2000N8句

August 0182000

 橋の名を残せる暗渠夾竹桃

                           星野恒彦

渠(あんきょ)は、蓋で覆った水路。いつのころからか、東京辺りでは川や溝にどんどん蓋をしはじめた。私の近所で言えば、三鷹駅ホーム延伸工事に伴う玉川上水への蓋。少しでも土地を広げようとしたわけだが、水の流れが地下に消えた分だけ、地上の潤いがなくなってしまった。物理的にも、精神的にも……。掲句のように、橋のかかっていたところには、消えた橋を惜しんで、名前をとどめた標識があったりする。はじめての町などで見かけると、思わず立っている地べたを見つめてしまう。周辺では、いまを盛りと夾竹桃が咲いている。このときに作者の心をよぎったのは、ここに水が流れていたころの川辺の情景だ。炎天下の夾竹桃は暑苦しさを助長するが、元来がここは水辺であったことを知ると、暑苦しさを割り引きしなければならない気分になる。そんな一瞬の微妙な気持ちの変化をとらえた句だ。べつに暑さがやわらぐわけではないけれど、なんだか納得はできたということ。人は納得の動物でもある。「暗渠夾竹桃」の漢字のたたみかけが見事。一つ一つの漢字に、作者の心理の微妙な揺れ具合が見て取れるようだ。漢字のある国に生まれた幸運すら感じさせられる。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


August 0282000

 まくなぎをはらひ男をはらふべし

                           仙田洋子

川版歳時記による「まくなぎ」の説明。「糠蚊の一種で、ひと固まりになって上下にせわしく飛んでいる。夏の野道などで、目の前につきまとい、はなはだ小うるさい。黒色をしていることはわかるが、あまり近くで飛ぶため、はっきり見定めがたい」。また河出版には「俗に糠蚊という虫で、種類が多い。夏の夕方、野道で人の顔の高さぐらいのところに微細な虫が群れ飛んでいて、顔につきまとい、目に入ったりして、うるさい。払っても離れない。ときには人の血を吸うものもいる」とある。この「糠蚊」の部分を「男」に入れ替えると、掲句の「はらふべし」の必然性が明瞭になる。それにしても、こうはっきりと言われては、どんな男だって引き下がるしかないだろう。まいりました、失礼しました。そんな女心に気がついてかつかないでか、後藤夜半に「まくなぎのまとふ眦美しや」がある。「眦」は「まなじり」。この男もまた、即刻「はらふべし」か、どうか(笑)。なお、掲句の原文は最初から平仮名表記だが、「まくなぎ」の漢字はひどくややこしい。夜半は漢字を使っているのだけれど、第二水準漢字にも入っていないので表示できなかった。この漢字も、我が辞書から打ち「はらふべし」。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997)所載。(清水哲男)


August 0382000

 夕立の祈らぬ里にかかるなり

                           小林一茶

っと読んで、意味のとれる句ではない。「祈らぬ里」がわからないからだ。しかし、夕立が移っていった里に、何か作者が祈るべき対象があることはうかがえる。まだ祈ってはいないけれど、まるで作者のはやる気持ちが乗り移ったかのように、夕立が大粒の涙を流しに行ってくれたのだという感慨はわかる。悲痛な味わいが漂う句だ。『文化句帖』に載っている句で、このとき一茶が祈ろうとしていたのは、その里にある一基の墓であった。墓碑銘は「香誉夏月明寿信女」。眠っている女性は、一茶の初恋の人として知られている。一茶若き日の俳友の身内かと推察されるが、生前の名前なども不明だ。彼女が亡くなったのは十七歳、一茶はわずかに二十歳だった。そして、この「夕立」句のときが四十四歳。つまり、二十五回忌追善のための旅の途中だったというわけだ。いかに一茶が、この女性を愛していたか、忘れることができなかったかが、強く印象づけられる句だ。男の純情は、かくありたし。しかも、実はこの句を詠んだ日は、彼女の命日にあたり、縁者による法要が営まれているはずの日であった。だが一茶は、故意に一日だけ「祈る」日をずらしている。人目をはばかる恋だったのだろう。(清水哲男)


August 0482000

 ワタナベのジュースの素です雲の峰

                           三宅やよい

の峰は郷愁を誘う。「子供にだって郷愁はある」と言ったのは辻征夫だが、少年期を過ごした三宅島の夏の海での感慨だったような……。沖には、きっと巨大な雲の峰が聳えていただろう。空は未来を指さすけれど、雲の峰は人を過去へと連れていく。私だけの感受性かとも思ったりするが、どうやらそうでもないらしい。それにしても「ワタナベのジュースの素」とは、懐しや。すっかり、忘れていました。よく飲みました。「ジュースの素」である粉末をコップの水に溶かすだけ。オレンジ味、イチゴ味などがあり、それぞれにそれらしい色がついていたと記憶する。一世を風靡したのは、いつごろのことだったのか。いずれにせよ、日本がまだ貧乏だった時代だ。「ワタナベのジュースの素です、もうイッパイッ」というラジオのCMソングも流行した。1962年にテレビCMで登場したコカ・コーラの歌「スカッとさわやか、コカ・コーラーッ」も同工異曲だった。無理やりに、商品名を覚えさせられたという感じ。ちなみに、コカ・コーラの戦後の日本での発売は1961年だが、戦前にも輸入されたことがあり、高村光太郎や芥川龍之介も飲んだことがあるという。難しい顔で飲んでいる様子を想像すると、ほほ笑ましくなる。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


