2000N12句

December 01122000

 盛り上がり珠となる血や十二月

                           渡辺鮎太

て、十二月。諸事雑事に追われて、ともすれば自分を見失いがちな月。何年前だったか。もうどこの雑誌に書いたのかも忘れてしまったが、ずばり「十二月」というタイトルの詩を書いたことがある。「大掃除をしなければならぬ」という具合に、全行「……しなければならぬ」だけでまとめた。書いているうちに、次から次へと「……しなければならぬ」ことが出てきて、驚きかつ呆れたことを覚えている。安住敦に「一弟子の離婚の沙汰も十二月」があり、「……しなければならぬ」のなかには、他人事もからんできたりする。掲句はそんな当月の日常のなかで、不意に我にかえった一刻をとらえていて見事だ。忙しくしている最中に、うかつにも何か鋭いもので、手かどこかを突いてしまったのだろう。「いけないっ」と見ると、小さな傷口から血が出てきた。見るうちに、血が「盛り上が」ってくる。その盛り上がった様子を、美しい「珠」のようだととらえたとき、作者は我にかえったのだ。かまけていた眼前の雑事などは一瞬忘れてしまい、自分には生身の身体があることを認識したのである。忙中に美しき血珠あり。小さな血珠に、大きな十二月を反射させて絶妙だ。よし。この十二月は、この句を思い出しながら乗りきることにしよう。「俳句研究」(2000年12月号)所載。(清水哲男)


December 02122000

 咳の子のなぞなぞあそびきりもなや

                           中村汀女

しそうに咳をしながらも、いつまでも「なぞなぞあそび」に興ずる子ども。気づかう母親は「もうそろそろ寝なさい」と言うが、意に介さず「きりも」なく「あそび」をつづけたがる。つきあう母としては心配でもあり、たいがいうんざりでもある。私は小児喘息だった(死にかけたことがあるそうだ)ので、少しは覚えがある。「ぜーぜー」と粗い息を吐きながら、母にあれこれと他愛のない「問題」を出しては困らせた。しかし、咳でもそうだけれど、喘息の粗い息も、何かに熱中してしまうと、傍目で見るほど苦しくは感じられないものだ。慣れのせいだろう。が、もう一つには、子どもには明日のことなど考えなくてもよいという特権がある。だから、いくら咳が出ても、精神的な負担にはならない。いよいよ苦しくなれば、ぺたんと寝てしまえばよいのである。同じ作者に「風邪薬服して明日をたのみけり」があり、このように大人は「明日を」たのまなければならない。この差は、大きい。「なぞなぞ」といえば、小学生のときに「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。なあんだ?」と、友だちに聞かれた。答えは「人間の一生」というものだったが、そうすると、いまの私は夕方くらいか。夕方くらいだと、まだ「明日を」たのむ気持ちも残っている。羨ましいなあ、ちっちゃな子は。「咳」「風邪」ともに、冬の季語。読者諸兄姉におかれましては、お風邪など召しませんように。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


December 03122000

 寒風や砂を流るる砂の紋

                           石田勝彦

影もない冬の砂丘だ。寒風が吹き荒れて、表面にできた紋様が次から次へと消されては、また現われる。その様子を「砂を流るる砂の紋」と動的に言い当てたデッサン力には、お見事と言うしかない。句のなかで、風紋はしばしも休まずに千変万化し、永遠に流れつづけるのである。美しくも荒涼たる世界の永遠性を描いて、完璧だ。こういう句を突きだされると、グウの音も出ない。「まいった」と言うしかない。俳句文芸の一到達点を示す作品だろう。……と絶賛しつつも、一方で私などには不満に思うところもある。不満ではなくて、不安と言うほうが適当かもしれない。もしかしたら、このあたりが俳句の限界かもしれないと思えるからだ。俳句の壁は、ここらへんに立ちはだかっているのではないのかと。「それを言っちゃあオシマイよ」みたいな印象が、どうしても残ってしまう。そんな印象を受けるのは、掲句に作者の息遣いもなければ、影もないからだろう。句の主体は、まるで句そのものであるかのようだ。もっと言えば、この句の主体は空無ではないのか。私の理想とする俳句主体は、「個に発して個にとどまらず、個にとどまらずして再び個に帰る」という平凡なところにあるので、空無的主体は理想から外れてくる。そこに「人間」がいてくれないと、不安になり不満を覚える。このときに作者が、「砂の紋」を「砂」と「砂」とを重ねる技巧から脱して、たとえば「風の紋」と野暮を承知で詠んだとすれば、たちまち作者の息遣いが聞こえてこないだろうか。人が登場するのではないか。舌足らずになったが、いま、なんとなくこんなことを考えながら、俳句を楽しんでいるので……。『秋興』(1999)所収。(清水哲男)


December 04122000

 ふと羨し日記買ひ去る少年よ

                           松本たかし

店でか、文房具店でか。来年度の日記帳が、ずらりと山積みに並んでいる。あれこれ手に取って思案していると、隣りにいた少年がさっと一冊を買って帰っていった。自分のように、ぐずぐずと迷わない。「買ひ去る」は、そんな決断の早さを強調した表現だろう。「ふと羨(とも)し」は、即決できる少年の若さに対してであると同時に、その少年の日記帳に書きつけられるであろう若い夢や希望に対しての思いである。おそらく、ここには自分自身が少年だったころへの感傷があり、伴って往時茫々との感慨もある。「オレも、あんなふうなコドモだったな……」と、「少年よ」には、みずからの「少年時代」への呼びかけの念がこもっている。もとより、ほんの一瞬の思いにすぎないし、すぐに少年のことなどは忘れてしまう。だが、このように片々たる些事をスケッチして、読者にさまざまなイメージを想起させるのも俳句の得意芸だ。読者の一人として、私も私の「少年」に呼びかけたくなった。熱心に日記をつけたのは、小学六年から高校一年くらいまで。まさに少年時代だったわけだが、読み返してみると、内面的なことはほとんど書かれていない。半分くらいは、情けないことに野球と漫画と投稿関連の記述だ。だから、本文よりも、金銭出納欄のほうが面白い。鉛筆や消しゴムの値段をはじめバス代や映画代など、こまかく書いてある。なかに「コロッケ一個」などとある。買い食いだ。ああ、遠き日の我が愛しき「少年」よ。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 05122000

