2000N9句

September 0192000

 九月はじまる無礼なる電話より

                           伊藤白潮

あ、今日から九月。学校もはじまり、人々の生活も普段の落ち着きを取り戻す。気分一新。さわやかにスタートといきたかったのに、受話器を取ったら、まことに不愉快な電話だった。張り切ろうとした出鼻をくじかれた。プンプン怒っている作者の姿が、目に浮かぶ。同情はするけれど、なんとなく滑稽でもある。伊藤白潮は、このような人事の機微を詠ませたら、当代一流の俳人だ。なんとなく滑稽なのは、それこそなんとなく私たちが抱いている「九月」の常識的なイメージを、ひょいと外しているからである。この外し方の妙が、滑稽味を呼び寄せる。むろん、作者は承知の上。なんでもないようでいて、そこが手だれの腕の冴えと言うべきだろう。季語に執しつつ、季語にべたべたしない。実作者にはおわかりだろうが、この関係を句に反映させるのは、なかなかに困難だ。その意味で、掲句は大いに参考になるのではなかろうか。……と、私の「九月」は、この短い観賞文からはじまりました。あなたの「九月」は、どんなふうにはじまったのでしょう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 0292000

 朝顔にうすきゆかりの木槿かな

                           与謝蕪村

槿(むくげ)の花盛りの様子は、江戸期蕉門の俳人が的確に描いているとおりに「塀際へつめかけて咲く木槿かな」(荻人)という風情。盛りには、たしかに塀のあたりを圧倒するかの趣がある。とくに紅色の花は、実にはなやかにして、あざやかだ。残暑が厳しいと、暑苦しさを覚えるほどである。ところで、掲句。なんだかうら寂しい調子で、およそ荻人句の勢いには通じていない。それは蕪村が、木槿に命のはかなさを見ているからだ。たいていの木槿は早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまう。そこが朝顔との「うすきゆかり」なのである。花の命は短くて「槿花一日の栄」と言ったりもする。しかし私には、どうもピンとこない。たとえ盛りを過ぎても、木槿の花にこの種の寂しさを感じたことはない。理屈としては理解できるが、次から次へと咲きつづけるし花期も長いので、むしろ逞しささえ感じてきた。桜花の短命とは、まったく異なる。『白氏文集』では、松の長寿に比してのはかなさが言われているから、掲句は実感を詠んだというよりも、教養を前面に押し立てた句ではないだろうか。句の底に、得意の鼻がピクッと動いてはいないか。そんな気がしてならない。一概に教養を踏まえた句を否定はしないけれど、これでは「朝顔」が迷惑だろう。失敗した(!?)理屈句の見本として、我が歳時記に場所を与えておく。(清水哲男)


September 0392000

 赤とんぼまだ日の残る左中間

                           上谷昌憲

の季節の野球場。ナイト・ゲームは、午後六時開始。カクテル光線と沈みゆく夕日の光りとが入り交じったグラウンドの場景は、夢のように美しい。作者は、まだ残る「左中間」の自然光の明るさのなかに「赤とんぼ」を認めて、和田誠流に言えば「お楽しみはこれからだ」と、もう一度座り直したところだろうか。野球を素材にした俳句は数あれど、球場の心地よい雰囲気を詠んだ句には、はじめて出会った。神宮だろうか、横浜だろうか。いいなあ、行きたいなあと思ってしまう。エポック社の野球ゲーム盤みたいなドーム球場では、絶対に味わえない雰囲気だ。「赤とんぼ」も含めての野球なのである。その昔、ある雑誌の企画で川本三郎さんと「全国球場めぐり」をしたことがある。もったいなくもゲームはそっちのけで、あくまでも「球場」が取材対象だった。なかで印象深かったのは、広島球場と名古屋球場、それに西宮球場だ。広島では応援団の絶妙なユーモアに舌を巻き、名古屋では売られている食べ物の種類の豊富さに驚いた。西宮では、まさに掲句の感じ。思えば「阪急ブレーブス」(現在の「オリックス」)に、落日の兆しがほの見えていた頃である。あのころの球場には「赤とんぼ」も飛んでいたし、蝶も舞っていた。日本シリーズで、巨人・牧野三塁コーチャーに戯れるように舞っていた秋の蝶よ、後楽園球場よ。懐しい日々。「俳句界」(2000年9月号)所載。(清水哲男)


September 0492000

 切るだけで貼らぬ切抜き秋暑し

                           後藤雅夫

聞や雑誌の記事の「切抜き」。仕事にせよ趣味にせよ、あれはなかなか面倒なものだ。切り抜くだけは切り抜いても、きちんとスクラップ・ブックに貼っておかないと、用をなさない。つい、切り抜いたままにしてしまう。それが、どんどん溜まってくる。作者の机上にあるのは、おそらく今日の「切抜き」だけではないのだろう。涼しくなったらちゃんと整理しようと思っていたのが、いっこうに涼しくなってくれない。残暑が厳しい。だから、今日も面倒になって、切り抜いたままで放置してしまった。もちろん、大いに気にはなっている。その気持ちが「秋暑し」に、ぴたりと結びついている。私にも「切抜き」の覚えがあるので、よくわかる。何度もチャレンジして、一度も成功しなかった。本棚にはスクラップ・ブックが数冊あるが、引っ張り出すと、ばらばらっと貼ってない「切抜き」が抜け落ちてくる。おのれの怠惰を見せつけられたようで、愉快な気分じゃない。ならば貼らないで整理しようかと、山根一眞流に、項目分けした袋に放り込む方針に転換した。「俳句」の記事は「俳句」と書いた袋に、「野球」関係は「野球」の袋にと。この方法はけっこう長続きしたが、そのうちに切り抜くこと自体が面倒になり、あえなく頓挫。こういうことは、性に合わないらしい。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)