August 0582000

 子の中の愛憎淋し天瓜粉

                           高野素十

上がりの子供に、天瓜粉(てんかふん)をはたいてやっている。いまなら、ベビー・パウダーというところ。鷹羽狩行に「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」があって、父親の情愛に満ちたよい句だが、素十はここにとどまらず、さらに先へと踏み込んでいる。こんな小さな吾子にも、すでに自意識の目覚めが起きていて、ときに激しく「愛憎」を示すようになってきた。想像だが、このときに天瓜粉をつけようとした父親に対して、子供がひどく逆らったのかもしれない。私の体験からしても、幼児の「愛憎」は全力で表現されるから、手に負えないときがある。その場はもちろん腹立たしいけれど、少し落ち着いてくると、吾子の「愛憎」表現は我が身のそれに照り返され、こんなふうではこの子もまた、自分と同じように苦労するぞという思いがわいてきた……。さっぱりした天瓜粉のよい香りのなかで、しかし、人は生涯さっぱりとして生きていけるわけではない、と。そのことを、素十は「淋し」と言い止めたのだ。「天瓜粉」は、元来が黄烏瓜(きからすうり)の根を粉末にしたものだった。「天瓜」は烏瓜の異名であり、これを「天花」(雪)にひっかけて「天花粉」とも書く。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0682000

 魔の六日九日死者ら怯え立つ

                           佐藤鬼房

月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。原爆の残虐性に対して、これほどまでに怒りと戦慄の情動をこめて告発した句を、他に知らない。死してもなお「魔」の日になると「怯え立つ」……。原爆による死者は、いつまでも安らかには眠れないでいるのだと、作者は言うのである。原爆投下時に、作者はオーストラリア北部のスンバワ島を転戦中だった。敗戦後は捕虜となり、連作「虜愁記」に「生きて食ふ一粒の飯美しき」などがある。だから、原爆忌や敗戦日がめぐってくると、おざなりの弔旗を掲げる気持ちにはなれなくて、心は「死者」と一体となる。弔旗は弔旗でも、句は死者と生者にむかって、永遠に振りまわしつづける万感溢れる「弔旗」なのだ。原爆の日から半年後の早春に、私は夜汽車で広島駅を通過した。小学二年生だったが、「ヒロシマ」というアナウンスに目が覚め、プラットホームや背後の街に目を凝らしたことをはっきりと覚えている。ホームにも街にも灯がほとんどなく、全体はよく見えなかった。大きな駅だという雰囲気は感じられたが、子供心にも「死の街」だと思った。生き残った被爆者の方々の平均年齢は、今年で七十歳を越えたという。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


August 0782000

 川半ばまで立秋の山の影

                           桂 信子

秋。ちなみに、今日の東京地方の日の出時刻は4時53分だ。だんだん、日の出が遅くなってきた。掲句では、昼間の太陽の高度が低くなってきたところに、秋を感じている。立秋と聞き、そう言えばいつの間にか山影が伸びてきたなと納得している。視覚的な秋の確認だ。対して、聴覚的な秋の確認(とはいっても気配程度だが)で有名なのは、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」だろう。『古今集』の「秋歌」巻頭に据えられたこの一首は、今日にいたるまで、日本人の季節感覚に影響を与えつづけている。俳句作品だけに限っても、それこそおどろくほどに、この歌の影響下にある句が多い。「秋立つや何におどろく陰陽師」(蕪村)等々。したがって、掲句の桂信子はあえて聴覚的な気配を外し、目にも「さやかに」見える立秋を詠んでみせたということか。いつまでも「おどろく」でもあるまいにという作者の気概を、私は感じる。ところで、秋で必ず思い出すのはランボーの『地獄の季節』の最後に収められた「ADIEU」という詩。「もう秋か! それにしても俺達は、なにゆえに永遠の太陽を惜しむのか」(正確なな翻訳ではありません。私なりの翻案です)ではじまる作品だ。ここには、いわば反俳句的な詩人の考えが展開されている。日の出が早いの遅いのなどという叙情的季節感を超越し、ひたすらに「聖なる光明をを希求する」(宇佐美斉)若者の気合いが込められている。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


August 0882000

 むかし吾を縛りし男の子凌霄花

                           中村苑子

霄花という漢字は、一般的にはこれだけで「のうぜんかずら」あるいは「のうぜん」と読ませる(『広辞苑』など)ようだが、この場合は「のうぜんか」だろう。いまごろの花だ。赤橙色の漏斗状の花を盛んに咲かせる。大きな特徴は、つるを他の木などにからみつかせて、どこまでも執拗に這い登る性質にある。掲句は、この性質に関わっている。その「むかし」、チャンバラごっこか何かの遊びで、たぶんふざけ半分に自分を縛った「男の子(をのこ)」がいた。縛られる側も相手が面白がっていることはわかっているので、さしたる抵抗もせずに縛られてやったのだ。付近では、今を盛りと凌霄花が咲いていたのだろう。ところが、現実に縛られてみると、なんだか気分が違う。遊びだと思っていた気持ちが、すうっと冷えてきて、経験したことのない生々しい恐怖感に直面することになった。縛った男の子も、遊びを忘れたような生臭い顔をしている。二人ともが、縛り縛られたことによる関係が生みだした、思いもよらぬ現実の重さにあわてている。その場にあったのは、お互いの性の目覚めに通じる何かだったはずだ。あのときに執拗に幼い作者の身体にまとわりついた縄の感触を、目の前の凌霄花が思い出させている。性の目覚めはこのように、突然にあらぬ方角からやってきて、抜き難い記憶としておのれにからみつき、離れることがない。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)