 金屏風何んとすばやくたたむこと

                           飯島晴子

風(びょうぶ)は、冬の季語。元来が、風よけのために使った生活用品だったからだ。昔の我が家にも、小屏風があった。隙間風から赤ん坊(私や弟)を守るために、両親が購入したらしい。それが今では、結婚披露宴で新郎新婦の背後にしつらえるなど、本来の目的とは別に、装飾品として生き続けている。六曲一双の「本屏風」。華やかな祝宴が終わって部屋を辞するときに、作者は何気なく主役のいた奥の正面あたりを振り返って見たのだろう。と、早くも片付けの係の人が「金屏風」をたたんでいた。それも、「何んとすばやく」という感じで……。せっかくの華やかな舞台が、あっという間に取り壊される図の無惨。などと作者は一言も言ってはいないのだけれど、私にはそう読める。人間のこしゃくな演出なんて、みんなこんなものなのだと。昨年、私が日本中央競馬会の雑誌に書いた雑文をお読みになって、突然いただいた私信でわかったことなのだが、作者は無類の競馬好きだった。「賭け事をするしないにかかわらず、人間は賭ける人と賭けない人と、男と女のように二手に分かれることは感じて居りました。そして俳句には上手だけれどもシンキクサイ俳句があることも気になって居りました」。「シンキクサイ俳句は、賭けない人がつくる……」。この件りについてはいろいろと考えさせられたが、当の飯島さん御自身が、係の人の手をわずらわすことなく、みずからの手で「金屏風」をたたむようにして亡くなってしまった。事の次第は、一切知らない。知らないけれど、シンキクサイ死に方ではなかっただろう。彼女の死によって、ひとしお私には、シンキクサクナイ掲句は忘れられない一句となったのである。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)


December 06122000

 女を見連れの男を見て師走

                           高浜虚子

ういう句をしれっと吐くところが、虚子爺さんのクエナいところ。歳末には、たしかに夫婦同士や恋人同士での外出が多い。人込みにもまれながら歩いていると、つい頻繁に「女を見連れの男を見て」しまうことになる。それで何をどう思うというわけではないが、このまなざしの根っこにある心理は何だろうか。なんだか、ほとんど本能的な視線の移動のようにも感じられる。この一瞬の「品定め」ないしは「値踏み」の正体を、考えてみるが、よくわからない。とにかく、師走の街にはこうした視線がチラチラと無数に飛び交っているわけで、掲句を敷衍拡大すると、別次元での滑稽にもあわただしい歳末の光景が浮き上がってくる。一読とぼけているようで、たやすい作りに見えるけれど、おそらく類句はないだろう。虚子の独創というか、虚子の感覚の鋭さがそのままに出ている句だ。師走の特性を街にとらえて、実にユニーク。ユニークにして、かつ平凡なる詠み振り。でも、作ってみろと言われたら、たいていの人は作れまい。少なくとも私には、逆立ちしても無理である。最大の讃め言葉としては、「偉大なる凡句」とでも言うしかないような気がする。掲句を知ってからというものは、ときおり雑踏のなかで思い出してしまい、そのたびに苦笑することとなった。ところで、女性にも逆に「男を見連れの女を見」る視線はあるのでしょうか。あるような気はしますけど……(清水哲男)


December 07122000

 考へず読まず見ず炬燵に土不踏

                           伊藤松風

五中七までは、どうということもない。また老人の境涯句のようなものかと読み下してきて、下五でぴりっとしっぺ返しをくった。「考へず読まず見ず」は作者の意志によるものだが、「土不踏(つちふまず)」だけは意志の及ばないところだ。生まれたときから(正確に言えば歩きはじめてから)、土を踏まないようにできている。かたくなに「考へず読まず見ず」などと思い決めても、「土不踏」の長年の頑固にはとてもかなわんなあと、作者は気がつき、苦笑している。前段がどうということもないだけに、炬燵に隠れた「土不踏」がひょっこり登場したことで、笑いと軽みが飛び出してきた。軽妙にして洒脱。思わずも、シャッポを脱ぎました。同じ作者に「どこまでが鬱どこまでが騒雪霏々と」がある。「霏々」は「ひひ」。これまた「鬱」に対して「躁」ではなく、さりげなく「騒」と配したあたりが卓抜だ。たしかに「躁」は「騒」にちがいない。と、ここまでは種明かしをせずに紹介してきたが、実はこれらの句は、自分のことを詠んだのではない。連作の模様から想像するに、主人公は病身の妻である。「ひひ」の音感に、作者の戦きをいくばくか感じられた読者もおられるだろうが、そういうことのようだ。そこで、もう一度掲句に帰ってみると、にわかに滑稽の色は薄れ、作者の悲しみの念が色濃くなる。しかし、この悲しみの思いも作者の軽妙洒脱な手つきが呼び寄せるのであって、事情を知る知らずに関わらず、句の自立にゆらぎはないだろう。悲しみと滑稽は、ときに隣り同士になる。『現代俳句年鑑2001』(2000・現代俳句協会)所載。(清水哲男)


December 08122000

 峠に見冬の日返しゐし壁ぞ

                           深見けん二

味だけれど、不思議な印象を与えてくれる句だ。季語「冬の日」は冬の一日の意でも使うが、冬の太陽を指す場合が多い。峠を越えて、作者は山里に下りてきた。土蔵だろうか。白い壁の建物の前を通りかかって、はっと気がついた。ああ、「あれ」は「これ」だったのか。きっと、そうにちがいない。「これ」は眼前の白壁で、「あれ」は峠から遠望した建物の白壁である。峠から見た山里の風景は寒々としていたが、なかで弱々しい太陽の光りを反射させている小さな「壁」だけが、健気にも元気な感じで一瞬目に焼きつけられた。もちろん、歩いているうちに、そんなことは失念してしまっていたのだが、いま「壁」の傍らを通りかかって、不意に思い出したというわけである。カメラなら、峠からすっと簡単にズームアップできるるところを、人は時間をかけなければ果たせない。その時間性が詠まれているので、まずは不思議な印象を受けるのだろう。どこかの場所で、そこにまつわる過去を思い出したり偲んだりする句はヤマほどある。しかし、掲句のように、過去とは言っても「つい、さきほど」の過去を思い出した句は少ない。たいていの日常的な「つい、さきほど」には、記述するに足ると思える何の意味も価値もないからだ。そのあたりは百も承知で、作者は詠んでいる。そこがまた不思議な味わいにつながっており、私などには「ああ、これがプロの腕前なんだなあ」と感心させられてしまう。単に「あれ」が「これ」だったのだと言っているにすぎないが、なんだか読者もいっしょに嬉しく思える句の不思議。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)


