ンどり女句

June 2762000

 夢に見し人遂に来ず六月尽く

                           阿部みどり女

句集に収められているから、晩年の病床での句だろうか。夢にまで見た人が、遂に現れないまま、六月が尽(つ)きてしまった。季語「六月尽(ろくがつじん)」の必然性は、六月に詠まれたというばかりではなく、会えないままに一年の半分が過ぎてしまったという感慨にある。作者はこのときに九十代だから、夢に現われたこの人は現実に生きてある人ではないように思える。少なくとも、長年音信不通になったままの人、連絡のとりようもない人だ。もとより作者は会えるはずもないことを知っているわけで、そのあたりに老いの悲しみが痛切に感じられる。将来の私にも、こういうことが起きるのだろうか。読者は、句の前でしばし沈思するだろう。同じ句集に「訪づれに心はずみぬ三味線草」があり、読みあわせるとなおさらに哀切感に誘われる。「三味線草」は「薺(なずな)」、俗に「ぺんぺん草」と言う。そして掲句は、こうした作者についての情報を何も知らなくとも、十分に読むに耐える句だと思う。「夢に見し人」への思いは、私たちに共通するものだからである。虚子門。『石蕗』(1982)所収。(清水哲男)


June 2562001

 月下美人あしたに伏して命あり

                           阿部みどり女

に咲く花。いまのマンションに引っ越してきたころ、管理人が育てていた「月下美人」が咲きそうだというので、深夜に子供たちを含めて、大勢で開花を待ったことがある。二十年ほど前のことだが、当時は非常に珍しく、見事に咲くと新聞の地方版に写真が載るほどだった。純白の大花。サボテン科というけれど、トゲもないし、一般的なサボテンのイメージには結びつけにくい。同じ作者に「月下美人一分の隙もなきしじま」とあるように、開花した姿は息をのむような美しさだ。その絢爛にして「一分の隙もなき」花が、しかし「あした(朝)」の訪れとともに、がっくりと首を折るようにしてうなだれてしまう。このときに作者が若年であれば、そんな花の様子に「哀れ」を覚えるだけかもしれない。が、作者の高齢(九十歳前後)は「伏して」もなお「命あり」と、外見の衰えよりも、その底で脈打つ「命」の鼓動に和している。「立てば芍薬」など、女性を花に例えるのは男の仕業であり、それも多くは外見的な範疇でのことにとどまる。しからば、逆に女性の場合はどうなのだろうか。おのれを花に擬する気持ちがあるとすれば、どのようにだろうか。回答のひとつが、この句であってもよいような気がする。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)


November 21112001

 まなうらは火の海となる日向ぼこ

                           阿部みどり女

語は「日向ぼこ」で冬。ところで、いったい「日向ぼこ」とは何なのだろうか。冬は暖かい日向が恋しいので、日向でひととき暖かい場所を楽しむ。物の本にはそんなふうに書いてあるけれど、どこかしっくりこない。しっくりこないのは、ほとんどの人が「日向ぼこ」それ自体を、自己目的とすることがないからだろう。たとえば夏に太陽の下に出て肌を焼くというのなら自己目的だけれど、「日向ぼこ」にはそういうところがないようだ。昔の縁側で縫い物などをしている女性をよく見かけたが、彼女には縫い物が主なのであって、暖かい場所にいること自体は付随的な状態である。「さあ、日向ぼこをするぞ」と、さながら入浴でもするように目的化して、そこにいるのではないだろう。なるほど駅のベンチでも日が射しているところから席は埋まるが、そこに座ることが誰にとっても本当の目的ではない。すなわち「日向ぼこ」とは、主たる目的に付随した「ついでの行為」のようだ。その「ついでの行為」が、季語として確立しているのが面白い。掲句に従えば、傍目には暢気に見える「日向ぼこ」の人も、「まなうら(目裏)」では「火の海」を感じる人もいるというわけだ。たしかに冬の日の明るい場所で目を閉じると、瞼の裏に鮮烈な明るさを覚える。周辺に暗い場所が多いので、余計にそんな感じがする。が、それを形容して「火の海」と言うかどうかは、自身の精神的な状態によるだろう。「日向ぼこ」が必ずしも人をリラックスさせるものではないのだと、作者は言いたげである。久保田万太郎曰く「日なたぼっこ日向がいやになりにけり」。そりゃ、そうさ。「日向ぼこ」を自己目的化するからさ。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