August 0982000

 ひぐらしに寡婦むらさきの着物縫ふ

                           藤木清子

分のために縫っているのではないだろう。むらさきの着物は派手だから、「寡婦(かふ)」にはそぐわない。他家から注文のあった仕立物に精を出しているうちに、いつしか「ひぐらし」の鳴く夕暮れとなった。働く「寡婦」と「ひぐらし」の取り合わせが、寂寥感を演出する。そしておそらく、この着物の仕立てを注文したのは、作者自身なのだ。推定の根拠は、掲句の少し後に詠まれた「縁談をことはる畳なめらかに」にある。そしてこれまた推定でしかないが、着物を縫っている人は戦争未亡人だと思う。そこに、掲句のポイントがあるのではなかろうか。藤木清子には戦争を詠んだ句が多数あり、「戦死者の寡婦にあらざるはさびし」「戦争と女はべつでありたくなし」などが目につく。みずから戦争に与する意志が明確で、なんと好戦的な女性かと思われるムキもあるだろうが、当時の一般的な戦争に対する心情を代弁しているだけの内容だと読む。ほとんどスローガンなのだ。以前にも書いたけれど、彼女は戦争期に突然筆を折った後、消息すらわからなくなってしまった。戦後、生きのびた多くの俳人が戦争句を捨てたなかで、捨てようにも捨てられなかった彼女の句は、結果として「残ってしまった」のである。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


August 1082000

 土砂降りの映画にあまた岐阜提灯

                           摂津幸彦

阜提灯は、すずやかで美しい。細い骨組に薄い紙を貼り、花鳥草木が色とりどりに描かれている。元来は、夏の軒端などに吊るして涼味を楽しんだもののようだが、いまは盆の仏前にそなえる提灯として知られている。盆提灯とも言う。掲句の「土砂降りの映画」は、映画に大雨が写っているのではないだろう。傷のついたフィルムを映写すると、雨が降っているように見える。このフィルムは相当に古いのか、傷だらけで、土砂降りのように見えるというわけだ。そんな場面に、たくさんの岐阜提灯が写っている。きゃしゃな岐阜提灯だから、こんなに「土砂降り」のなかでは、たちまちにして崩れ散ってしまいそうだ。その無惨を思って、作者は一瞬目をそらしたかもしれない。そんな錯覚を書き留めた句。まったくのフィクションかもしれないけれど、画面の様子は目に見えるようである。そして言外にあるのは、土砂降りであろうが、死者の霊は必ず戻ってくるということだろう。そのためにも、これらの岐阜提灯は、なんとしても守られなければならぬ。と、咄嗟の優しい心情がにじみ出ている。こう詠んだ摂津幸彦も他界してしまった。間もなく旧盆だ。彼を迎える仏前には、どんな盆提灯が優しくそなえられるのだろう。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)


August 1182000

 落ちてゐるのは帰省子の財布なり

                           波多野爽波

敷の隅に財布が落ちている。置いてあるのではなく、落ちている。財布や手帳などは、使い慣れた持ち主にはなんでもないものだが、それ以外の人には異物と写る。作者も異物と認め、ハテナと首をかしげるほどもなく、もちろん気がついた。ひさしぶりに帰省した子供の財布だ。上着を脱いだときに、内ポケットから滑り落ちたのだ。拾ってちらと眺め、高いところに置いてやる。帰省子は、早速の入浴か、疲れて昼寝中か。いずれにしても旅装を解いて、くつろいでいる。掲句は、二つのことを言っている。拾った父親としては、いつの間にかちゃんとした財布を持つまでになった子の成長に感嘆し、子供は財布を落としたことにも気づかないことで、はからずも実家への最高の安堵感を示した……。たった十七文字で「実家」の構造を的確に描き出した腕前は、見事と言うしかない。このような場景なら、それこそどこにでも落ちている。拾い上げられるかどうかは、やはり修練の多寡によるのだろう。帰省といえば、芝不器男に「さきだてる鵞鳥踏まじと帰省かな」という名句がある。この世で最高に安堵できるところは、もう目と鼻の先なのだ。はやる心を抑えながらも、ついつい急ぎ足になってしまう。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


August 1282000

 いつまでも捕手号泣す蜥蜴消え

                           今井 聖

合に敗れたチームの「捕手」が、ベンチ脇の草叢に突っ伏して、声をあげて泣いている。プロテクターやレガーズをつけたままだから、「捕手」と知れる。チームメイトが肩などを叩いてやるが、いつまでも泣きやまない。高校野球の地方予選では、ときおり目にする光景だ。このときに「蜥蜴(とかげ)消え」とは、彼の夏が終わったことを暗示している。「蜥蜴」は夏の季語。でも、なぜ「蜥蜴」なのだろうか。彼が「捕手」だからだと、私は読んだ。「捕手」の目は、ナインのなかで一番地面に近い。グラウンドの片隅にある投球練習場所の近くには、たいてい草叢があるので、そこに出没する「蜥蜴」を、彼はいつも目にしてきたわけだ。他の選手は、草叢に「蜥蜴」がいることさえ知らないだろう。でも、負けてしまったので、この夏にはもう「蜥蜴」を見ることもないのである。したがって、作者は「蜥蜴消え」と押さえた。投手を詠んだ句は散見するが、素材に「捕手」を持ってくる句は少ない。地味なポジションに着目するあたり、作者はよほどの野球好きなのだろうか。「グロウブを頭に乗せて蝉時雨」と、微笑を誘われる句もあるので、相当に熱心な人のようではある。「俳句文芸」(2000年8月号)所載。(清水哲男)


