PF句

August 0182000

 橋の名を残せる暗渠夾竹桃

                           星野恒彦

渠(あんきょ)は、蓋で覆った水路。いつのころからか、東京辺りでは川や溝にどんどん蓋をしはじめた。私の近所で言えば、三鷹駅ホーム延伸工事に伴う玉川上水への蓋。少しでも土地を広げようとしたわけだが、水の流れが地下に消えた分だけ、地上の潤いがなくなってしまった。物理的にも、精神的にも……。掲句のように、橋のかかっていたところには、消えた橋を惜しんで、名前をとどめた標識があったりする。はじめての町などで見かけると、思わず立っている地べたを見つめてしまう。周辺では、いまを盛りと夾竹桃が咲いている。このときに作者の心をよぎったのは、ここに水が流れていたころの川辺の情景だ。炎天下の夾竹桃は暑苦しさを助長するが、元来がここは水辺であったことを知ると、暑苦しさを割り引きしなければならない気分になる。そんな一瞬の微妙な気持ちの変化をとらえた句だ。べつに暑さがやわらぐわけではないけれど、なんだか納得はできたということ。人は納得の動物でもある。「暗渠夾竹桃」の漢字のたたみかけが見事。一つ一つの漢字に、作者の心理の微妙な揺れ具合が見て取れるようだ。漢字のある国に生まれた幸運すら感じさせられる。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


March 0232001

 春潮を入れて競艇場休み

                           星野恒彦

ースの開催日には、けたたましいエンジン音で喧騒を極める競艇場も、休みとなれば静かなものだ。水面は、次第に藍色を濃くしてきた春の潮をたっぷりと入れて、明るく輝いている。騒がしいのが常識の場所だけに、句景の静けさが際立つ。「ああ、春だなあ」という作者の感慨が、じかに伝わってくるようだ。素材の妙。好奇心から、たいていの遊び事や賭け事には手を出してきたが、競艇(ボート)とは無縁のままだ。あちこち移り住んだけれど、近くに競艇場がなかったからである。あれば、間違いなく損をしに行っていただろう。したがって、私の知る競艇場は、数えきれぬほど往復した東海道線からちらりと見える浜松近辺(だと思う)のそれだけだ。それだけでも、掲句の雰囲気はよくわかるような気がする。何年か前に中学の同窓会旅行で下関に出かけたとき、酒席での友人たちの話題が、自然にボートに傾いていったのには驚いた。こちらは賭け方の方法も知らなければ、もちろん選手の名前など一人も知らない。会話から、完全にはじき出されてしまった。黙っている私に、声あり。「てっちゃんは、ボートやらんのか。マジメじゃからねえ……」。大いなる誤解だが、抗弁はしなかった。翌日は日曜日。帰るために下関駅に向う途次、そこここで、競艇の予想紙を食い入るように眺めている男や女を何人も見かけた。その街には、その街ならではの楽しみがあるのだ。もう一日滞在できたら、確実に足を運んでいただろう。惜しいことをした。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


February 0222002

 一生を泳ぎつづける鮪かな

                           星野恒彦

語は「鮪(まぐろ)」で冬。なぜ冬なのか。冬に食べるのが、いちばん美味だからである。鮪にかぎらず、多く動植物の季節への分類は、食べごろをポイントになされている。その意味で、歳時記は人間の食い気がいかに旺盛かを示す「食欲辞典」の趣もある。ところで、掲句は食欲とは無関係だ。おそらくは、魚市場かどこかで丸のままの大きな鮪を見ての感慨だろう。べつに鮪でなくても、鯛や平目でも構わないようなものだが、しかし、鮪の流線型というのか紡錘形というのか、とにかく猛烈なスピードで泳ぐための体型があって、はじめて句が生きてくる。英語では、鮪を「tuna(ツナ)」と言う。ギリシャ語の「突進」という言葉に由来するそうだ。古代から、鮪の高速遊泳に、人々は目を瞠っていたというわけである。すなわち、鮪は一生をひたすら「突進」しつづける魚ということであり、比べれば鯛や平目のイメージは休み休み泳いでいるような感じがする。一生を突進しつづけるとは、勇壮にして豪放だ。が、他方では、何故に突進しなければならないのか。何故に、そんな運命に生まれついたのか。そうした哀しい感情もわいてくる。そういう句だと思う。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