September 0592000

 んの字に膝抱く秋の女かな

                           小沢信男

立ての妙。「余白句会」で、満座の票をかっさらった句だ。たしかに「んの字」の形をしている。「女」は、少女に近い年齢だろう。まだあどけなさを残した「女」が物思いにふけっている様子だから、その姿に「秋」を感じるのだ。「んの字」そのものが、相対的に見ると、独立した(成熟した)言語としての働きを持たないので、なおさらである。爽やかさと寂しさが同居しているような、秋にぴったりの風情。からっとして、ちょっぴり切ない風が、読者に吹いてくる。佐藤春夫の詩の一節に「泣きぬれた秋の女を/時雨だとわたしは思ふ」(表記不正確)があり、同じ「秋の女」でも、こちらには成人した女性を感じさせられる。時雨のように、この「女」はしめっぽい。そして、色っぽい。ついでに、私がそらんじている「女」の句に、島将五の「晩涼やチャックで開く女の背」がある。「晩涼」は、夏の夕暮れの涼しさ。小沢信男は「女」を横から見ているが、島は背後から見ている。すっとチャックを降ろしたとすると、真っ白い背中が現われる。……という幻想。これだけで涼味を感じさせる俳句も凄いが、考えてみたらそうした感覚を喚起する「女」のほうが、もっと凄い。ねえ、ご同役(??)。「男」だって、簡単に「んの字」くらいにはなれる。いまどきの「地べたリアン」なんて、みんなそうじゃないか。などと、冗談にもこんなことを言うヤツを、常識では野暮天と言う。小沢や島、そして佐藤の「粋」が泣く。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


September 0692000

 やはらかに人わけゆくや勝角力

                           高井几菫

力(相撲)は、元来が秋の季語。勝ち力士の所作が「やはらかに」浮き上がってくる。六尺豊かな巨漢の充実した喜びの心が、よく伝わってくる。目に見えるようだ。相撲取りとは限るまい。人の所作は、充実感を得たときに、おのずから「やはらか」くなるものだろうから……。だから、私たちにも、この句がとてもよくわかるのである。もう一句。角力で有名なのは、蕪村の「負まじき角力を寝物がたり哉」だ。負け角力の口惜しさか、それとも明日の大一番を控えての興奮か。角力を「寝床」のなかにまで持ち込んでいる。蕪村は「角力」を「すまひ」と読ませていて、取り口を指す。さて、解釈。蕪村の芝居っ気を考えれば、負け相撲の口惜しさを、女房に訴えていると解釈したいところだ。が、この「寝物がたり」のシチュエーションについては、昔から三説がある。力士の女房との寝物語だという説。そうではなくて、相撲部屋での兄弟弟子同士の会話だとする説。もう一つは、力士ではなく熱狂的なファンが妻に語っているとする説。どれが正解だとは言えないが、そこが俳句の面白さ。読者は、好みのままに読めばよい。ファン説は虚子の解釈で、これを野球ファンに置き換えると、私にも思い当たることはあった。すなわち「一句で三倍楽しめる」句ということにもなる。(清水哲男)


September 0792000

 秋の雲ピント硝子に映りけり

                           籾山庭後

書に「海岸撮影」とある。詠まれたのは、明治末期か、大正初期だ。海岸の写真を撮るべく写真機をセットしたら、ファインダー(ピント硝子)に雲が映った。その雲の形は、既に秋のそれだった。それだけの写生句だが、写真機を通じて秋の雲にはじめて気がついたところに、作者の喜びが表現されている。「映りけり」が、それを伝えている。写真の面白さの第一歩は、このあたりにあるのだろう。人間の目は、あらゆる風景や物などを、いわば勝手に見ているので、見ているはずが気がつかないことも多い。作者の肉眼には海岸の形状だけが見えていて、その上に浮かぶ雲などは、見えてはいても見ていなかったのである。それが写真機の「ピント硝子」を覗いてみると、見えていなかった雲までが形として鮮明に飛び込んできた。写真機の目は風景を切りとり、切り取ったシーンについてはすべてを公平に映し出すから、人間の目とは似て非なる目だ。ましてや、この写真機はピントとフレームを決めたら、フィルムならぬ「乾板(かんぱん)」を差し込んで写すタイプのもの。撮影者が「ピント硝子」を見るためには、黒い布を被らなければならない(昔の学校に来た写真屋さんが、そんな格好で記念写真を撮ってくれましたね)。黒い布で自分の目が現実の外界から遮断されることで、余計に、それまで見えていなかったものが見えてくる理屈となる。「ピント硝子」は、磨りガラス製。海岸風景は、逆さまに映っている。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)


September 0892000

 手拭に桔梗をしほれ水の色

                           大高源五

古屋から出ている俳誌「耕」(加藤耕子主宰)をご恵贈いただいた。なかに、木内美恵子「赤穂義士・大高源五の俳句の世界」が連載されていて、飛びついて読んだ。源五が俳人(俳号・子葉)であり、其角と親しかったのは知っていたが、きちんと読んだことはない。掲句は、木内さんが九月号に紹介されている句で、一読、賛嘆した。詠んだ土地は、江戸から赤穂への途次に宿泊した見付の宿(現・静岡県磐田市)だと、これは源五が書いている。残暑の候。そこに「丸池」という美しい池があり、源五は首に巻いていた「手拭」を水に浸した。池辺には、桔梗の花(と、これは私の想像)。「しほれ」は「しぼれ(絞れ)」である。句は、桔梗を写す水に浸した真っ白い手拭いを絞るときに、桔梗の花のような色彩の「水の色」よ、出でよと念じている。念じているというよりも、桔梗色の水が絞り出されて当然という感覚だ。「桔梗をしほれ」とは、そう簡単には出てこない表現だろう。本当に、桔梗の花を両手で絞るかの思いと勢いがある。源五がよほど俳句を修練していたことがうかがえるし、その前に、動かしがたい天賦の才を感じる。其角とウマが合ったのも、わかる気がする。赤穂浪士切腹に際して、其角が次の句を残したのは有名だ。「うぐひすに此芥子酢はなみだかな」。源五を生かしておきたかった。(清水哲男)