August 1382000

 別宅という言葉あり蝉しぐれ

                           穴井 太

いたいが、この人はよくわからない句をたくさん作った。私など、句集を読んでも半分以上はわからない。この句も、然り。ただ、わからないながらも、何となく気になる句が多いのだ。読者の琴線に触れるというよりも、琴線に近いところまではすうっと近づいてくる。が、それ以上は何も言ってくれない。そのたびに苛々させられるのだが、かといって、縁切りにはされたくないと思ってきた。もしかすると、こうした「もどかしさ」の魅力が、穴井太を俳句作家として支えていたのかもしれない。掲句からわかることは、読んで字のごとし。「蝉しぐれ」のなかで、ふと「別宅」という言葉を思い出したと書いているだけだ。作者は長い間、中学校の教員だった。してみると、夏休み中の早い勤務帰りだろうか。「別宅」には別邸や別荘とは違って、「本宅」にいる本妻とは異なる女性の影がある。単に、別の家という意味じゃない。永井荷風のように、常に「別宅」のあった文学者もいたわけで、これからそういう家に行く途中の自分を、ふっと空想したということなのだろう。そうだとしたら、この暑苦しいだけの「蝉しぐれ」も、よほど違って聞こえただろうに。でも、現実は「言葉」だけでのこと。人生には、実に「言葉」だけの世界が多いなア。一瞬の空想の空疎さを、力なく笑ってしまったというところか。蝉しぐれはいよいよ激しく、なお「本宅」までの道は遠い。……とまあ、これも一読者としての私の「蝉しぐれ」のなかの「言葉」だけでしかないのである。『穴井太句集』(1994)所収。(清水哲男)


August 1482000

 枝豆やこんなものにも塩加減

                           北大路魯山人

者は、あの陶芸家の魯山人。料理の研究家としても有名だった。たしかに、言えている。「こんなものにも」そして「どんなものにも」、ちょっとした匙加減一つで美味くもなれば不味くもなる。句の出典は不明。たまたま、辻嘉一(懐石料理「辻留」主人)の『味覚三昧』(1979)を読んでいて思い出した。両者は面識があったのだが、この本にこの句は載っていない。いったい、どこで私はこの句を知ったのだろう。で、辻嘉一は書いている。「塩水を煮立たせた中へ大豆を入れ、蓋をしないで茹でると色よく茹であがります。しかし、本当の旨味は、水から塩加減の中でゆっくり軟かく茹でて、蓋をしておき、冷えるのを待っていただくと、その味わいは素晴しく、歯ざわりりはむっちりとして、味が深いものですが、退色して茶っぽくなり、いくらでも食べられるので気をつけましょう」。とすると、ビアホールなどで出てくる緑色の「枝豆」は、本当の旨味を引き出していないわけだ。子供のころに母が茹でてくれたものは、そう言えば、きれいな色はしていなかった。「塩加減」ならぬ「茹で加減」が違ったのだ。「色」か「味」か。現代では、圧倒的に「色」のよいものが好まれる。なお「枝豆」は、それこそビアホールなどで初夏くらいから出回るために、旬はとっくに過ぎていると錯覚している人もいるようだ。が、実はこれから。秋の季語。「豆名月」という季語もあり、名月に供えるのは「枝豆」と決まっている。(清水哲男)


August 1582000

 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみか

                           高浜虚子

句時点は、敗戦の日から一週間を経た八月二十二日。このころ虚子は小諸に疎開しており、前書に「在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の求めに応じて」とある。掲句につづくのは、次の二句である。「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」。この二句は凡庸だが、掲句には凄みを感じる。虚子としては、おそらくは生まれてはじめて、正面から社会と対峙する句を求められた。この「国難」に際して、はたして「花鳥諷詠」はよく耐えられるのか。まっすぐに突きつけられた難題に、虚子は泣かない(鳴かない)「蓑虫(みのむし)」をも泣かせることで、まっすぐに答えてみせた。「蓑虫」とは、もちろん物言わぬ一庶民としての自分の比喩でもある。「秋蝉」との季重なりは承知の上で、みずからの心に怒濤のように迫り来た驚愕と困惑と悲しみとを、まさかの敗戦など露ほども疑わなかった多くの人々と共有したかった。青天の霹靂的事態には、人は自然のなかで慟哭するしかないのだと……。無力なのだと……。「蓑虫」や「秋蝉」に逃げ込むのはずるいよと、若き日の私は感じていた。しかし、虚子俳句の到達点がはからずも示された一句なのだと、いまの私は考えている。みずからの方法を確立した表現者は、死ぬまでそれを手ばなすことはできないのだ。掲句の凄みは、そのことも含んでいる。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

ちょっと一言・国文的常識のうちでは、蓑虫はちゃんと鳴く(泣く)。『枕草子』に「秋風吹けば父恋しと鳴く」と出てくるからだ(長くなるので、なぜ鳴くかは省略。原典参照)。この話から「蓑虫」は秋の季語になったと言ってよい。もちろん、虚子は百も承知であった。