December 09122000

 遅参なき忘年会の始まれり

                           前田普羅

日あたりから、忘年会ありという読者も多いだろう。暮れの繁忙期を前に、早いうちにすませておこうというわけだ。放送業界では、押し詰まってくると忘年会どころではなくなる。「疑似新春番組」作りに追われてしまう。忘年会の良さは、結婚祝いやら厄落としやらのような集会理由が何もないところだ。一応は「一年の無事を祝し……」などと言ったりするが、そんなことは誰も真剣に思っちゃいない。無目的に集まって、飲んだり食ったりするだけ。考えてみれば、こんな集いはめったにあるものではない。だから、逆に嫌う人も出てくるけれど、おおかたの人の気分はなんとなく浮き浮きしている。無目的は、束の間にせよ、芭蕉に「半日は神を友にや年忘れ」があるように、世間のあれこれを忘れさせてくれる。掲句は、そのなんとなく浮き浮きした気分を詠んだ句だ。みんな浮き浮きしているから、他の会合とはちがって「遅参(ちさん)」もない。「遅参」のないことが、また嬉しくなる。何でもない句のようだが、忘年会のはじまるときの、いわば「気合い」を描いて妙である。ところで、急に別のことを思い出した。田舎にいたころは、学校に遅れることを「遅参」と言っていた。「遅刻」とは、言わなかった。たしか「通知表」にも「遅参」とあったような……。「刻」を相手の「遅刻」よりも、「参(集)」を相手の「遅参」のほうに、人間臭さを感じる。さて、今夜は二つの忘年会が重なっている。必然的に、片方は「遅参」となる。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


December 10122000

 第九歌ふむかし音楽喫茶あり

                           大石悦子

談社が昨年から今年にかけて出した『新日本大歳時記』は、いくつかの新しい季語を採り上げている。黛まどかの「ヘップバーン」が提唱している「新季語」からも採用されたと、ご本人から聞いた。「第九(ベートーヴェンの第九交響曲)」も、その新しい季語の一つだ。「第九」が日本で十二月に演奏されるきっかけは、その昔に上野の音楽学校(現・芸大)からはじまったと仄聞するが、たしかに「第九」には、この国では師走の香りがする。ただし、ベートーヴェンがはじめて「第九」の棒を振ったのは、五月のウィーンでだった。中身からして、初夏の雰囲気にこそふさわしい曲なのだ。掲句は同書よりの引用であるが、一読平凡な句ながら、私などの世代には郷愁を誘われるという一点において、捨てがたい。歌っているうちに、作者は、この曲を覚えたのが「音楽喫茶(名曲喫茶)」だったことを思い出している。あのころは、高価なレコード・プレーヤーを買うことができずに、この曲を聞きたい一心で「音楽喫茶」に通っていた……。貧しさとひたむきな純情と、歌いながら当時のみずからの環境や社会のことを回想している。音楽はもとより、他のどんな表現であろうとも、それをどこで摂取したのか、いつごろだったのかと、忘れられない表現には必ずその人が享受した時と所と環境とがついてまわる。その意味で、掲句は「喜びの歌」の個人的にして同世代的な、静かなる読み替えにもなっている。(清水哲男)


December 11122000

 鍵穴に蒲団膨るゝばかりかな

                           石塚友二

語は「蒲団」で、冬。明らかな覗き行為である。作者は鍵穴に目を押し当てて、部屋の中を覗いている。すると、部屋の主はまだ寝ているらしく、こんもりと膨らんだ蒲団が見えるだけだった。何故覗いているのかはわからないが、描かれた情景はクリアーだ。しかし、これだけだとストーカー行為みたいに思われてしまう。そこで、前書が必要となる。曰く「十二月十七日雨過山房主人を見舞ふ」。見舞いの相手は、生涯の師であった横光利一だ。後年作者は「横光利一は私の神であった」と書くことになるが、畏敬する人を見舞うに際しての細心の配慮から生まれた覗きだったのだ。推定だが、敗戦の翌年の師走のことのようである。ちなみに、横光利一の命日は1947年(昭和二十二年)12月30日。鍵穴から、人を見舞う。珍しい見舞い方のようにも思えるが、当時の鍵穴は大きかったので、ドア・チャイムの設備がなければ、案外こうしたことは一般的に行われていたのではあるまいか。そして作者には、この覗きのときをもって、師との今生の訣れとなったという。「ばかりかな」に、万感の思いがこもっている。石田波郷は、作者の根底にあるものとして「庶民道徳としての倫理観」を指摘しており、掲句のような振る舞いに、それは如実に表れているだろう。まだ「師」という存在が、文学の世界に限らず、それこそ庶民の間に具体的に自然に実感されていたころにして成り立った句でもある。『光塵』(1954)所収。(清水哲男)


December 12122000

 生徒らに知られたくなし負真綿

                           森田 峠

句を読んでいると、いまでは失われてしまった風習やファッション、生活用品などに出会って、しばし懐しさに浸るということが起きる。防寒衣である「負真綿(おいまわた)」も、その一つだ。単に真綿を薄く伸ばして下着と上着の間の背の部分に貼り付けるだけのものだが、これが実に暖かい。子供のころに、体験した。主として年寄りが愛用した関係上、ファッション的に言えば「ダサい」というわけで、作者もそこに気を使っている。教師も、大変だ。気づかれぬように、きっと真綿を可能なかぎりに薄く伸ばすのに努力したにちがいない。そんなことも思われて、微苦笑を誘われる。ひところ、「ステテコ」をはく男はダサいなんてことも言われましたね。いまでも、そうなのかしらん(笑)。昔からダンディズムを貫くには、やせ我慢を必要とした。そして、ダンディズムにこだわっても馬鹿みたいに思える年齢になってくると、やせ我慢の壁が一挙に崩れ落ちる。男も女も、まさに崩落、墜落状態。寒ければ着膨れし、暑ければ委細構わず裸になる。「負真綿」なんぞよりも、もっと凄いのが「背布団(せなぶとん)」だった。小さな蒲団に紐をつけて背負ったのだから、ファッション性もへったくれもあるものかという代物だ。「腰蒲団」というのもあったらしいが、こちらは女性用だろう。もっとも、昔はどこにいても現在よりずっと寒かった。そういうことだから、「ダサさ」加減も少々割り引いて読む必要はある。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