September 0992000

 別荘を築きて置くぞ大銀河

                           中川清彌

内稔典さんから、新著『俳句的人間 短歌的人間』(岩波書店)をいただいた。掲句は、集中の「楽しい辞世の句」に引用されている句だ。といっても、これは坪内さんが『一億人のための辞世の句』(蝸牛社)のために、全国から募集したなかの一句だから、作者が亡くなっているわけではない。いま死ぬとしたら、こんな句を作りますよということである。句意は「私が先に行って、大銀河の一等地に別送を築いておくから、何も心配しないで後からお出で」と、そんなところ。銀河に別荘とは豪勢だが、作者はよほど現実世界での別荘に憧れていると読める。この世ではかなわない夢を、あの世で果たそうというわけだ。イジマシくも、イジラしい。そして、優しい人柄……。坪内さんも書いているように、辞世句の試みなど、死をもてあそぶものだと反発する人もいるだろう。しかし、その気になって試みてみると、これがなかなかに面白い。たった十七文字に、いわば自分の生涯を凝縮させるわけだから、あれこれと悩み推敲しているうちに、時間がどんどん経ってしまう。自己発見の面白さ。でも、死は待ってくれないので、どこかで思い切ることも必要だ。とにかく、自分の地金があらわになることだけは必定で、秋の夜長の過ごし方の一法としてお薦めしておきたい。(清水哲男)


September 1092000

 不漁の朝餉鍋墨につく静かな火

                           佐藤鬼房

漁かが不明なので、無季句としておく。「不漁」に「しけ」のルビ。漁師の生活は知らないが、早朝の漁から戻っての朝餉の場面かと思う。大漁であれば活気に満ちる朝餉の座も、沈欝な雰囲気に包まれている。不漁が、もう何日もつづいているのだ。自在鉤(じざいかぎ)で囲炉裏に吊るした鍋のなかでは、いつものようにグツグツと海の物が煮えている。が、みな押し黙っている。ときおり鍋墨(なべずみ)に移った小さな火片が、静かに明滅している。掲句の鋭さは、落胆した人間の視線の落とし所を、的確に捉えているところだ。心弱いとき、人は視線をほとんど無意識のままに弱々しいものに向けるようだ。茫然とした心は、知らず知らずのうちに静かで弱々しいものに溶け込んでいくのか。そこで、すさんだ心情のいくばくかは慰謝され治癒される。この視線の動きは人間のこしゃくな知恵によるのではなくて、自然にそなわった(換言すれば、天が与え給うた)自己救済へとつながる身体的機能の一つだろう。だから、この句が特殊なシチュエーションを描いてはいても、普遍性も持つのである。ところで現代では、もはや囲炉裏で煮炊きする生活は消えてしまった。実際に「鍋墨」を知らない人のほうが、多くなってきただろう。このときに、私たちの日常生活における「静かな火」は、どこにあるのだろうか。心弱い視線の現代的な落とし所は、どこにあるのか。合わせて、考えさせられた。『海溝』(1976)所収。(清水哲男)


September 1192000

 十五から酒をのみ出てけふの月

                           宝井其角

秋の名月には「十五夜」「望月」「明月」などいろいろな言い方があって、「けふの月(今日の月)」もその一つ。なかには「三五の月」という判じ物みたいな季語(3×5=15)もある。それぞれに微妙なニュアンスの差があり、「けふの月」には「今年今月今夜のこの月」をこそ愛でるのだという気合いがこもっている。「月今宵」とほぼ同じ感覚だ。さて、数え年で十五といえば、まだ中学二年生。「のみ出て」は「常飲しはじめて」の意味で、好奇心からちょっと飲んでみたのではない。其角がその一年前に蕉門に入っていることを考え合わせれば、現代の目からすると、よく言えば早熟、悪く言えばずいぶんとひねこびた子供だった。しかし、元服(成人式)が最若十一歳くらいから行われていた時代なので、現代とはかなり事情が違う。が、こうして其角があらためて「十五から」と回想しているくらいだから、子供の酒飲みはそんなにいなかったのだろう。陰暦では月の満ち欠けが時間の指標だったわけで、これまた現代人とは大いに月の見方は異なっている。すなわち「けふの月」に来し方を回想するのは、当時の人々にとってはごく自然な心の働きだったはずだ。その回想の基点を「十五夜」にかけて「十五」という年齢に定め、しかも月見の宴にかけて「飲酒」に焦点を絞ったところは、やはり非凡な才能と言うべきか。とにかく、カッコいい句だ。思い返せば、私が「のみ出」したのは二十歳を過ぎてから。かたくなに法律を守ったかのようで、カッコわるい。なお、今年の名月は明日12日です。(清水哲男)