August 1682000

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ

                           森 澄雄

暦7月16日(現在は8月16日)の夜8時、まず京都如意ヶ岳の山腹に「大」の字のかがり火が焚かれ、つづいて「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」が次々と点火される。荘厳にして壮大な精霊送火だ。荘厳で壮大であるがゆえに、消えていくときの寂寥感も一入。しばしこの世に戻っていた縁者の霊とも、これでお別れである。「妙法」は「妙法蓮華経」の略だから、五山のかがり火のなかでは、唯一明確に仏教的な意味合いを持つ。その意味合いを含めて、作者は一文字ずつ消えてゆく火に寂しさを覚えている。大学時代の私の下宿は、京都市北区小山初音町にあった。窓からは如意ヶ岳がよく見え、「大文字」の夜は特等席みたいなものだった。点火の時刻が近くなると、なんとなく町がざわめきはじめ、私も部屋の灯りを消して待ったものだ。「大」の文字が浮かび上がるに連れて、あちこちで賛嘆の声があがりはじめる。クライマックスには、町中がウワーンという声ともつかぬ独特の音の響きで占められる。実際に声が聞こえてくるというよりも、そんな気になってしまうのかもしれない。あの、いわば低音のどよめきが押し寄せてくる感じは忘れられない。蕪村に「大文字やあふみの空もたゞならぬ」があるが、その「たゞならぬ」気配は町中にも満ちるのである。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


August 1782000

 朝貌の黄なるが咲くと申し来ぬ

                           夏目漱石

貌(あさがお)に、黄色い花があるかどうかは知らない。品種改良が進んでいるいまでも、あれば珍種の部類に入るのだろう。見てみたい。「申し来ぬ」は、わざわざ手紙で言ってよこしたの意。そのことだけを伝えた手紙だと、読める。漱石も半信半疑ながら、そいつは余程珍しいやと、わざわざ句に書きとめたというわけである。他に何も含意など無い句だが、それだけに心にしみる。明治二十九年(1896年)の作。誰からの手紙かはわからないが、誰からにせよ、ちょっとした自然の変事を書き送ってくる心映えが嬉しい。それを、そのまま句にした漱石の気持ちも……。「心にしみる」と言うのは、そればかりではなく、これが現代だったらどうかなと、ちょっと思ったからだ。はっきりと珍種の認識があれば、写真に撮って新聞社にご注進と出るかもしれない。花の色など何でもありみたいな時代だから、一瞬「おや」とは感じた人も、すぐに忘れてしまうかもしれない。そしておそらく、大多数の人は気にもとめないだろう。早速あいつに知らせてやろうと、手紙を書く人がどれだけいるだろうか。手紙といえば、時候の挨拶が面倒だからと、書くのが苦手な人が増えてきた。恥ずかしながら、かく言う私も「前略」専門。面倒に感じるのは、時候の挨拶に自然への思いを盛り込めないからである。このような句に接すると、私たちの社会が自然に素朴な驚きを覚える力を失って久しいと、つくづく思う。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)


August 1882000

 泉の底に一本の匙夏了る

                           飯島晴子

者はご自分の意志により、この六月六日に死を選ばれたと聞く。享年、七十九歳。この句をもって、今年の夏句の打ち止めとしよう。第一句集『蕨手』の巻頭に置かれた句だ。「了る」は「おわる」。「終わる」よりも、ぴしりと完結したニュアンスが出る。「泉の底」に沈んだ「一本の匙」の金属性があらわになる。あらわになったところで、夏という季節への、きっぱりとした決別の歌となった。「匙」のつめたいイメージは、秋の気配をうかがわせる。が、注目すべきは、作者は来るべき秋には何も予感していないし、期待もしていないところだ。すなわち、みずからの過去(夏)への決別の思いのみが、静かにして激しく込められていると読む。いまにして振り返れば、巻頭に「了」が据えられた意味には深いものがあったようだ。でも、実はこの句について、こんなことを書きたくはなかった。いつここに掲載しようかと、ページ開設以来、大事にとってあった句だけに、まことに口惜しい。委細は省略するが、最後にお会いしたのは今年の春三月。東京のとある場所で、飯島さんは途中退席された。脳天気にも「また、夏にはおめにかかれますね」とご挨拶をしたところ、微笑されながらも「……もう、カラダがねぇ」と小声で言われた。そのとき、飯島さんの痩身がぐらりと揺れたような錯覚に、「あっ」と思った。悼。(清水哲男)


August 1982000

 長時間ゐる山中にかなかなかな

                           山口誓子

に、類句はあると思う。最近何かの句集で見かけたような気もしたが、失念してしまった。なにしろ「かな」と切れ字を連発する虫だもの、俳人が食指をのばさないわけがない。ただし、よほど考えて作らないと、駄洒落に落ちる危険性を伴う。その点、登山を趣味とした誓子の句は、実感に裏打ちされているだけに、よい味が出ている。それというのも、「かなかなかな」の最後の「かな」は切れ字としても働き、一方では鳴き声の続きとしても機能しているからである。この「かな」の二重の言語的な働きが、句の品格を保証し「山中」の情趣を醸し出している。「かなかな」の本名は「蜩(ひぐらし)」だろうが、こちらにも同時に着目したのが江戸期の人・一峰の「秋ふくる命はその日ぐらし哉」だ。いささか語るに落ちそうな句ではあるけれど、悪くはない。最後ではちゃんと「哉(かな)」と鳴かせている。着想した当人は、さぞかし得意満面だったろう。「かなかな」といえば、山村暮鳥の詩集『雲』(1925)に、好きな詩がある。「また蜩のなく頃となつた/かな かな/かな かな/どこかに/いい国があるんだ」(「ある時」全編)。暮鳥は『雲』の校正刷を病床で読み、間もなく永眠した。松井利彦編『山嶽』(1990)所収。(清水哲男)