October 21102002

 釣月軒隣家の柿を背負ひをり

                           星野恒彦

釣月軒
蕉の生家(三重県上野市)の奥の離れが「釣月軒(ちょうげつけん)」。粋な命名だ。『貝おほひ』執筆の書斎であり、その後も帰省するたびに立ち寄っている。生家とともに当然のように観光名所になっているが、私は行ったことなし。ただ、写真はそこら中に溢れているので、行かなくても、だいたいの様子はわかったような気になっていた。しかし、掲句ではじめて「隣家(となり)」に大きな柿の木があることを知り、私の中のイメージは、かなり修正されることになる。まさか芭蕉の時代の柿の木ではないにしても、柿を植えるような庭のある隣家と接していたと思えば、にわかに往時の釣月軒のたたずまいが人間臭さを帯びてきたからだ。観光用や資料用の写真では、私の知るかぎり、この柿の木は写っていない。「背負ひをり」と言うくらいだから、この季節だと写り込んでいてもよさそうなものだが、写っていたにしても、すべてトリミングで外されているとしか思えないのだ。なぜ、そんな馬鹿なことをするのだろう。釣月軒であれ何であれ、建物は周囲の環境とともにあるのであって、それを写さなければ情報の価値は半減してしまうのに……。俳句は写真ではないけれど、作者はただ見たままにスナップ的に詠んだだけで、軽々と凡百の写真情報を越えてしまっている。釣月軒を見たこともない私に、そのたたずまいが写真よりもよく伝わってくる。「背負ひをり」はさりげない表現だが、建物のありようをつかまえる意味において、卓抜な措辞と言うべきだろう。写真は、よくある釣月軒紹介写真の例。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


November 02112002

 換気孔より金管の音柿熟るる

                           星野恒彦

うかすると、こういうことが起きる。「換気孔」からは空気が吐き出されてくるのだが、管を伝って音が出てきても不思議ではない理屈だ。いつだったか、我が西洋長屋の台所の換気扇から、かすかながらも表の人声が聞こえてきたことがある。はじめは幻聴かなと思ったけれど、そうではなかった。できるだけ換気扇に耳を近づけてみると、明らかに女性同士の話し声だと知れた。表の換気孔の近くで、立ち話をしていたのだろう。そんな体験もあって、掲句が目についた。この場合には、作者は戸外にいる。「金管(ブラス)の音」が聞こえてくるのだから、普通のマンションなどの近くではないだろう。学校などの公共の建物のそばだろうか。もとより作者に金管の正体は見えないわけだが、吹奏楽などの練習の音が漏れ聞こえてきているようだ。「柿熟るる」ころは学園祭のシーズンでもあるので、金管の音と熟れている柿との一見意外な取り合わせにも、無理がないと感じられる。金管楽器にもいろいろあるが、換気の管によく伝わるのは高音の出るトランペットの類か。いずれにしても、たわわに実った柿の木の上空は抜けるような青空であり、気持ちの良い光景に更にどこからともなくブラスの音が小さく加わって、至福感がいっそう高まったのだ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


April 1442003

 棚霞キリンの頸も骨七つ

                           星野恒彦

語は「棚霞(たながすみ)」で春。横に筋を引いたように棚引く霞とキリンの長い首。縦横の長い取り合わせが、まず面白い。句の註に「哺乳類の頸骨はみな七個」とあって、実は私はこれを知らなかった。知らないと「頸(くび)も」の「も」がわからない。そうか、あんなに長い首にも、人間の首と同じように「七つ」の骨しかないのかと思うと、なんだか妙な感じがする。逆に、人間の首に七つも骨があるのかと首筋を触って見たくなる。そんな感じで、作者は何度かキリンを見上げたのだろう。おあつらえ向きに、七つの骨の部分の背景に七つの筋を引いて、霞が棚引いている。と解釈してしまうと、かなりオーバーだけど(笑)。でも、詠まれた環境の理想的な状態は、そのようであればそれに越したことはないのである。あらためて調べてみたら、キリンの身長は肩高3.6メートル、頭頂高5〜5.5メートルほどである。体重ときたら、雄で800〜900キロ、雌で550キロ程度だという。これくらいデカいと、世の中の見え方も相当に違うのだろう。この句は上野動物園で詠まれているが、自慢じゃないが、東京に住みながら、私は一度も入園したことがない。この記録は、もったいなくて破る気がしない。そんなわけで、よくキリンを見たのは、大学時代の大阪は天王寺動物園でだった。そのころは長い首のことよりも、よくもまああんなに涎(よだれ)が垂れるものよと、いつも感心してたっけ。キリンの寿命は20年ほど。だとしたら、もうあのキリンはいない計算になる。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