September 1292000

 月に行く漱石妻を忘れたり

                           夏目漱石

まりの月の見事さに、傍らの妻の存在も忘れてしまった。と、ちょっと滑稽な味付けで月を愛でた句。句意はこの通りでもよいのだが、前書に「妻を遺して独り肥後に下る」とある。漱石が1897年(明治三十年)に、熊本は五高の教授として単身赴任するときの句だ。このときの漱石には、妻を忘れようにも忘れられない事情があった。妻の鏡が流産して静養中の身だったからだ。一緒に行こうにも、行けなかった。止むを得ぬ単身赴任。そこで『吾輩は猫である』の作者は、境遇を逆手にとった。わざと事実を詠み違えた。肥後の月の美しさに魅かれて、俺はお前のこともすっかり忘れて出かけるんだよ。俺のことなど案じるなかれと、病む妻に反語的ながら、慈愛の心で挨拶を送っているのだ。当時の単身赴任は、相当に心細かったろう。胃弱の漱石のことだから、ちくりちくりとと胃の痛む思いだったろう。だから掲句は、同時に心細い我とわが身を励ますためのものだったとも読める。そうに違いない。月を詠んだ句はヤマほどあれど、この一見あっけらかんとした句には、異色の味わいがある。噛めば噛むほど、味が出る。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)


September 1392000

 木瓜の實をはなさぬ枝のか細さよ

                           後藤夜半

目は「はなさぬ」にあるのだろう。「はなさぬ」だから、木瓜(ぼけ)の枝は我とわが身の一部を「にぎっている」のである。木瓜の木を、擬人化しているわけだ。数日前にこの句を読んで、つくづくと「木瓜の實」がなっている姿をみつめることになった。近所にあるので、何度か見に行った。たしかに「か細い」枝である。直径三センチくらいの球形の実が、さながらサクランボのように、あちこちにかたまってなっている。物理的な必然から、当然に「か細い」枝はしなっている。夜半の書いたとおりだ。私は一度も、木瓜の枝など注視したことはなかったので、さすがに俳句の人は凄いもんだと感心した。でも、いくら熱心に見ても「はなさぬ」という見立てには通じなかった。この擬人化は何のためなのだろうかと、逆に疑念がわいてきてしまった。よく、わからない。悩んだあげくの(いまのところの)結論として、「か細さよ」を強調するためのテクニックだろうと決めてみた。しなった枝に、人間並みの「健気さ」を見ているのだと……。好意的にこれをとって、作者の身近に「擬木瓜化」したいような健気な「人」が存在していたのだろうと……。「木瓜」を詠んで「人」を詠んだのだと。実は私は、たいした理由根拠もないけれど、どうも動植物の擬人化が好きになれない。チャーリー・ブラウンは好きですが、スヌーピーはそんなに好きじゃないのです。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


September 1492000

 ローソンに秋風と入る測量士

                           松永典子

量士もそうだが、警官や看護婦や運転士や客室乗務員など、職場で作業着(制服)を着用して働く職業は多い。着用していると、機能的に仕事がしやすいという利点や、仕事中であることのサインを服自体が発するという利便性があり、権威に結びつくこともあるが、元来はそういう種類の衣服だ。ただ、作業着着用の人の職業が何であっても、共通しているのは、まったく日常的な生活臭を感じさせない点だ。職業に集中したデザインの服は、職業以外の何かを語ることはない。その意味で、着用している人は極度に抽象化された存在となっている。ポルノで「制服モの」に人気があるのは、抽象化された人間の具体を暴くための装置として、制服が位置づけられているからである。掲句は、抽象的な職業人の一人である「測量士」を「ローソン」に入らせたことで、瞬間的にふっと彼の生活臭を垣間見せている。弁当でも求めに入ったのだろう。この測量士の入るところが「ローソン」ではなく、たとえば事務所や公共的な建物だったら、このような生活臭は感じられない。生活のための商品をあれこれ売っている「ローソン」だからこそ、ふっと彼の生活臭がにおってくるのだ。爽やかな「秋風」に運ばれて……。作者の鋭敏な臭覚に、敬意を表する。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


September 1592000

 老人の日喪服作らむと妻が言へり

                           草間時彦

じめは「としよりの日」だった。1951年(昭和26年制定)。それが1964年(昭和39年)に「老人の日」と変わり、その二年後には現在の「敬老の日」となる。かくして戦後の「としより」は、国家から三段階で祭り上げられてきたわけだ、言葉の上だけで……。掲句は、たった二度しかなかった珍重すべき「老人の日」に詠まれている。「老人の日」と聞いて抽象的に「敬老」を思う人もいるだろうが、多くの人があらためて思うのは、身近にいる老人のことだろう。老人を自覚している人はもちろん、そうでない人も「老人」につづけて連想するのは「死」だ。今度の冬が越えられるか。そういうことを、誰もがちらりと思う。で、いざというときに必要なのは「喪服」であり、そのことを妻がずばりと切り出したことに、作者は驚いている。身内の葬儀ともなれば、ちゃんとした喪服が必要なことくらい作者にもわかってはいるのだけれど、まだまだ時間的な余裕があると思いたいし、なかなか作る気にはなれないでいた。その優柔不断を、正面から突かれた。国家の押しつけた「老人の日」にも、こんな実効性があった。喪服は、多くの夫婦がおそろい(ペア・ルック)で作る最初にして最後の衣服だ。そう思うと、可笑しくもあり物悲しくもある。『淡酒』(1971)所収。(清水哲男)