December 13122000

 業の鳥罠を巡るや村時雨

                           小林一茶

こここに「罠」が仕掛けられていることは、十二分に承知している。しかし、わかりつつも、吸い寄せられるように「罠を巡る」のが「業」というもの。巡っているうちに、いつか必ず罠にかかるのだ。大昔のインド宗教の言った「因果」のなせるところで、なまじの小賢しい知恵などでは、どうにもならない。なるようにしかならぬ。折りからの「時雨」が、侘びしくも「業」の果てを告げているようではないか。前書に「盗人おのが古郷に隠れ縛られしに」とある。したがって、この「鳥」は悪事を重ねた盗人に重ねられている。逃亡先に事欠いて、顔見知りのいる「古郷に隠れ」るなどは愚の骨頂だが、それが「業」なのだ。現代でも、郷里にたちまわって「縛られ」る者は、いくらでもいる。作句のときの一茶は「古郷」に舞い戻っており、わずか四百日の命で逝った娘のサトをあきらめきれずに、悲嘆のどん底にあった。だから、掲句では盗人が「鳥」というよりも、本当はおのれが「業の鳥」なのだ。おのれの「業」の深さが可愛いサトの命を奪い、因果で自分も「業」に沈むことになった。そういうことを、言っている。だが、このような後段の事情を知らなくても、掲句は十分に理解できるだろう。また「業」という考え方に共鳴できなくても、句が発するただならぬ気配に、ひとりでに吸い寄せられてしまう読者も多いだろう。一茶にも、このような句があった。(清水哲男)


December 14122000

 ゐのししの鍋のせ炎おさへつけ

                           阿波野青畝

語は「ゐのししの鍋(猪鍋)」で、冬。「牡丹鍋(ぼたんなべ)」とも言い、猪(しし)は「牡丹に唐獅子」の獅子と音(おん)が同じなので、洒落れたのだろう。関西名物。作者も関西の人。土鍋で芹や大根と煮て、白味噌で味つけする。眼目は「おさへつけ」だ。火に「かける」のではなく、炎を「おさへつけ」て、土鍋を置く。ずしりと重い土鍋の重量感を示しているのと同時に、「ゐのしし」のそれも表現している。加えて「さあ、食べるぞ」というご馳走を前にした気合いも……。こういう句を読むと、やたらに食欲がそそられる。食べ物の句は、かくあるべし。といっても、私は関西が長かったにもかかわらず、「ゐのしし鍋」を食した記憶がない。同じ関西名物の鱧(はも)すらも、東京に出てきてからはじめて食べたくらいで、きっと学生には高価すぎたのだろう。当時(1960年代)の冬は、もっぱら「土手焼き」だった。元来は土鍋に味噌を塗って魚などを煮るのだが、土鍋の代わりにステンレス製の四角い大鍋で出す店が京都・三条通り近くにあり、よく通った。周囲の味噌がほどよく焦げて良い香りとなり、汁と溶け合った味の深さは、まことに美味である。冬が来るたびに「ああ、もう一度食べたいな」と思う。きっと探せばあるのだろうが、上京以来、見かけたこともないのは残念だ。『紅葉の賀』(1956)所収。(清水哲男)


December 15122000

 賀状書くけふもあしたも逢ふ人に

                           藤沢樹村

状の相手は、職場の上司か同僚だろう。毎日顔をあわせる人には、なるほど、書きにくい。でも、確実な元日配達を望むとすれば、どうしてもこういう羽目になってしまう。サラリーマン時代に覚えがあるが、年末休暇に入ってから、つい愚図愚図としているうちに、元日になってしまつた。で、上司から丁重な賀状が届いた。嬉しいというよりも、愕然としましたね。ほとんど落ち込んだと言っても過言ではありませんでした。仕方がないので、早速うちましたよ、年賀電報を。身から出た錆とはいいながら、そういうことがあるので、揚句のように、へんてこりんな気持ちで書く人は多いのでしょう。上手な句かどうかは別にして、これもまたこの時期の庶民の哀感の一つ……。しかし、だからといって、このようなシチュエーションで書く年賀状も、単に「虚礼」とは言い捨てられないところがある。誰からであれ、元日に受け取る賀状には、やはりそれなりの喜びがあるからだ。よほどのへそ曲がりな人でなければ、「去年書いた」ことは明白でも、こだわったりはしないだろう。賀状は元日に書くという信念の持ち主も知っているけれど、私は元日に着いてくれたほうが、よほど嬉しい。「礼」の半分以上は「型」だと思う。「型」に「実」を上手にはめ込むのが礼者の心得ではあるまいか。なんだか、俳句に似ている気がします。さあ、大変だ。そろそろ「けふもあしたも逢ふ人に」も、書きはじめなければばなるまい。「けふもあしたも」逢わない週末がチャンスだ。『新日本大歳事記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 16122000

 目をかるくつむりてゐたる風邪の神

                           今井杏太郎

ま風邪を引いている人には、おそらく腹立たしい句だろうが、それだけ真に迫った句だ。「風神」は有名だが、「風邪の神」とは初耳だ。でも「貧乏神」がいるくらいだから、「風邪の神」だっていてもよさそうである。いるとすれば、様子はたしかにこのようだろう。瞑目でもなく半眼でもなく、軽く目を閉じている。うっすらと笑みすら浮かべていそうな余裕のある態度で、さて次は誰にとりついてやろうかと、ほんの少し思案している。決して深く考えてなどいないわけで、いつもほとんど悪戯っぽい思いつきの決断をくだすのである。だから、だれかれ構わず気楽にひょいととりついてくる。我々にとっては迷惑至極、困った神様だ。……なんてことをあまり書いていると、今夜あたりとりつかれるかもしれない(笑)が、とにかく上手な句です。いや、上手すぎて「にくい」句と言うべきか。このように、空想の世界を「さもありなん」と伝えるのはなかなかに難しい。が、作者はそのあたりを楽々とクリアーして、いとも簡単そうに詠んでみせている。この肩の力の抜け具合が、なんとも魅力的だ。今後も、要チェックの俳人である。この句に引きずられて、いろいろな神の様子を想像するのも楽しいだろう。それこそ「貧乏神」の私のイメージは、痩身でよれよれしてはいても、目だけはカッと見開いていて冷たい光りを放っていそうだ。しかも居候好きな気質だからして、一度上がりこんできたら、なかなか出ていってくれない。逆に「福の神」はかなり薄情で、さっさと出ていってしまう。『海鳴り星』(2000)所収。(清水哲男)