September 0692003

 はるばると糸瓜の水を提げてきし

                           星野恒彦

語は「糸瓜(へちま)」で秋。前書きに「岳父信州より上京」とある。三十年ほど前の句だから、当時の信州から東京までは「はるばると」が実感だったろう。そんな遠くから、岳父(義父)が「糸瓜の水」を提げてやってきた。娘、すなわち作者の妻へのお土産だ。自宅で採水したものを一升瓶に詰めてある。そのころの化粧水事情は知らないが、たぶんこうした天然物の人気は薄かったのではあるまいか。そんな事情にうとい父親が、壊れやすくて重いのに、はるばると大事に抱えて持って来た親心。もらった側では、その物にさして有り難みを感じなくても、その心情には頭が下がる。句は言外に、そういうことを言っているのだと読んだ。いつか書いたような気もするけれど、一つ思い出した話がある。こちらは四十年ほど前のこと。東京で暮らす友人のところに、叔父から電話がかかってきた。東京駅にいるのだが、もう動けないので迎えに来てくれと言う。山陰に住んでいる叔父で、農協か何かの旅行で北海道に出かけたことは知っていた。うだるような暑い日だったから、てっきり急病で下車したのかとタクシーで駆けつけてみたら、ホームで真っ赤な顔をした叔父が、大きな荷物に腰掛けて心細そうに団扇でぱたぱたやっている。どうしたのかと尋ねると、破顔一笑、立ち上がった叔父が腰掛けていた荷物を指して曰く。「お前にな、どうしても本場のビールをのませてやりたくて」。見ると、その箱には大きく「サッポロビール」と書いてあった。むろん、そこらへんの酒店で売られているものと同じだった。ちょっといい話でしょ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


October 23102003

 松手入梯子の先に人探す

                           星野恒彦

語は「松手入(まつていれ)」で秋。松の木の手入れ。晩秋、新葉が完全に伸び切り古葉が赤くなってくると、古葉を取り去り樹形をととのえ、来年の芽を整備する。非常に難しい作業だそうだ。通りすがりの松の木の下にたくさんの古葉が落ちていたのか、あるいは木の上で鋏の音がしていたのか。思わず作者は、立て掛けてある「梯子」をたどって上にいるはずの「人」を探したと言うのである。それだけのことながら、俳句ならではの作品で面白い。えっ、どこが面白いの、それがどうしたの。そう思う読者もいそうだ。もちろん「それがどうしたの」という世界なのだが、面白いのは詠まれている中身ではなくて、その詠み方である。誰もが日頃ほとんど無意識的に働かせている目の動きを、意識的に言葉にしたところだ。人が目で何かを探すときには、必ず手がかりを求め、それをたぐっていく。この場合は梯子であり、たとえば空飛ぶ鳥を探すときには鳴き声を手がかりにし、美味しそうな匂いをたぐって食物を見つけたりする。すなわち、探す目は手がかりを得なければ働かないメカニズムを持っているわけだ。ま、手がかりがなければ、探そうとはしないのだが……。そのメカニズムの一例を句は具体的に表現して、人の目の働き方万般について述べたのである。面白くないと思う読者がいるとしたら、たぶんここらへんを読もうとしないからだろう。掲句の場合には、一見中身と思えるものは実は句の上っ面なのであって、表面的に読まれると作者は大いに困ってしまう。俳句ならではと言った所以だ。なお余談ながら、手品師は多くこのメカニズムを利用する。或るものを手がかりと思わせておき、客の目線をあらぬ方向に誘導するテクニックに長けている。『邯鄲』(2003)所収。(清水哲男)