September 1692000

 仲よしの女二人の月見かな

                           波多野爽波

性の読者には、案外難解に写るかもしれない。詠まれている情景ではなく、なぜこんな句を詠むのかという作者の心持ちが……。男同士の「仲よし」だと、こんな具合の句にはならないだろう。ここで爽波は、「仲よしの女二人」の姿に、単に微笑を浮かべているのではない。月見の二人は、作者の家族である姉妹か母娘か。いずれにしても、血の通った女同士だと読める。他人同士と読めなくもないが、そうすると、その場に居合わせている作者との関係に無理が生じる。自宅の庭先での「月見」とみるのが自然だ。作者は二人から少し離れた位置にあり、もちろん微笑はしているが、他方でかすかな疎外感も覚えている。作者は、女たちの「仲よし」ぶりに入っていけない。べつに入りたいわけじゃないし、無視されているのでもないけれど、どこかで「月見」の場が彼女たちに占拠されているような、そんな不思議な気分なのだ。だから、自分もその場に存在するのに、あえて「二人の月見」と詠んだわけである。我が家は私と女三人の家族だから、こういう感じは日常茶飯に起きる。毎度のこと。「つまるところ、女同士は血縁しか信じない」と言った女性(誰だったかは失念)の言葉を、たまに思い出す。「仲よし」の構造が、どうも男とは違うようだ。その意味から言えば、武者小路実篤の「君は君、僕は僕、されど仲よき」なんて言いようは、まさに男ならではの発想であって、これまた女性には、なかなかわからない言葉ではないかと愚考する次第。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


September 1792000

 栗飯に間に合はざりし栗一つ

                           矢島渚男

ヤリ。語意の二重性から、ぽろりと滑稽味が転がり出てくる句。普通に読めば、栗飯(くりめし)に炊き込むには、虫食いか何かで適当でない(間に合わない)栗が、ぽつねんと一つ寂しく残されてあるということだ。おそらく、作者の発想はそこから出ているのだろう。が、栗の役立たずを言うときに「間に合はざりし」と、故意に「時間に間に合わない」とも読める言葉を使用することで、栗の様子がかなり変化した。栗飯の支度に間に合うよう一所懸命に走ってきたのに、「遅かりし、ユラノスケ……」と言われてしまった(笑)。きっと「サルカニ合戦」の栗のように、口を「への字」一文字に曲げているのだ。そんな隠し味が仕込まれている。そうすると、眼前の「栗一つ」が、健気にも可愛いくも見え、いっそう哀れにも見えてくる。存在感が拡大されている。私はあまり擬人化が好きではないが、この程度の諧謔的な範囲での使用ならば許容できる。栗といえば、同じ作者に「栗に栗虫人間に人間虫」がある。こちらは、なかなかにキツい。身にコタえる。ああ、「クリゴハン」が食べたくなってきた、作るのは面倒だけど。吉祥寺「近鉄」の地下で売ってるのは、知ってるけど。商品の栗飯は美味いといえば美味いけど、まったく失敗の味がしないので、好きじゃない。一般的な「正義」の味でしかない。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


September 1892000

 刈田ですわたくしたちの父たちです

                           小川双々子

を刈り取ったあとの田圃(たんぼ)、整然と切り株が並んでいる。散髪したての頭のように、さっぱりとして見える。農村で暮らした子供のころの私は、さあ、今年もここで野球ができるぞと勇み立った。勇み立って、たしかに盛んに野球をやったけれど、最初はなんだか足の裏が痛いような感じも覚えたものだ。刈田とはいえ、田圃が決して遊び場ではないことを知っていたからである。農家の生命源であることくらいは、農家の子なら誰にでもわかっていた。そんなわけで後年、掲句に接して、あっと思った。足の裏が痛かったのは「わたくしたちの父たち」を理不尽にも踏んづけていたからなのだ、親不孝だったのだと。田圃は農家の生命源というよりも、人間の生命そのものであったのだと。稲作という労苦の果ての形骸なのではなく、依然として刈田では「わたくしたちの父たち」の労苦が継続している場なのだと……。が、刈田で野球に興じていると、いつしか最初の痛みなど忘れてしまう。たとえ人の生命を踏んづけている認識があったとしても、同じことだったろう。「遊び」一般とは、そういうものだ。それはそれで、仕方がない。恐いのは、興じているうちに、掲句のような視点(考え)を理解できなくなることだと思う。「稔るほどに頭(こうべ)を垂るる稲穂かな」などと説教めかして言われないと、気がつかなくなることだろう。敬虔の念は、説教されて生まれてくるものではない。……と、しかし、これもまた私流の「説教」かしらん(苦笑)。作者はキリスト者。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


September 1992000

 モルヒネも利かで悲しき秋の夜や

                           尾崎紅葉

村苑子が「俳句研究」に連載中の「俳句喫茶室」を愛読している。物故した俳句作家(いわゆる「俳人」だけではなく)の作品にまつわるエピソードや句の観賞がさらりとした筆致で書かれていて、その「さらり」が実に味わい深い。10月号(2000年)では、永井荷風と尾崎紅葉が採り上げられている。そこで掲句を知ったわけだが、胃癌からくる痛みを抑えるための「モルヒネ」だ。中村さんによれば、このときの紅葉はもはや筆が持てず、すべて口述筆記で表現していたという。それにしても、すさまじい執念だ。不謹慎をおもんぱかる前に、このようなヘボ句を次々に書きとめさせた意欲には、笑いだしたくなるほどの凄みがある。ひとたび俳句にとらわれ、没入すると、人は最後までこのように俳句にあい渉るものなのか。『金色夜叉』の門弟三千人の文豪でも、のたうちまわりながら、遂に俳句だけは手放さないのか。このとき、紅葉にとって俳句とは何だったのだろう。笑った後に、ずしりと重たいものが残る。文学の夜叉を感じる。だが悲しいことに、辞世の句とされる「死なば秋 露の干ぬ間ぞ面白き」は、整いすぎていて面白くない。このヘボ句の壮絶さには、とてもかなわない。口述筆記だから、途中で一文字あけた細工(ここをつづめると、たしかに座りは悪くなる)といい、弟子の誰かが死化粧をほどこしすぎたのである。そんな邪推もわいてくる。『紅葉句帳』所収。(清水哲男)