December 17122000

 炭の塵きらきら上がる炭を挽く

                           川崎展宏

く晴れた日。のこぎりで炭を挽いている。「塵(ちり)」が「きらきら」と舞い上がっている。挽く音までが聞こえてくるようだし、炭の匂いも漂ってくるようだ。言いえて妙。ただ一般論になるが、この光景を美しいと思うかどうかは、読者の立場によるだろう。夏場に氷を配達する人が、道端で氷を挽いているのと同じこと。通りかかった人には、とても涼しげな情景に写るのだけれど、挽いている当人にしてみれば、それどころではない。とてもじゃないが「やってらんねえ」のである。他意はないけれど、労働の現場を詠んだ句には、傍観者の立場からのそれが多い。それはそれでよいとして、詠まれる側からすると、もう少し何とかならないのかなと歯がゆい思いが残ることもある。いつもながらの思い出話になるが、昔の我が家でも炭を焼いていた。自給自足ゆえの、やむを得ぬ所業だった。子供でも、炭を挽いて炭俵につめることくらいはできる。「塵」を浴びながら挽いていると、身体中がこそばゆくなり、もちろん手や顔などは真っ黒になってしまう。べつに苦しい仕事ではないのだが、炭の粉を吸いすぎた胸は、妙に息苦しい感じになった。そんな体験のある子供や大人が、この句を読む。もちろん、感想はまちまちだろう。その「まちまち」のなかで、一点共通するのは、作者が炭を挽く現場の人ではないなという「直感」だ。それはそれで作者には関わり知らぬことながら、働く現場を詠むのが難しいのは、確かなことである。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


December 18122000

 流れ行く大根の葉の早さかな

                           高浜虚子

れぞ、俳句。中学校の教室で、そう習った。習ったとき、我が家は生活用水として近所の小川を使っていたので、実感として理解はできた。が、一方ではあまりにも当たり前すぎて、句のよさはわからなかった。よさは、流れていく大根の葉だけを詠むことで、周辺の情景を彷彿させるところだろう。昭和三年(1928)の九品仏吟行で得た句というが、このような情景はどこかの地に特有なものではなく、全国的に普通に見られた。すなわち、往時の多くの日本人には、思い当たる情景だった。どのような表現でもそうだけれど、とくに短い俳句では、このように普遍性の高い生活環境や生活条件に下駄をあずけざるをえないところがある。言外の意味を、普遍性ないしは常識性に依存するのだ。そんなことを考えると、俳句の寿命は短い。世の中が変わると、昔の句は滅びてしまう。でも、私はそれでよしと思う。永遠の名作を望むよりも、束の間の命を盛んに燃やしたほうが、潔くてよろしい。おそらく、現代の若者には、この句の味は本当にはわかるまい。あまりにも、日常とは遠い世界の「大根の葉」であり、その「流れ行く早さ」であるからだ。あまりにも、当たり前の事象ではないからだ。まだ教科書に載っているかどうかは知らないが、載っていたとしても、教師には教えようがないだろう。俳句は、読み捨て。教えるとすれば、そういうことしかない。揚句に共感できる人も、みな同じ思いだろう。くどいようだが、それでよいのである。この句は、もはや「これぞ、俳句」のサンプルではなくなりかけてきたということ。(清水哲男)


December 19122000

 床屋出てさてこれからの師走かな

                           辻貨物船

し詰まってくると床屋も混みあうので、正月にむさくるしい感じにならない程度に、見計らって早めに床屋に行く。いまは男も美容院に行く時代なので、いささか乱立気味でもあり、こういう思案もなくなったかもしれない。私はもう、三十年も床屋とは無縁だ。家内の世話になっているので、床屋事情には、すっかりうとくなっている。昔は、町内に床屋の数は少なかった(いまでも「床屋(理髪店)」と限定すれば、同じことだろう)。したがって、どうしても頃合いを計らざるを得なかった。下手をすると、髪ぼうぼうのままに、正月を迎える羽目になる。作者は首尾よく、計算通りに散髪を完了し、すがすがしい気持ちで床屋を出た。すがすがしい気分だから、師走の町を歩きながら「さてこれから」だなと、気合いも入る。「さてこれから」何をしようか、やるべきことは山積しているような、していないような。とにかく「さてこれから」なのだ。この「さて」という気持ちが、師走特有の庶民の気分を代表している。師走だからといって、べつにジタバタしなくてもよいようなものだが、「とにかく」そう思い決めることで年の瀬気分を味わいたいというのが、作者のような下町っ子の心意気である。「師走」も「正月」も、ひとりで迎えるのではない。町内みんなで迎えてこそ、意味がある。だから、ちゃんと床屋にも行く。そういうことだ。「さて」が、実に巧く利いている。年が明ければ、貨物船(辻征夫)逝って一年。辻よ、そっちにも床屋はあるか。あれば、そろそろ行かなきゃね。そこで「さて」、床屋を出た君は何をするのだろう。『貨物船句集』(書肆山田・2001年1月刊行予定)所収。(清水哲男)


December 20122000

 聖樹にて星より高き鐘があり

                           二川のぼる

々「にて」という措辞に理屈っぽさが臭うのは惜しいが、言われてみれば、その通りだ。たしかにクリスマス・ツリーには、現実とは違う感覚の世界がある。句の「星」の上に「鐘」がある位置関係もそうだし、「星」よりも「鐘」やサンタクロースの人形のほうが大きかったりするのもそうだ。でも、作者はそういうことに今更のように気がついている。句を読んで、私も今更のように「なるほどね」と思った。気がついて、しかし作者は、この位置関係を現実のものとして感受している。そこが非凡。数々の星たちの上方に、巨大な鐘が浮かんでいて、それが高らかな音を発しているのだ。「聖樹」の小ささを越えて、はるかに壮大な宇宙を眺めている思い。何事につけ、このような目や耳を持つことができたら、人生は楽しくも豊かに感じられるでしょうね。ところでクリスマスツリーを見るたびに、私は酉の市の熊手のデコレーションを想起してしまう。あの熊手にも、現実の遠近感など無視した飾り付けがしてある。千両箱や金の俵よりも、ずっと「おかめ」の顔のほうが大きかったりする。洋の東西を問わず、現実の間尺に合わない関係を並列することで、希望や明るさを見いだしてきたということだろうか。ただ熊手には「現世利益」の願望がこめられていて、「聖樹」の神性とは大きく異なる。「聖樹」に近いのは門松であり、しかし、門松には何も吊るしたりはしない。このあたりが、文化文明の差なのだろう。そう考えると、ますます「聖樹」を見る目が変わってくる。『福音歳時記』(1993)所載。(清水哲男)