August 2082000

 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み

                           三橋鷹女

季。しかし、「炎ゆる夕日」は夏の季語である「西日」に近い感じだ。初秋の「西日」は、外気の暑さも加わって、たしかに炎えているように見える。童謡の一節「ギンギンギラギラ、ユウヒガシズム」の、あの感じだ。さて、掲句の主語は何だろうか。落ちてゆくのは「夕日」であるが、「墜ちてゆく」のは作者自身だろう。「墜ちてゆく」の後に一字分の空白が入れられていることから、それと理解できる。つなげてしまうと、つづく「股挟み」の主語が作者であるだけに、「墜ちてゆく」主体は「夕日」と限定されてしまう。それにしても、激しい気性の感じられる句だ。このとき、鷹女は六十歳か、六十一歳か。どうせ老いが避けられないのであれば、あの真っ赤な夕日を道連れに「墜ちてゆく」、いや「墜ちてやる」の気概はすさまじい。彼女は、みずからを魚に擬して「一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である」と言った。ならば、いつの日にかは確実に全身赤裸となるわけだ。この句は、自身の「赤裸」が近いと心得た作者が、渾身の力を込めて太陽にむしゃぶりついてやるの気迫に満ちている。むしゃぶりつくだけではなく、その上での「股挟み」だ。「夕日」は、必ずしも感傷の対象にはあらず。俳句に命を賭けた者にしか、こういう壮絶な俳句は書けないだろう。六十二歳の私はといえば、ただ脱帽も忘れて、シュンとするのみ……。『羊歯地獄』(1961)所収。(清水哲男)


August 2182000

 子にうすれゆく方言よ蕎麦の花

                           神原教江

麦(そば)の花が咲きはじめると、そろそろ夏休みもおしまいだ。子供のころには、夏休みが退屈だったくせに、あの白い花が風に揺れている様子に寂しい気持ちもしたものだ。掲句の作者は、もっと寂しい。帰省中の子供が、間もなく都会に去っていくのである。大学生だろうか。休みに帰って来るたびに、言葉遣いが「都会モン」らしくなってくる。方言を毛嫌いするかのようにも、うかがえる。方言には発音の仕方も含まれるので、そのあたりも都会風になっているのだろう。母親としては、そんな子供を一方では頼もしいとは思うのだが、他方ではついに「子離れ」の時期が到来したと感じている。そのことを口にするわけではないけれど、胸の内に寂しさが募るのはどうすることもできない。蕎麦は、元来が山畑などの痩せた土地に植えられた。逞しい植物とも見えるし、哀れとも見える。姿カタチも、全体としては美しいとは言えない。言うならば、雑草同然。だから、頼りなげな白い花が、ひとしお感傷を誘うのだ。戦後の岡本敦郎(武蔵野市でご健在です)の大ヒット曲に、「白い花の咲く頃」(1950)がある。田村しげるの詞には、何の花とも書かれていないが、中学生の私は聞いた途端に「蕎麦の花」を思った。「……さよならと言ったら、黙ってうつむいていたお下げ髪。悲しかったあのときの、あの白い花だよ」。故郷を後にして、若者が都会に出はじめたころの流行歌だった。『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


August 2282000

 秋桜好きと書かないラブレター

                           小枝恵美子

ッと読むと、「なあんだ」という句。よくある少女の感傷を詠んだにすぎない。でも、パッパッパッと三度ほど読むと、なかなかにしぶとい句だとわかる。キーは「秋桜」。つまり、コスモスをわざわざ「秋桜」と言い換えているわけで、この言い換えが「好きと書かない」につながっている。婉曲に婉曲にと、秘術(?!)をつくしている少女の知恵が、コスモスと書かずに「秋桜」としたところに反映されている。ラブレターは、自己美化のメディアだ。とにかく、自分を立派に見せなければならない。それも、できるかぎり婉曲にだ。さりげなく、だ。そのためには、なるべく難しそうな言葉を選んで「さりげない」ふうに書く。「秋桜」も、その一つ。で、後年、その浅知恵に赤面することになる。掲句で、実は作者が赤面していることに、賢明なる読者は既にお気づきだろう。以下は、コスモスの異名「秋桜」についての柴田宵曲の意見(『俳諧博物誌』岩波文庫)。「シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。(中略)如何に日本が桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。(中略)秋桜の名が広く行われないのは、畢竟コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない」。さんざんである。同感である。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


August 2382000

 あの雲は稲妻を待たより哉

                           松尾芭蕉

ロゴロッと鳴ってピカーッと来る閃光。あれを「稲妻」とは言わない。古人曰く「光あつて雷ならざるをいふなり」。すなわち、秋季に「音も交えず、雨も降らさず、夜空を鋭く駆ける」(角川歳時記)光りが「稲妻」だ。ちょっとした遠花火の趣きもある。句の「待」は「まつ」と読み下す。夜空を遠望して、あの雲の様子ではそろそろ「稲妻」が現われるぞ。と、ただそれだけの句。「稲妻」の予兆を「たより」としたのが技といえば技だが、感心するほどのものでもない。それよりも注目すべきは、句の主体だろう。詠んだのは芭蕉に違いないが、べつに芭蕉に教えてもらわなくても、このような予感は当時の人々の常識であった。それを、芭蕉がわざわざ詠んだところに「俳句」がある。つまり、この句の真の主体は、芭蕉を含む共同社会なのだ。「みんな」が主語なのである。誰もが感じていることを、芭蕉が作品として書きつけたわけだ。正直言って、面白い句ではない。作者の発見がないからである。でも、考えてみれば、俳句は短い詩型であるだけに、誰が書こうと共同社会が究極の(隠されてはいても)主体なのだという認識を、作者が欠いてしまったら「俳句」にはならない。理解不能になるだけである。その意味からすれば、面白みはないとしても、この一行は「俳句」だとしか言いようガない。「オレが、ワタシが」では「俳句」にはならないのである。「俳句」の説得力は、ここに根ざしていないかぎり、常に空振りとなるだろう。面白くない句が何故面白くないかを考えるとき、かなりの確率で問題はここに帰着する。そんな気持ちで掲句に戻ると、悪くはないなという気もしてくる。テレビの天気予報官なら、早速使いたくなるはずの一句だ。(清水哲男)