September 2092000

 秋晴や薮のきれ目の渡船場

                           鈴鹿野風呂

風呂(のぶろ)とはまた古風な俳号だが、1971年に亡くなっているから現代作家だ。京都の人。薮の小道を通っていくと、真っ青な空の下にある小さな渡船場が眼前に開けた。そこに、客待ちの舟が一艘浮かんでいる。「やれ嬉しや」の安堵の目に、何もかもがくっきりとした輪郭を持つ風景が鮮やかだ。読者もまた、作者とともにこの風景を楽しむのである。川を横切る交通手段に舟を用いたのは、掲句からもうかがえるように、古い時代ばかりじゃない。たとえば、東京の青梅線は福生駅から草花丘陵に行くには、多摩川にかかる永田橋という橋を渡るが、土地の人はいまでも「渡船場」と言う。私が草花に移住した1952年(昭和27年)には、既に木造の永田橋はかかっていたけれど、やっつけ仕事で作ったような橋の姿からして、戦後もしばらくは舟で渡っていたようだった。草花では「とせんば」と言うが、掲句では「とせんじょう」だろう。虚子門の俳人が、極端な字足らず句を詠むはずもないので……。ところで「秋晴」や「冬晴」はあっても、「春晴」や「夏晴」はない。澄み切った大気のなかの上天気が「晴」なのである。「日本晴」は秋だけだろう。この句をみつけた『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)の解説(辻恵美子)によれば、江戸期に「秋晴」の句はないそうだ。かわるものとして「秋の空」「秋日和」があり、「秋晴」の季題は子規にはじまるという。「秋晴るゝ松の梢や鷺白し」(正岡子規)。覚えておくと、たとえ作者の俳号が古風でも、「秋晴」とあれば近現代の句だとわかる。(清水哲男)


September 2192000

 返球の濡れてゐたりし鰯雲

                           今井 聖

野球。カーンと打たれて、球は転々外野手のはるか彼方の草叢へ。ようやく返ってきたボールは、濡れていた。早朝野球で朝露がついたとも読めるが、濡れたのは、昨夜の雨のせいだ。そうでないと、頭上の「鰯雲(いわしぐも)」が輝かない。この雨では、明日の野球は無理かな。天気予報も雨を告げていることだし、あきらめて寝てしまい、起きてみたら何ということか、快晴ではないか。この嬉しさは、経験の無い人にはわからないだろう。その昔、仲間とチームを作っていたときに、何度か体験した。雨の夜、何回も起き出しては雨の様子をうかがったものだ。ただし、夜に入っての土砂降りは、まず絶望的。翌日晴れても、グラウンドそのものが乾かないからだ。あくまでも、しとしと雨。「しとしと」故、それだけ期待も抱けるのである。したがって掲句は、単にワンプレイを詠んだのではなく、野球が今日こうしてこの場でできている嬉しさを詠んだものだ。作者は、よほどの野球好きだと拝察する。探してみると、野球の句は案外たくさん詠まれているが、その多くは勝ち負けの感情に関わったもので、句のようにプレイ中の心情に触れたものは少ない。わずかに子規のベースボール句や歌には見えるものの、粗っぽすぎるところが難点だ。野球観そのものに、今日とは違いがあったせいもあるけれど、公平に考えて、今井聖の句の方に軍配を上げざるを得ない。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


September 2292000

 われ小さく母死ぬ夢や螽斯

                           小倉一郎

者には申し訳ないが、季語「螽斯(きりぎりす)」の「斯」の表記には虫偏がつく。さて、俳句の「われ」は作者の「われ」であると同時に、読者の「われ」でもなければならない。主体を他者と共有するところが、この短い文学様式の一大特徴だと、長い間「オレがワタシが」の自由詩を書いてきた「私」などには感じられる。このことは、季語を通して時空間を共有することにもつながっている。俳句という表現装置の根底にあるこのメカニズムを踏み外したところに、私の関わる自由詩の存在理由もあるのだけれど、その議論はいまは置いておく。見られるように、掲句の「われ」はそのまま私たちの「われ」になっており、「螽斯」の時空間もまた、私たち読者のものである。だから、この一行は「俳句」なのだ。俳句以外のなにものでもない。と、ここまでは前提。このように主体を読者と共有したとき、なお作者の主体が掲句に感じられるのは、何故だろうか。それは、しぶとくも「夢」に内蔵されたテンスの二重性による。この「夢」は、子供の時に見た夢でもあり、現在の作者が見た「夢の夢」でもある。どちらかと問われても、誰にも答えられまい。作者は、意図的にそこを突いている。「曖昧」にではなく「正確」に、だ。こういう仕掛けができるから、俳句は面白いのである。句は優しく軟らかいのに、固い話になってしまった。小倉一郎は、テレビでもよく見かける俳優。俳号は「蒼蛙(そうあ)」。ご本人にそう言われると、なんとなく似ているような……。『小倉一郎句集「俳・俳」』(2000)所収。(清水哲男)


