m句

October 22102000

 天高く梯子は空をせがむなり

                           仁藤さくら

子は短い。地面に倒されて置いてある梯子は長く見えるが、いざ立て掛けてみると、こんなに短かったのかと思う。ましてや、天高しの候。立て掛けて見上げる梯子の先の空は、抜けるように青い空間だから、頼りないほどに短く見える。そこで、こうした思いに出くわす。せがまれてもどうにもならないけれど、なんだか梯子に申しわけないような、立て掛けた自分の責任のような……。梯子にかぎらず、およそ道具には、こういうところがある。使い道にしたがって、たとえば包丁であれば何でも切ることをせがみ、自動車であれば無限のスピードをせがむ。道具のように機能を特化されていない人間の、これは機能を特化された道具に対する幻想ではあるけれど、道具がいちばん道具らしい表情を見せるのは、せがむ瞬間なのだ。ああ、梯子は高いところに上るための道具なのだと、せがまれてみて再認識をすることになる。その意味からして、掲句はひとつの道具論としても光っている。梯子とはこういうものだと、一発で言い当てている。実は私は高所恐怖症なので、この句のここまではわかるのだが、ここから先に作者が上っていく姿などは想像したくない。立て掛けて、地面の上から梯子の先を見上げ、その先に広がる秋空が目に入ったところで止めている句なので、書く気になった。と言いつつ、ちょっと上りかけた作者の気配を感じてしまい、目まいがしそうなので、本日はこれにておしまい。『Amusiaの島』(2000)所収。(清水哲男)


September 1492006

 胸といふ字に月光のひそみけり

                           仁藤さくら

野弘に「青空を仰いでごらん。/青が争っている。/あのひしめきが/静かさというもの。」(『詩の楽しみ』より抜粋)「静」と題された詩がある。漢字の字形から触発されたイメージをもう一度言葉で結びなおしたとき今まで見えなかった世界が広がる。胸の右側の「匈」。この字には不幸にあった魂が身を離れて荒ぶるのを封じる為「×」印を胸の上に置いた呪術的な意味がこめられているときく。「胸騒ぎ」という言葉が示すように動悸が高まることは不吉の前兆でもある。不安や憂いに波立つ感情を胸に抱えて、闇に引き込まれそうな心細さ。そんな胸のざわめきをじっとこらえているとやがて胸にひそむ月がほのかに光り、波が引くように心が静まってゆく。「雪国に生まれた私にとって、ひかりというものは、仄暗い家の内奥から垣間見る天上的なものでした。それは光の伽藍とも呼ぶべきもので、祈りを胸に抱きながら、ひかりの中にいたように思います。」胸の月光は作者が「あとがき」で語るひかりのようでもある。さくらは二十年の沈黙を経たのち俳句を再開。静謐な輝きを持った句を詠み続けている。「霧を来てまた霧の家にねむるなり」。『光の伽藍』(2006)所収。(三宅やよい)


March 2732008

 陽炎を破船のごとく手紙くる

                           仁藤さくら

らゆらと向こうの景色が揺れる陽炎は、陽射しに暖められた地面から立ち上る空気に光が不規則に屈折して起こる現象。家の回りを取り囲んでいる陽炎の波を渡ってやってきた角封筒の手紙が郵便受けにことんと落ちる。「破船」という表現には、ずっと待っていた手紙が送り先不明で迷ったあげくにやっと自分の元へ届けられたというより、思いがけなく受け取った手紙といったニュアンスが強いように思う。ずっと以前に心の中で別れを告げて離れてしまった場所や親しく交わっていた人々、そうした過去の知り合いから受け取った手紙だろうか。その人たちの暮らしてきた時間と自分が過ごしている時間のズレに手紙を受け取った作者のとまどいも感じられる。漂流の果てに船が行き着いた孤島に静寂があり、緑深い森があるように、陽炎の波で隔てられた世界と作者が住む場所にはまったく違う時間が流れている。現実から考えれば送り主から受取人まで一日か二日の時間であっても、その断絶を乗り越えてやってくる手紙には途方もなく長い時間が込められている。と、同時に陽炎の波を渡るときには破船だった手紙が作者の手に落ちた途端、真っ白な手紙に姿を変えたようで、春昼が持っているかすかな妖気すら感じられる。『Amusiaの鳥』(2000)所収。 (三宅やよい)




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