December 21122000

 山国の虚空日わたる冬至かな

                           飯田蛇笏

至。太陽の高度がもっとも低く、一年中でいちばん昼の時間が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」といって、暦的には冬の真ん中ではあるが、これから本格的に冬の寒さがはじまる。さて、「虚空」だ。何もない空。山国の冬の空は、いかにも「虚空」という感じがする。何もない空間、つまりは何ものにも侵食されていない空間。そんな感じを受けるのは、下界の自然に活気がなくなっているからだろう。全山ほとんど枯れ果てて、眠るがごとし(「山眠る」は冬の季語)。空は鏡ではないけれど、心理的には地上の活力を反映しているように思える。たとえば入道雲が湧き出る夏の空に活力を感じるのは、地上の季節の盛りを感じている人の心があるからである。揚句では「日」が見えているのだから、もちろん晴れているか、雲は出ていても薄曇り程度。その何もない空を、赤い日が低く静かにわたっていく。「ああ、冬至だな」という作者の感慨を写して、そのように空があり、そのように日のわたりがある。すなわち、作者の心象風景が、まさしく眼前に展開されているということである。蛇笏の句の多くが正しい骨格を持っている秘密は、このように地上の自然にまず自我を溶かし込み、そこからはじめて対象に向かって句を立ち上げる作句姿勢にありそうだ。「虚空」を詠む以前に、おのれ自身を「虚」にしている。いわば人事の異臭がないわけで、それだけ主体不明とも言えるが、主体不明こそ俳句詩形の他の詩形にはない面白さだから、蛇笏俳句は、その一つの頂上を極めた作品として心地よい。読者諸兄姉よ、きょうの空は、そして日は、あなたの心にどんなふうに写っていますか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 22122000

 父と娘に煤まじる雪朝の岐路

                           飴山 實

書に「尼崎にて二句」とあり、うちの一句。工業地帯だ。今では改善されているのだろうが、句の作られた戦後間もなくのころには、煤煙がひどかったろう。三十年ほど前に、私も四日市で体験したことがある。あれでは、降る雪も白銀色というわけにはいかない。そんな朝の道を、父親と娘が連れ立って出かけていく。テレビ・コマーシャルの一場面のようだが、汚れた雪では絵にもならない。二人とも、大いに仏頂面であるに違いない。やがて、父親と娘がそれぞれの方向に別れて行く「岐路」にさしかかったというわけだ。いつものように「じゃあね」と別れるだけのことだが、そこに着目して作者は、このなんでもない「岐路」にさまざまな人生のそれを読み取っている。年譜を見たら、父親は作者ではないとわかった。父娘は、単に通りすがりの人だった。この父親は煤煙を排出している工場の従業員かもしれず、娘もまた、そうかもしれぬ。だとすれば、父親は生涯この町で過ごすのだろうし、若い娘はいずれ出ていくのだろう。あるいはまた、父親のほうが汚い雪の降る町なんぞから早く出ていきたいという願望を持っていて、そろそろ決断の「岐路」に来ているのかもしれぬ。等々、揚句から浮かんでくる思いは、読者にとっていろいろだろう。が、いろいろな思いの底に流れるものは共通だ。すなわち、作者の静かなる憤怒の心である。人は、自分の力だけではどうにもならない理不尽を生きていく。煤煙まじりの雪が降ろうと、それはそれとして甘受せざるを得ない。どうにも動かせない劣悪な環境のなかで、とりあえず用意されている「岐路」は、むなしくもただ「じゃあね」と別れる程度のものでしかないのである。はやくから環境問題に取り組んだ作者の、これは哀感を越えた怒りの詩だ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 23122000

 京に入りて市の鯨を見たりけり

                           泉 鏡花

者は、ご存知『婦系図』などで知られる小説家。師であった尾崎紅葉の影響だろうか、俳句もよくした。季語は「鯨」で冬。日本近海には、冬期に回遊してくるからだ。揚句に詠まれた情景は読んで字のごとしだが、「見たりけり」の詠嘆はどこから来ているのだろうか。おそらくは、こうである。嵐山光三郎の『文人悪食』によると、鏡花は極度の食べ物嫌悪症であった。黴菌に犯されるのを恐れ、大根おろしまで煮て食べたという。酒は徳利が手に持てないほどに沸騰させてから呑み、茶もぐらぐら沸かして塩を入れて飲んだ。この潔癖症は書くものにも伝染し、「豆腐」の「腐」の字を嫌って「豆府」と書いたくらいである。したがって、当然ゲテモノも駄目。それも彼の言うゲテモノは常軌を逸しており、シャコ、タコ、マグロ、イワシは「ゲテ魚」として、特に嫌った。そんなわけで、鏡花が鯨肉を好きだったはずはない。まともな人間の食うものではないと思っていたにちがいない。それが、京の市場にちゃんとした売り物として陳列されていたのだから、たまげた。一瞬、背筋に悪寒を覚えたはずだ。鯨肉なんて「ゲテ魚」は田舎まわりの行商の魚屋が担いでき、安価なので貧乏人が仕方なく食べるものくらいの認識だったろう。京の都などというけれど、こんなものまで食うようではねと、皮肉も混じっている。すなわち「見たりけり」には、見たくないものを見てしまったという「ぞーっ」とした恐怖の気持ちが込められている。けだし「ゲテ句」と言うべきか(笑)。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 24122000