September 2392000

 秋涼し蹠に感ず水の張り

                           櫛原希伊子

註に、水元公園にてとある。「蹠(あうら)」は足の裏。作者は、池の畔に立っている。天気晴朗なり。ようやく新涼(「秋涼し」は「新涼」のパラフレーズ)の気が四方に充ち、心身ともに快適だ。「水の表面張力が蹠を押しているような気がした。水の中の杭と水辺の私とは涼しさで繋がれる」(自註)。眼目は「感ず」だろう。このような生まな言葉は、ふつうは俳句の外に置いておく。いちいち「感ず」では、小学生の作文じゃあるまいし、うるさくてかなわない。しかし、そんなことは百も承知で、あえて「感ず」を持ち込んだところで、句に力と幅が出た。危険な戦法だが、これで句が強く生きることになった。なぜ、この戦法がとられたのか。試みに「感ず」ではなく「蹠を押して」とでも言い換えてみると、理由がはっきりする。読者の目は「押して」に集中し、それはそれで悪くはないが、句がひどく小さくなってしまう。せっかく作者が「秋涼し」と大きく晴朗に張った構図が、どこかに行ってしまうのだ。だから「感ず」と(「感じただけ」と)、故意に「水の表面張力が蹠を押しているような気」を強調しなかった。隠し味にとどめた。「水の表面張力が蹠を押しているような気」は、作者独自の感覚だ。「なるほどね」と、読者を唸らせる発見であり手柄である。この発見と手柄にすがりつかないことで、作者は「秋涼し」を大きく歌えた。私だと、多分こうはいかない。山っ気を出して、手柄にすがりついてしまう。必然的に、句は小さくなる。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


September 2492000

 邯鄲に美しき客あれば足る

                           京極杞陽

鄲(かんたん)の鳴き声は、ル、ル、ルと夢のように美しい。昨今、各地で邯鄲を聞く会が開かれるのも宜なるかな。句の言うように、加えて「美しき客」があり座敷が匂い立てば、何の不足もない。秋の夜の至福の時である。このときに「美しき客」とは、必ずしも美貌の女性でなくともよいだろう。肝胆相照らし、しかし、互いに礼節はわきまえる間柄の男であれば、やはり「美しき客」である。いずれにせよ、「美しき客」がなおいっそう美しいのは、やがては座敷から去ってしまう人だからだ。楽しき語らいが、夢のように消えてしまうからである。邯鄲の美しい鳴き声も、また消えてゆく。「足る」は寸刻。だから「足る」のであり、それでよい。中国に「邯鄲の夢(「邯鄲の枕」とも)」の故事があって、「邯鄲」の虫の名は、ここに発する。掲句もこの故事を、下敷きにしていると思われる。「[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事)。 人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ」(『広辞苑』第五版)。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


September 2592000

 蓑虫や天よりくだる感嘆符!

                           小沢信男

虫(みのむし)というと、たとえば「蓑虫の寝ねし重りに糸ゆれず」(能村登四郎)など、既にぶら下がっている状態を思うのが普通だろう。既にぶら下がっているのだから、蓑虫の動きは風による水平移動に限定される。「糸ゆれず」も、ゆれるとすれば左右への動きとなる。ところが、掲句は蓑虫の垂直の動きを捉えることで、私たちの観察の常識を破った。すうっと上から下ってきた蓑虫が静止した瞬間を、発止と捉えている。この鮮やかさ。その姿を「感嘆符!」に見立てた切れ味の鋭さ。「!」に見られる諧謔味も十分であり、同時に私たち人間のの感嘆が「天よりくだる」としか言いようのない真実を押さえて重厚である。掲句を読んだあとでは、ぶら下がっている蓑虫を見る目が変わってしまう。垂直に誕生してきた虫を思うことになる。つくづく、この世に俳句があってよかったと嬉しく思う一瞬だ。。作者にとっても、事はおそらく同様だろう。作者にとってのこの一句は、恩寵のように垂直に、それこそ「俳句の天」よりくだりきたものであるはずだからだ。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


September 2692000

 秋の箱何でも入るが出てこない

                           星野早苗

ンスのよいナンセンス句。こういう句をばらばらに分解して解説してみても、はじまらない。丸のみにして、作者に説得される楽しさを味わえれば、それでよい。……と言いながら、一つだけ。「秋の箱」でなくたっていいじゃないか。「春の箱」でも「夏の箱」でもよいのではないか。最初そう思って、他の三つの季節に入れ替えてみた。入れ替えて、一つ一つをイメージしてみた(私もヒマだ)。まずは「春の箱」だが、ふにゃふにゃしすぎており「何でも入る」けれど何でも出てくる感じ。「夏」だと、暑苦しくて何も入れたくない。「冬」にすると、箱の堅牢さは保証されるが、「何でも入る」というわけにはいかないようだ。となれば、やっぱり「秋の箱」。透明にして、容積は無限大。だから「何でも入るが出てこない」。むろん作者は、こんな面倒くさい消去法で「秋」をセレクトしたわけではない。パッとそんなふうに閃いたから、パッと「秋の箱」と詠んだのである。どんな句にも「パッ」はつきものだ。いや、「パッ」こそが命だ。理屈は、後からついてくるにすぎない。同じ作者に「高感度のキリン私が見えますか」がある。パッと「高感度」が光っている。ただし、これらの閃きにパッと感応しない読者もいるだろう。それはそれで仕方がない。どちらが悪いというものではない。『空のさえずり』(2000)所収。(清水哲男)


