたりこんだ」というに近い感覚で、だから「沈め」と止めて気取る力もなく「沈む」と言ったわけだ。背丈よりもはるかに高い青蘆の原に身をへたりこませて、半ば茫然としている若き日の作者の心持ちに、状況は違っても思い当たる読者も多いのではないか。近所に青蘆原でもあったら、私も作者と同じ行動に出ただろうと、句を読んでしみじみと思う。車谷長吉さんとの付かず離れずの長いつきあいで思い出すのは、もう三十年も昔に、角川文庫の『西東三鬼句集』を何度となく貸し借りして読み合ったことだ。彼はそのころから、神経のピリピリするような繊細な筆致で小説を書いていた。ぼおっと、蘆原にへたりこんでいるだけじゃなかった。『業柱抱き(ごうばしらだき)』(1998)所収。(清水哲男)


September 1392003

 わが嫁が鬘買ひたり秋暑し

                           車谷長吉

療用の鬘(かつら)ではなく、ファッションのためのそれだろう。ひところ若い女性の間でかなり流行したことがあって、見せてもらったことがあるが、地毛と区別がつかないくらいによくできていて感心した。ただ当然のことながら、頭をぴったりと覆う帽子のようなものだから、暑い時期には向きそうにない。かぶるには、かなりの忍耐を必要としそうだ。そんな鬘を妻が買ってきた。それでなくとも暑くてたまらないのに、なんという暑苦しいものをと、作者は内心でつぶやいている。苦り切っているのではなく、むしろ残暑厳しき時期に暑苦しい買い物ができる妻の発想に少し驚いていると読める。小説家(というよりも「文士」と呼ぶほうが適切かな)である作者は、いつも俳句を一編の小説のように作るのだという。なるほど、掲句もここからいろいろなストーリーが展開していきそうだ。作者の頭の中では、すでにこの鬘の運命が決まっているのだろう。そう思うと、愉快だ。ところで「わが嫁」はむろん妻のことだけれど、仮に「わが」と限定しないとすれば、地方によって受け取り方が違ってくる。関東辺りで単に「嫁」と言えば妻ではなく息子の嫁の意味だが、私の育った山口県辺りでは配偶者のことを言う。「あまり飲んだら嫁に叱られる」などと、当時の友人たちは今でも使っている。作者の生まれた兵庫県でも、おそらく同じだと思う。だから「わが嫁」と限定して詠んでいるのは、五音に揃えるということよりも、誤解を招かないための配慮からだと言える。「嫁」が妻のことを言うに決まっている地方の読者には、「わが」の限定がいささかうるさく感じられるかもしれない。『車谷長吉句集』(2003)所収。(清水哲男)


July 2572007

 夏帽子頭の中に崖ありて

                           車谷長吉

帽子というのは麦わら帽、パナマ帽などが一般的とされるけれど、ここでは妙にハイカラな帽子でなければ特にこだわらないでいいだろう。夏帽子そのものは何であれ、作者は帽子に隠された「頭の中」をモンダイにしている。「頭の中」に「崖」があるというのだから穏かではない。長吉の小説の世界にも似てすさまじい。断崖、切り岸が頭の中にあるという状態は、それがいかなる「崖」であれ、健やかなことでない。頭の中に切り立つひんやりとした崖には、怪しい虫どもがひそんでいるかもしれないし、たとえば蛇が垂れさがったり、這いずりまわったりしているかもしれない。今にも崩れそうな状態なのかもしれない。とにかく、そんな「崖」が頭蓋の中、あるいは想念の中に切り立っている状態を想像してみよう。尋常ではない。帽子をかぶっているとはいえ外はかんかん照りで、頭の中も割れそうなほどに煮えくりかえっているのだろう。暑さのせいばかりではあるまい。この句は長吉の自画像かも、と私は勝手に推察する。いや、人はそれぞれ自分の頭の中に、否応なく「崖」を持っていると言えないだろうか。「崖などない」と嘯くことのできる人は幸いなるかな。長吉の俳句を「遊俳」(趣味的な俳句)と命名したのは筑紫磐井である。「やや余技めいた、浮世離れした意味で理解される」(磐井)俳句、結構ですな。長吉には「頭の中の崖に咲く石蕗の花」という句もある。石蕗はどことなく陰気な花である。『車谷長吉句集・改訂増補版』(2005)所収。(八木忠栄)


August 0582007

 君だつたのか逆光の夏帽子

                           金澤明子

帽子といえば、7月25日にすでに八木忠栄さんが「夏帽子頭の中に崖ありて」(車谷長吉)という句を取り上げていました。同じ季語を扱っていますが、本日の句はだいぶ趣が異なります。句の意味は明瞭です。夏の道を歩いていると、向こうから大きな帽子を被った人が近づいてきます。歩き方にどこか見覚えがあるようだと思いながら、徐々にその距離を狭めてゆきます。だいぶ近くなって、ちょうど帽子のつばに太陽がさえぎられ、下にある顔がやっと見分けられて、ああやっぱり君だったのかと挨拶をしているのです。逆光のせいで、まっ黒に見えていた人の姿が、本来の人の色を取戻してゆく過程が、見事に詠われています。「君だったのか」の「のか」が、話し言葉の息遣いを生き生きと伝えています。「君」がだれを指しているのかは、読み手が好きなように想像すればよいことです。大切な異性であるかもしれませんが、わたしはむしろ、気心の知れた友人として読みたいと思います。「君だったのか」のあとは、当然、「ちょっと一杯行きますか」ということになるのでしょう。「暑いねー」と言いながら、二人連れ立ってそこからの道を、夏の日ざしを背に受けながら同じ方向へ向ってゆくのです。もちろん帽子の下の頭の中には、すでに冷えたビールが思い浮かべられています。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 1492014