 天に星地に反吐クリスマス前夜

                           西島麦南

い読者のなかには、句意をつかめない人がいるかもしれない。私が大学生くらいまでは、クリスマス・イブというと、大人の男どもがキャバレーかなんかでドンチャン騒ぐ日だった。翌日の朝刊には必ず、銀座で騒いでいる三角帽子をかむったおじさんたちの写真が載ったものだ。いまのように、父親が3000円(今年の売れ筋価格だと吉祥寺の洋菓子店「エスプリ・ド・パリ」の社長に聞いた)のケーキを抱えて早めに帰宅するなんてことは、一般には行われていなかった。だから「天に星地に反吐」なのだ。加えて作者は、キリスト者でもない男たちが、わけもなく呑んで騒ぐ風潮を冷笑している。句の裏に、作者の渋面が見えるようだ。私はそんなおじさんたちよりも少し遅れた世代だから、イブのキャバレーは知らないが、当時の喫茶店には痛い目にあったことがある。コーヒーを注文したら、頼んでもいないケーキがついてきた。尋ねると、イブは「スペシャル・メニュー」だと言う。コーヒーだけでよいと言うと、また「スペシャル・メニュー」ですからと言う。要するに、コーヒーだけの注文は受け付けないのだった。突然にそんなあくどい商売をやっても、けっこう繁盛したころもあったのだ。女友だちもいなくて、イブに何の思い入れもなくて、ただひとりでコーヒーを飲みたかっただけの私は、さて食いたくもないケーキをどうしてくれようかと考えた。帰り際に、静かに皿ごと足下にひっくり返し、丁寧にぎゅうっと押さえつけておいた。その店の「天に星」があったかどうかは忘れたが、「地」には確実に「反吐」状のケーキが残った(労働者のお嬢さん、ごめんなさい)わけだ。表に出ると、ちらりと白いものが舞い降りてきた。でも、いま思い出して、悪い時代でもなかったなと感じる。めちゃくちゃだったけど、けっこう面白かったな。『福音歳時記』(1993)所載。(清水哲男)


December 25122000

 悲しみの灯もまじる街クリスマス

                           堀口星眠

リスマスの街は、はなやかだ。行ったことはないけれど、毎年テレビで報道されるニューヨークの街の灯などは、ちらと見るだけで楽しくなる。わくわくする。が、そうした華麗な灯のなかに「悲しみの灯も」まじっているのだと、作者は言う。はなやかな情景に、悲しみを覚える心。詩人の第一歩は、このあたりからはじまるようだ。その意味で揚句は、詩人の初歩の初歩を踏み出したところにとどまってはいるが、しかしクリスマスの句としては異彩を放っている。類句がありそうで、ないのである。私事ながら、昨日、辻征夫などとともに、同人詩誌「小酒館」のメンバーであった加藤温子さんが急逝された。しかも加藤さんはキリスト者であられたから、揚句の訴えるところは身にしみる。この句は以前から知ってはいたが、身近な方に亡くなられるてみるまでは、こんなにも心に響くとは思ってもみなかった。私の持論で、俳句は「思い当たりの文学」と言いつづけてきたけれど、ますますその感を深くすることになった。作者の「悲しみ」は、知らない。知らないが、透き通るように、私の悲しみは揚句と重なり合う。作者はみずからの「悲しみ」をあえて伏せ、「思い当たる」読者にだけ呼びかけて応えてくれれば、それでよしと考えたのだろう。悪く言えば、罠を仕掛けたわけだ。その罠に、今日の私は、てもなくかかったという次第である。作者は「普遍」をもくろみ、読者は機会次第で、その罠にかかることもあり、かからないこともあるということ。これも、俳句の面白さだ。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 26122000

 鱒鮓や寒さの戻る星の色

                           古館曹人

鮓(ますずし)は富山の名産と聞くが、本場ものは食べたことがない。いわゆる押し寿司だろうか。冬の鮓の冷たい感触は、冷たさゆえに食欲をそそる。傍らに熱いお茶を置き、冷たさも味のうちとして賞味する。揚句では、さらにサーモン・ピンクの鱒の色が、戻ってきた寒さのなかに明滅する星の色にしみじみと通いあっており、絶品だ。ふと、通夜の情景かもしれないと思った。亡き人を偲ぶとき、私たちは吸い込まれるように空を見上げる。死者が召されるという暗黒の「天」には、星がまたたいている。その星のまたたきが、生き残った者たちの慰めとなる。まったく見当外れの読みかもしれないが、いまの私には、むしろこう読んだほうが、しっくりくる。今夜、詩人仲間の加藤温子さんのお通夜(於・カトリック吉祥寺教会)がとりおこなわれる。明日の葬儀ミサには行けないので、今夜でお別れだ。二十年に近いおつきあいだった。きっと星はまたたいてくれ、私はきっと見上げるだろう。温子さん、いつものジーパン姿で会いに行くからね。『樹下石上』所収。(清水哲男)


December 27122000

 よい夢のさめても嬉しもちの音

                           五 筑

朝、まだ暗いうちに、近隣で餅を搗く音に目が覚めた。せっかく「よい夢」を見ていたのに、破られてしまった。しかし、破られても「もちの音」を聞くほうが嬉しい気分である。さあ、いよいよ正月だ。子供のころは農村に暮らしたので、私にも同じ体験がある。この時季になると、毎朝、どこからか「もちの音」が聞こえてくるのだった。正月を待つ心は、子供のほうが熱い。寝床のなかで聞いていると、なんだかとてもドキドキした。思い返すと、旧家ほど早めに搗いていたようだ。我が家のような新参の家や小さな家が、最初に搗くことはなかった。搗く順番に、何か暗黙の取り決めがあったような気がする。したがって、我が家では大晦日近くに搗いていた記憶がある。二十九日だけは「苦餅」となるので、搗くのは避けた。作者は江戸期の町場の人だろうから、搗いているのは商売人かもしれない。「引摺り餅」と言って、数人で臼や杵などの餅搗き道具一切を持ち、各戸を搗いてまわった。落語に「しりもち」という演目があり、貧乏で「引摺り餅」を頼めない男が、それでは世間体が悪いというので、大晦日の暗いうちにに一計を案じる。近所に搗く音さえ聞こえればいいんだろと、さも「引摺り餅」の男たちがやってきているかのように、数人の声色を使い分け、大声で餅搗きシーンを自演しはじめる。で、「もちの音」を出すために、女房の丸出しの尻を叩いた。だから「しりもち」。関西ネタだというが、哀しくも滑稽な噺ではある。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 28122000