June 0962003

 葉柳に舟おさへ乘る女達

                           阿部みどり女

語は「葉柳(はやなぎ)」で夏。葉が繁り、青々としたたるように垂れている。句は、これから船遊びにでも出かけるところか。「女達」が「舟おさへ」て乗っているのは、和装だからだ。裾の乱れが気になるので、揺れる舟のへりにしっかりと手を添えながら乗っている。さながら浮世絵にでもありそうな光景で、美しい。……と単純に思うのは、私が男だからかもしれない。作者は女性だから、浮世絵みたいに詠んだつもりはなかったのかもしれない。たかが舟に乗ることくらいで、キャアキャア騒ぐこともなかろうに。せっかくの柳のみどりも興醒めではないか。などと、同性の浅はかな振る舞いに、いささかの嫌悪感を覚えている図だとも読める。「女達」と止めたのは、突き放しなのだとも……。まあ、そこまで意地悪ではないにしても、作者がただ同性のゆかしさ、好ましさを謳い上げたと読むのは早計のような気がする。同性同士でなければ感じられない何かが、ここに詠み込まれているはずだ。そう見なければ、それこそ同性の読者からすると、阿呆臭い句でしかなくなってしまうのではあるまいか。何度か読み直しているうちに、だんだんそんな気がしてきた。考えすぎかもしれないが、ふと気になりだすと止まらないのは、俳句装置の持つ磁力によるものだろう。高田浩吉じゃないけれど(って、私も古いなア)、♪土手の柳は風まかせなどと、呑気に歌い流してすむ句ではなさそうだ。女性読者のご意見をうかがいたいところ。『笹鳴』(1947)所収。(清水哲男)


May 3152006

 釘文字の五月の日記書き終る

                           阿部みどり女

語は「五月」。五月も今日でおしまいだ。今年の五月は天候不順のせいで、いわば消化不良状態のままで終わってゆく。日記をつけている人なら、毎日の天気の記載欄を見てみると、あらためて「晴れ」の日の少なかったことに驚くだろう。それはともかく、掲句は句集の発行年から推して、作者八十代も後半の作かと思われる。「釘文字」は、折れ曲がった釘のように見える下手な文字のことだ。もちろん謙遜も多少はあるのだろうが、しかし九十歳近い年齢を考えると、その文字に若き日のような流麗さが欠けているとしてもおかしくはない。つまり、やっとの思いで文字を書いているので、金釘流にならざるを得ないということだと思う。そんな我ながらに下手糞な文字で、ともかく五月の日記を書き終え、作者はふうっと吐息を漏らしている。そして、そこで次に浮かんでくる感慨は、どのようなものであったろうか。一般的に、高齢者になればなるほど時の経つのが早いと言われる。作者から見れば、まだ息子の年齢でしかない私ですら、そんな感じを持っている。すなわち、もう五月が終わってしまい、ということは今年もあっという間に半分近くが過ぎ去ったことに、なにか寂寞たる思いにとらわれているのだろう。このときに「釘文字」の自嘲が、寂寞感を増すのである。句の本意とは別に、この句は読者に読者自身の文字のことを嫌でも意識させる。私のそれは、学生時代にガリ版を切り過ぎたせいだ(ということにしている)が、かなりの金釘流だ。おまけに筆圧も高いときているから、流麗さにはほど遠い文字である。若い頃は、文字なんて読めればいいじゃないかと嘯いていたけれど、やはり謙虚にペン習字でもやっておけばよかったと反省しきりだ。が、既にとっくに遅かりし……。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)


February 1922011

 幻のまぶたにかへる春の闇

                           阿部みどり女

の闇は春の夜の暗さをいうが、残る寒さの中にしんとある闇なのか、仄かに花の香りのする濡れたような闇なのか。早春から晩春、夜の感触は時間を追うごとに、またその時々の心情によって変わる。闇をじっと見つめていると、心の中の面影がふと像を結ぶ。こちらに向かって来るような遠ざかっていくようなその面影を閉じ込めるように、そっとまぶたをとじる。まなうらに広がる闇は、ありし日の姿と共に明るくさえ感じられるだろう。この句は、「二月十二日夫逝く、二句」と前書きがあるうちの一句。その直前に「一月十一日長男逝く」とあり〈遅々と歩す雪解の道の我ありぬ〉〈コート黒く足袋眞白に春浅き〉の二句。相次ぐ悲しみにその境涯を思うが、掲出句の、春の闇、に最も心情がにじむ。今年の二月も半ば過ぎて身の回りに相次ぐ訃報、春の闇に合掌。『笹鳴』(1945)所収。(今井肖子)


June 2962011

 すいすいとモーツアルトにみづすまし

                           江夏 豊

神、南海、広島、他のチームで活躍したあの往年の豪腕の名投手・江夏が俳句を作ったことに、まず驚かされてしまう(シツレイ!)。さらに「モーツアルト」と「みづすまし」のとんでもない取り合わせにも驚かされる。新鮮である。ここで流れているモーツアルトの名曲は何であろう? おそらく「すいすい」という軽快さを感じさせる曲であろうかと思われる。同時に、水面をすいすい走るみづすましの動きにもダブらせている。まさかみづすましがモーツアルトの曲に合わせて滑走しているわけではあるまい。並列されたモーツアルトもみづすましも、ビックリといったところであろう。さすが名投手、バッターが予測もしなかったみごとな好球を投げこんできた。みづすまし(水馬)は「あめんばう」とも呼ばれてきたけれども、学問的に正しくは「まひまひ(鼓虫)」のことをさすのだという。水面を馬が駆けるように四足で滑走するところから「水馬」。この頃は見かけなくなった……というか、当方が池や小川の水面をじっくり覗きこむことが少なくなってしまった、と言うべきか? 「打ちあけてあとの淋しき水馬」(みどり女)、「みづすまし味方といふは散り易き」(狩行)などがある。『命の一句』(2008)所載。(八木忠栄)




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