August 2482000

 夢で首相を叱り桔梗に覚めており

                           原子公平

頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


August 2582000

 生涯にまはり燈籠の句一つ

                           高野素十

書に「須賀田平吉君を弔ふ」とある。素十の俳句仲間だろうが、どんな人だったのかは知る由もない。「須賀田平吉君」が亡くなった。そこで思うことに、ずいぶんと熱心に句を作ってはいたが、はっきり言って下手な男だった。ヘボ句の連発には、閉口させられたものだ。だが、たった一度だけ、彼が句会で満座を唸らせた「まはり燈籠」の句がある。実に見事な句であった。誰もが「あれは名句だねえ」と、いつまでも覚えている。通夜の席でも、当然のようにその話が出た。……こんな具合だろうか。故人への挨拶句としては珍しい作りであり、しかも友情がじわりと沁み出ている佳句だ。おそらくは「須賀田平吉君」が存命のときにも、作者はこの調子で軽口を叩いていたにちがいない。だからこその手向けの一句になるのであって、あまり親しくもなかった人がこんな句を作ったら、顰蹙モノだろう。その上、故人の句の季題が「月」でも「花」でもなく「まはり燈籠」であったことにも、人の運命のはかなさを感じさせられる。どんな句だったのか、読んでみたい。考えてみれば「生涯に一句」とは、たいしたものなのである。たいがいの人は「一句」も残せずに、人生を終えてきた。ところで「まはり燈籠」の季節だが、当歳時記では「燈籠」の仲間として「秋」に分類しておく。でも、遊び心のある涼しさを楽しむ燈籠だから、夏の季語としたほうがよいのかも知れぬ。ただし、掲句がどの季節に詠まれたのかは不明なので、本当の作句の季節はわからない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


August 2682000

 芋茎和へ出羽三山は夜に入る

                           大沢知々夫

刻の台所で「芋茎(ずいき)」を和えていると、はや「出羽三山」(月山・羽黒山・湯殿山)は夜に入ったと言うのである。ぐんぐんと日が短くなってきた感覚を、スケール豊かに反映させた句。小さな厨房を大きな「出羽三山」の漆黒に取り巻かせたところが、印象を強く残す。漆黒の闇の奥には、既に厳しい冬の気配も兆しているのだろう。「芋茎」は、里芋の茎だ。残念ながら、和えて食べたことはない。ご飯のおかずではなく、ちょっとした酒肴なのだろうか。私の少年時代には、ご飯のおかずとして、醤油と砂糖でやわらかく煮て食べた。でも、和え物にせよ煮物にせよ、それなりの風味はあるのだろうが、子供が好きになれる食べ物じゃないと思う。農家だったので、里芋の茎なんぞは捨てるほどあったし、事実大半は捨てていた。畑の隅に、山と積んで放置したのである。腐らせて、体裁よく言えば、土に返していた。ところが、子供だった私たちは、このクズでしかない芋茎の新しい使い道を考えついた。野球のボールの代わりにするのである。細い部分を切り取ってくるくるっと巻いてから紐で堅く縛り、そいつを投げたり打ったりした。本物のボールなどなかったころだから、この使い道は、たいした発見だった。資源は豊富というよりも、無尽蔵に近い。いつでも、ニュー・ボールが入手できる理屈だ。井上ひさしの『下駄の上の卵』にも「里芋の茎ボールで練習するより仕方ねえな」と出てくる。後年この小説を読んだときに、「仕方ねえ」のは全国的だったと知ると同時に、子供の知恵も全国共通だったんだなと驚きもし、感心もした。「味の味」(2000年9月号)所載。(清水哲男)


August 2782000

 秋の蚊の声や地下鉄馬喰町

                           大串 章

昼の地下鉄の駅に降りていくと、ときにホームの人影がまばらで、閑散としていることがある。いままでいた地上の街がざわめいていただけに、自分だけ取り残されたような侘びしい気分になる。加えて、弱々しげな「秋の蚊の声」が唐突に傍らをよぎった。「おや」と思うと同時に、作者はここが「馬喰町」(現在の正式名は「日本橋馬喰町」)であることに、あらためて思いが至った。かつて殷賑を極めたであろう馬の市を想像し、蚊や虻はつきものの土地柄だったはずだと、微笑のうちに「秋の蚊」の出現を納得している。都会暮らしの束の間の一場面を、巧みにとらえた抒情句である。なお、四角四面なことを言えば、東京の地下鉄に「馬喰町」という名の駅は存在しない。「馬喰町」はJR総武快速線の駅名で、すぐそばを走る都営地下鉄新宿線のそれは「馬喰横山駅」だ。このときに作者は恐らく、JRから地下鉄に乗り換えるところだったのだろう。この「馬喰(博労)」という職業名も、農耕馬が不必要になって以来、死語に近くなった。「伯楽」から転じた言葉のようだが、諸般の歴史的な事情を考慮して、たしかNHKあたりでは「馬喰」単体では使わないことにしているはずだ。堂々と放送で「バクロウ」と発音できるのは、したがって地名か駅名のみ。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)