June 1662005

 堀こえてにはとりの声梅雨小止む

                           星野恒彦

陶しい梅雨の長雨が、どういう加減からか、すうっと降り止んだ。心無しか、空も明るくなっているようだ。こういうときには単純に心が明るくなってくるものだが、その明るい心が、堀の向こう側で鳴いている「にはとりの声」を捉えたのである。「声」はいわゆる「コケコッコー」の鶏鳴ではなく、「ククククッ」といったような雌鳥のかすかな鳴き声だろう。このときに限らず、その声はいつでも聞こえているはずなのだが、普段はほとんど気がつかない。すなわち、私たちの耳はそのときの心持ちによって、聞いたり聞かなかったりしているわけだ。長雨の小休止でほっとした耳に、同じように鬱陶しさを耐えていたのであろう「にはとり」の洩らした鳴き声の、何と明るく心地よいことか。そのかすかな声には、同じ生き物として通い合う心が宿っているかのようである。句集によれば、作句は1985年(昭和六十年)だ。そんなに昔の句ではない。となれば、この声は遠くの大きな養鶏場から聞こえてきたとも解釈できるが、しかし「にはとり」の表記の意図は、やはり多くても二三羽の鶏を指しているのだと思われる。小さな農家の小さな鶏小屋。そんな懐かしいような風景が堀の向こう側にあってこそ、この句は生きてくる。たとえ想像句であったとしても、そんな現実の世界のなかで味わいたいものだ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


October 24102005

 透く袋ぱんぱん桜落葉つめ

                           星野恒彦

語は「落葉」で冬。多くの木々の落葉にはまだ早いが、桜は紅葉が早い分だけ、落葉も早い。近所に立派な桜の樹があって、昨日通りかかったら、もうはらはらと散り初めていた。掲句は半透明のゴミ捨て用の袋に、散り敷いた「桜落葉」を集めて詰め込んでいるところだ。かさ張るのでぎゅうぎゅうと押し込み、ときおり「ぱんぱん」と袋を叩いて隙間を無くするのである。「ぱんぱん」という乾いた音が、よく晴れた秋の日差しに照応して心地よい。近隣の秋のフェスティバルだったか、あるいは保育園の催しだったか、参加者は「落葉を持ってきてください」と呼びかける広報紙を見たことがある。たしか持参者には、落葉の焚火での焼芋を進呈すると付記されていた。なかなかに粋な企画ではないか。そうして集めた落葉を何に使うのかというと、子供たちのために「落葉のプール」を作るのだという。そこら中に落葉を敷きつめて、その上で子供たちが転がったりして遊ぶためのふかふかのプールだ。実際に見に行かなかったのだけれど、面白い発想だなと印象に残っている。このときもおそらく主催者側では、集まる落葉の量がアテにならないので、掲句のように「ぱんぱん」と袋に詰めてまわったのだろう。どこにでもありそうな落葉だが、いざ意識的に集めるとなると、都会では大変そうだ。私はといえば、ときに本の栞りにと、銀杏の葉などを一二枚拾ってくるくらいのものである。「ぱんぱん」の経験はない。『邯鄲』(2003)所収。(清水哲男)


December 03122013

 目閉づれば生家の間取り冬りんご

                           星野恒彦

から覚めてぼんやりしている時間に、ふと今居る場所がわからなくなることがある。目に入る情報でだんだんと現実をたぐり寄せるが、なぜかいつも幼い頃を過ごした実家の天井ではないことに不安を覚え、「ここはどこ?」と反応していることに気づく。人生の五分の一ほどしか占めていないはずの家の襖や天井の木目まで、今も克明に覚えているのは、そこが帰る場所ではなく、生きていく日々の全てを抱えていたところだったからだろう。元来秋の季語である林檎だが、貯蔵されたものは冬にも店頭に並ぶ。様々な果物の色があふれる秋ではなく、色彩のとぼしくなった冬のなかに置かれた鮮やかさに、作者の眼裏に焼き付いた生家がよみがえる。閉じられた目には、家族や友人の姿があの頃のままに描かれていることだろう。『寒晴』(2013)所収。(土肥あき子)




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