September 2792000

 リヤカーにつきゆく子等や花芒

                           星野立子

和初期の句。何を積んでひいているのだろうか。引っ越し荷物だとしても、「つきゆく子等」は、リヤカーをひく人の子供たちではないだろう。近所の子供らが、好奇心にかられて寄ってきたのだ。「花芒(はなすすき)」は、さわさわと子供らの手にある。こういう光景は、よく市井に見られた。何か珍しいものを見かけると、すぐに子供らは飛んで行った。まだ自動車が珍しかったころには、私も表に飛んで出た。近所からも、ばらばらっと出てきた。しばらく後を追っかけて、胸いっぱいにガソリンの臭いを吸い込むのであった。落語にも、町内にまわってきたイカケヤを悪ガキどもが取り囲み、そのやりとりを面白可笑しく聞かせる咄がある。昔はよかった。と、一概には言えないにしても、少なくとも昔の道端はよかった。面白かった。いまは、ちっとも面白くない。すべての道が点から点へ移動するためのメディアとして消費されており、ゆったりとした道端時間がないからだ。東京あたりでは、たまの大雪などで点と点の間を移動する機能が麻痺したときにだけ、道端時間が忽然と復活する。そんなときにだけ、私は積極的に表に飛び出す気になる。こんな道端事情だから、話は飛ぶが、いまの子供らには「路傍の石」の含意もわかるまい。最近、山本有三の文章が国語の全教科書から消えたと聞いた。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


September 2892000

 もの提げて手が抜けさうよ蚯蚓鳴く

                           八木林之助

い荷物を両手に提げて、数歩歩いては立ち止まる。既に秋の日はとっぷりと暮れており、すれ違う人とてない田舎道。ただ聞こえるのはジーッジーッと鳴く「蚯蚓(みみず)」の声だけで、情けないこと甚だしい。加えて、たぶん作者には、荷物を道端に置けない事情があるのだ。道がぬかるんでいるのか、あるいは絶対に汚してはならない進物の類か。だから、「手が抜けさう」でも我慢している。「蚯蚓」の鳴き声すらもが、なんだか自分を嘲笑するかのように聞こえてくる。で、思わずも「手が抜けさうよ」と弱気になり、しかし、くじけてはならじと、またよろよろと歩き出す……。眼目は「手が抜けさうよ」の「よ」だ。「よ」は口語的な訴えかけだが、掲句では訴えかける相手はいない。強いて言えば自分自身に向けられており、少しだけどこにいるとも知れぬ「蚯蚓」にも向けられている。両者ともに、訴えたってしようがない対象だ。この「よ」が利いて、句に可笑しみが出た。季語の「蚯蚓鳴く」であるが、もとより「蚯蚓」が鳴くわけはない。秋の夜、ジーッと重い声で鳴いているのは「螻蛄(けら)」である。いわゆる「おけら」だ。それを昔の人は(いや、今でも)「蚯蚓」の鳴き声だと信じていた。そんなことは、どっちだっていいっ。何とかしてくれえっと、作者はまだふらつきながら歩いている。当分、この句は終わらない。『合本歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


September 2992000

 店の柿減らず老母へ買ひたるに

                           永田耕衣

物なのだろう。母に食べてもらおうと、柿を求めた。老母のためだから、数はそんなに必要はないのだが、ちょっと多めに買った。いくつかは無駄になるとしても、母に差し出すときには、はなやかに見えるほうがよい。気持ちのご馳走だ。ところが買った後で、もう一度店先の柿の実の山を見てみると、少しも減った感じがしない。自分が買ったのに、その行為の痕跡もないのだ。せっかく「母へ買ひたるに」もかかわらず、これでは子としての母への思いが通じないじゃないか。バカみたいじゃないか。と、内心で深く作者は落胆している。この句は、我々の「プレゼント欲」の本質を突いている。老母へのプレゼントに下心などあるはずもないが、しかし、単純に喜んでほしいと思うのも手前勝手な「欲」には違いない。「欲」だから、できればその「欲」の成就を、あらかじめ保証してくれる何かが欲しい。このときに簡単なのは、自分が相手のために確かにある行為をしたという確かな痕跡を見ることだ。例えば、大富豪が恋人のために街中の花屋の花を買い占めてしまうのも、買い占めるときの気持ちは、自分の「欲」の成就を確信したいがためなのである。花を全部買い占めるのも柿を少し余分に買うのも、つまるところ「欲」の構造としては相似形だ。意地悪だろうか、私の読みは……。『驢啼集』(1952)所収。(清水哲男)


September 3092000

 色鳥の尾羽のきらめき来ぬ電話

                           恩田侑布子

んな場面を想像する。絶好の行楽日和。外出の仕度は、すっかりととのった。後は、車で迎えに来てくれる人を待つのみだ。およその時間はあらかじめ約束してあるのだが、道路の混み具合もあるので、当日の今日、もう一度電話をもらうことになっている。その電話が、なかなかかかってこない。約束の時間は、もう大幅に過ぎている。もしやと思い、先方に電話を入れてみたが、とっくに家は出ているという。そろそろ着くころだという。となると、途中で何かあったのだろうか。不安になる。が、あれこれ考えてみても仕方がない。結局は、待つしかないのである。苛々しながら窓の外を見やると、何羽かの鳥の尾羽が樹間にきらめいている。普段であれば美しく思える光景も、いまは苛々度を助長するばかりに見えてしまう。電話は、まだ、かかってこない……。「色鳥(いろどり)」は、いろいろな鳥と色とりどりの美しい鳥とをかけた季語だ。総称的に、秋の小鳥の渡りについて言う。したがって、掲句のように焦慮感につなげて詠まれるケースは珍しい。そこが、この句の新しさだと思った。少々ふざけておけば、このときの「色鳥」はほとんど「苛鳥(イラドリ)」なのである。『イワンの馬鹿の恋』(2000)所収。(清水哲男)




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