August 2882000

 秋日傘風と腕くむ女あり

                           森 慎一

ずやかな白い風を感じる。まだ残暑は厳しいが、まるで風と腕を組むように軽やかに歩いている日傘の女。その軽快な足取りが、もうそこまで来ている秋を告げている。「風と腕くむ」とは、卓抜な発見だ。これが雨傘だと、身をすぼめるようにして歩くので、「風」とも誰とも「腕くむ」わけにはまいらない。「日傘」でなければならない。句を読んで、妙なことに気がついた。いつのころからか、実際に腕を組んで歩くカップルの姿を、あまり見かけなくなった。手を握りあっている男女は多いけれど、なぜなのだろう。昔の銀座通りなどには、これ見よがしに腕を組んで歩くアベックなど、いくらでもいたというのに……。基地の街・立川や福生では、米兵と腕くむ女たちが「くむ」というよりも「ぶら下がっている」ように見えたっけ。そこで、屁理屈。「腕をくむ」行為は、お互いに支え合う気持ちがあり、建設的な連帯感がある。未来性を含んでいる。比べて、手を握りあう行為には、未来性が感じられない。「ただいま現在」が大切なのであって、時間的にも空間的にも、視野の狭い関係のように写る。どっちだろうと、知ったこっちゃない(笑)。が、恋人たちの生態にも、やはり時代の影というものは落ちてくる。いまは、刹那が大切なのだ。男から三歩下がって、女が歩いた時代もあった。いまでは、腕をくむ相手も「風」とだけになっちまったということか。立てよ、秋風。白い風。『風のしっぽ』(1996)所収。(清水哲男)


August 2982000

 とんぼ連れて味方あつまる山の国

                           阿部完市

味方に分かれての遊び。学校から戻ってくると、飽きもせずに毎日繰り返す。だが、子供にも事情というものはあるから、互いのメンバーがいっせいに揃うということはない。適当な人数が集まったところで、試合開始だ。敵味方は、いつも通りの組み合わせ。片方が少ないからといって、相手から戦力を借りるようなことはしない。それでは、気持ちが「戦い」にならない。非力劣勢はわかっていても、堂々と戦うのだ。男の子の侠気である。多勢に無勢、苦戦していると、遠くの方から一人、また一人と「味方」が駆けてきた。集まってきた。このときの嬉しさったら、ない。そんなに上手な子ではなくても、百万の「味方」を得たような気分になる。周辺に飛んでいる「とんぼ」までをも、その子が「味方」に連れてきたように感じたということ。「山の国」の日暮れは早い。さあ、ドンマイ、ドンマイ、挽回だ。私が子供だったころの子供の事情の多くは、宿題や勉強にはなかった。仕事だった。子守りや炊事に洗濯、水汲みに風呂わかし、家畜の世話など、農家の子供は仕事を終えてからでないと遊べなかった。農家に限らず、日本中で子供が働いていた時代が確かにあった。掲句は、そうした時代背景を知らないと、よく理解できないかもしれない。『絵本の空』所収。(清水哲男)


August 3082000

 青瓢ふらり散歩に出でしまま

                           櫛原希伊子

(ふくべ)は瓢箪(ひょうたん)の実。まだ青い瓢が、ふらりと下がっている。この様子を「散歩」の「ふらり」にかけた句。ちょっとそこまでと出かけて、なかなか戻ってこない人。悪友に出くわして赤提灯にでもしけこんだか、麻雀屋でジャラジャラはじめてしまったか。待つ身としては腹立たしくもあり、その毎度の暢気さが可笑しくもあり……。最初に、私はこう読んだ。しかし、作者の自註によると、そんな暢気な話ではなかった。「散歩に行ってくるよと、そのまま帰らぬ人となった友がいる。この次、何が起るか知れぬ不安」を詠んだ句だった。もちろん、句だけからここまで読み取ることはできないだろう。だが、注意深く読むと、なるほど単に暢気な人の様子を詠んでいるのではないことはうかがえる。キーは「青瓢」の「青」にある。この「青」は、上五に「瓢」を安定させるための修辞的な付けたしではない。「青」に若い生命を象徴させて、句全体にかぶせられていたのだった。暢気を詠むのであれば、たとえば「瓢箪や」くらいのほうが効果的だろう。「青瓢ね、ああ、瓢箪だからふらりだね」と読んでしまった私が軽率だった。暢気だった。十七音、おそるべし。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


August 3182000

 夏休み果つよ音痴のハーモニカ

                           中谷朔風

かった夏休みも、今日でおしまいだ。何事につけ、おしまいには寂寥感が漂う。作者はおそらく、休みの間中、近所の家から聞こえてくる子供の下手なハーモニカに悩まされつづけたのだろう。熱心なのは結構だが、ひどい調子外れだけは何とかならないものか、と。でも、それも今日でおしまいだと思うと、逆になんだか寂しい気持ちになってくる。ピアノやバイオリンなどよりも、ハーモニカの音色そのものが寂しさを伴っているので、寂寥効果を引き上げている。「音痴のハーモニカ」がおしまいになれば、作者の夏もおしまいである……。夏休みの終わりといえば、嶋田摩耶子に「夏休み最後の午後の捕虫網」がある。まだ宿題ができていなくて昆虫採集に励んでいるのか、あるいはいつもと同じ調子で捕虫網を振り回しているのか。いずれにしても、もう明日からはこの活発な様子は見られない。「最後の午後」と言い止めたところに、やはりいくばくかの寂寥の心が滲んでいる。「もう、秋か」。ランボーの詩句がよみがえるのも、今日。新潮社版『俳諧歳時記・夏』(1968)所載。(清水哲男)




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