 蚯蚓鳴く冥土の正子と一ト戦さ

                           車谷長吉

書に「白洲正子さまを偲んで」とあります。白洲正子が亡くなって一週間後、車谷は、「魂の師」が逝ってしまった悲しみを新聞に掲載しています。白洲正子を端的に言ったのは、青山二郎の「韋駄天のお正」でしょう。幼少の頃から能を習い、女性として初めて舞台に上がった正子は、能面を見る審美眼を骨董と古美術にも広げていき、近畿、とくに近江の古仏を探訪した『かくれ里』の足跡は、正子の眼によって、ひっそりと隠れていた山里の神社や寺、古い石仏たちを多くの日本人に開示してくれました。正子の目利きはさいわいに、無名の車谷長吉が『新潮』に掲載した『吃りの父が歌った軍歌』を見つけます。そして、一つの才能を発見した喜びに満ちた手紙を墨筆で車谷に届けました。それ以来、車谷は正子の眼を意識して創作と向き合うようになりますが、次の小説『鹽壺の匙』が出来たのは、七年後。すぐに正子から、ずっと待っていた由の手紙が届いたといいます。以来、車谷の文章は、すべて、第一の読者として、白洲正子を念頭に置いたものでした。掲句の季語「蚯蚓(みみず)鳴く」は、秋に地虫が鳴く音を、古人は蚯蚓が鳴くと思い込んでいたことに由来します。車谷は、この鳴く音を今、聞いていることによって、冥土の正子とつながっています。そして、新作を正子に手向け、挑んでいる。「さあ、ご覧ください。」車谷は、追悼文をこう締めています。「白洲正子の文章は、剣術に譬えるならば攻めだけがあって受け太刀のない、薩摩示現流のごときものであって、一瞬のうちに対象の本質を見抜いてしまう目そのものだった。」死してなお、師とつながり戦う、僥倖の句です。『蜘蛛の巣』(2009)所収。(小笠原高志)


June 0362015

 青嵐父は歯を剝き鎌を研ぐ

                           車谷長吉

夏の頃、よく使われる季語である。手もとの歳時記には「五月から七月頃、万緑を吹く風で、強い感じの風にいう」と説明されている。そういう一般的な季語を使いながらも、「歯を剝き鎌を研ぐ」と長吉らしい展開の仕方をして、わがものにしているのはさすが。嵐雪の「青嵐定まる時や苗の色」のようにはすんなりと「定め」てはいない。強く吹きつける青嵐に抗するように、この「父」は「歯」と「鎌」という鋭いものをつらねて向き合っているのだ。剥き出している「歯」が研がれる「鎌」のように、青嵐に敢然と対向しているような緊張感を生み出している。風が強く吹くほどに、「父」の表情は険しくなり、「鎌」はギラギラと研ぎあがっていくのだろう。デビュー時から異才を放って注目されてきた長吉は、俳句もたくさん作った。残念ながら先月十七日に急逝してしまった。生前の彼とかかわりのあったあれこれが思い出される。合掌。雑誌等に発表された俳句は、「因業集」として『業柱抱き』(1998)に収められ、のち『車谷長吉句集改訂増補版』(2005)に収められた。他に「雨だれに抜け歯うづめる五月闇」がある。(八木忠栄)


February 1722016

 母逝きて洟水すゝる寒の水

                           車谷長吉

吉が小説の他に俳句を作り、歌仙を巻いていたことはよく知られている。句集に『車谷長吉句集』『蜘蛛の巣』などがある。掲出句の前書には「二月十六日 母逝く 二句」とある。残りのもう一句は「母逝きてなぜか安心冬椿」。葬儀まで死者の枕辺には水を供えるものだが、二月だから「寒の水」である。「洟水すゝる」のは、母に水を供える長吉かもしれない。悲しみと寒さゆえに洟水がたれてくる。母が逝って「なぜか安心」とはいかにも長吉らしい詠み方で、悲しみを直接表現しなくとも、心は悲しい。涙をこぼす以上の悲しさと寂しさが、そこに感じられる。長吉は昨年五月に急逝した。「連れあい」の高橋順子が遺稿集『蟲息山房から』(2015)をまとめた。未刊の小説やエッセイをはじめ、俳句、連句、対談・鼎談、インタビュー、日記などが収められている。そのなかに86句を収めた俳句「洟水輯」と題されたなかの一句である。「句の構想をねっているときが一番楽しい時である」とも、「発句をしていると、あまり人事のことを考えなくて済むので、心が休まる」とも、エッセイのなかに書かれている。よくわかる。そのあたりが俳人とはちょっとちがうのかもしれない。(八木忠栄)




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