 書をはこびきて四壁なり煤ごもり

                           皆吉爽雨

払い(すすはらい)の際に邪魔にならないよう、年寄りや病人が一室に籠ることを「煤ごもり」とか「煤逃げ」などと言う。足手まといになる子供らにも言うし、手伝わずに威張って自室に籠っている一家の主人にも言ったようだ。ただし、煤ごもりに用いられる部屋には、他の部屋の家具類が一時置き場として運び込まれるから、ゆっくりできる気分にはなれない。まさに「四壁」状態となる。つまり、普通の状態だと、部屋にはドアや襖などの出入り口があるので「三壁」。揚句の場合には、書物が出入り口にまでうずたかく積まれてしまっているので、どう見ても「四壁」状態とあいなったわけだ。出るに出られない。これでは籠っているのだか、押し込まれているのだかわからんなと、たぶん作者は苦笑している。ある程度住宅が広くないと、こういうことはできない。だから私には経験はないのだが、「煤ごもり」ではなく「煤逃げ」という言葉を拡大解釈すれば、ないこともない。何度か大掃除の現場から逃走して、映画館に籠ったことがあった。むろん親には別の理由をつけての話で、そんなときの映画には、さすがに身が入らなかった。そうした後ろめたい理由さえなければ、押し詰まってからの映画館は快適だ。大晦日は、特にお薦め。客が少ないからである。一度だけ、たった一人だったこともある。たしか、東京駅の横っちょにあったちっぽけな小屋(業界用語なり)だった。そうなると、逆にとても落ち着いては見ていられない気分だったけれど(笑)。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 29122000

 うらむ気は更にあらずよ冷たき手

                           高浜虚子

の生まれた年(1938・昭和十三年)に、虚子はどんな句を作っていたのだろうか。と、岩波文庫をめくってみたら、十二月の句として載っていた。和解の情景だ。積年の誤解がとけて、二人は最後に握手を交わした。相手は、男だろう。女性であれば、握手などしない。いや、その前に、男女間で問題がこじれると(必ずしも恋愛問題にかぎらないが)、このようにはなかなか修復できない気がする。こじれっぱなしで、生涯が終わる場合のほうが多いはずだ。さて「冷たき手」だが、関係が元に戻った暖かい雰囲気のなかでの握手なのに、意外にも相手の手はとても冷たかった。その冷たさに、虚子は相手の自分に対する苦しみの日々を瞬時に感じ取っている。これほどまでに苦しんでいたのか、と。だから「うらむ気は更にあらずよ」と、内なる言葉がひとりでに流れでたのだ。「冷たき手」があればこその、暖かい心の交流がこに成立している。私にも、そういう相手が一人いた。といっても、立場は虚子の相手の側に近い。小学校時代に、いま思えば些細なことで、こじれた。私のほうが、一方的に悪いことをした。そのことがずうっと引っ掛かっていて、いつかは詫びようと思いつつ、ずるずると時間ばかりが過ぎていった。四十歳を過ぎてから故郷で同級会があり、この機会を逃したら永遠に和解できないような気がして、ほぼそれだけを目的に出かけていった。どんなに罵倒されようとも、許してくれなくとも謝ろう。思い決めて、出かけていった会に、ついに彼は姿を現さなかった。当然だ。亡くなっていたのだった。揚句に、そんな私は虚子と相手の幸福を思う。20世紀の終わりに、読者諸兄姉はどんなことを思われているのだろうか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


December 30122000

 麹町あたりの落葉所在なし

                           藤田湘子

日の麹町(こうじまち)風景だと思う。もっと言えば、年末年始の麹町ではあるまいか。東京都千代田区麹町。麹町は皇居の半蔵門側に位置し、国会議事堂にも近い。英国大使館や参議院議員宿舎があり、最近はオフィス街としても活気があるが、元来は静かな高級住宅地と言ってよいだろう。仕事で十年近く、半蔵門前のラジオ局(TOKYO-FM)に通っていたので、雰囲気はよく知っている。休日になると、街は一挙にガランとしてしまう。とりわけて年末年始には、昼間でも人通りが途絶える。タクシーも避けて通るくらいで、天皇が歩いていても気がつかれる心配はないほどだ(笑)。店もみな閉まってしまうので、近くのダイヤモンド・ホテルにでも行かなければ、食事もままならなかった。そんなゴースト・タウンみたいな街を吹き抜ける風のなかで、しきりに落葉が舞っている。いかにも「所在なし」の寒々しい光景だ。作者はもちろんウィークデーの喧騒を知っているので、余計に「所在なし」と感じている。麹町は典型だが、全国各地の県庁所在地なども、今日あたりはきっと閑散としていることだろう。通りかかって「所在なし」と感じている人も多いだろう。歳末の人込みを詠んだ句は多いが、逆にこうした静寂の風情も捨てがたい。行く年の句として読めば、しみじみと心にしみてくる。藤田湘子主宰誌「鷹」(2001年1月号)所載。(清水哲男)


December 31122000

 今思へば皆遠火事のごとくなり

                           能村登四郎

語は「火事」で冬。本年の掉尾を飾る句にしては寂し過ぎるが、あえて選んだ。といって、いまの私が作者の心境に至っているわけではない。新年早々に辻征夫と別れ、師走に加藤温子と別れた。仲良しの詩の仲間を、一挙に二人も奪われた。それもまだ十分に若い命を、だ。めったに泣かない私が、ひとりかくれて声を押し殺して泣いた。「ばかやろう」と大声で叫びたい気持ちだった。だから「遠火事」どころではなく、まだ心にはぶすぶすとくすぶるものがある。まだ、生々しい体験として生きている。揚句がそんな私に寂しいのは、やがていつの日か、今年起きたことも、おそらくは「遠火事」のように思い出されることになるだろうからだ。作者は、このときに七十代の後半である。よほどの体験でも、時の経つにつれて実感が失われていく。どうにもならぬ、人の常だ。戦地で地獄を見てきた人すらも、どこか「遠火事」のように語るようになってきた。私にしても、たとえば戦後の飢えの体験などは、どちらかといえば「遠火事」に近くなってきたろうか。あれほど苦しかったのに、たまのご馳走であった一個の生卵を弟と分ける際にいつも喧嘩になったのに、そういうことも忘れかけている。ひるがえって作者の心境に思いを馳せると、私などよりも、もっともっと寂しいだろうと思う。体験した喜怒哀楽の何もかもが「遠火事」のようにしか浮かんでこない心には、ただ荒涼たる風が吹きすぎているのみだろうからである。今年も暮れる。来る年が、みなさまにとってよい年でありますように。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)




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