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January 0212001

 御降りや今年いかにと義父の問ふ

                           守屋明俊

父が存命のころは、例年家族で大阪まで挨拶に出かけた。挨拶の座で、必ず「今年いかに」と問われた。それも、実にさりげない調子で……。しかし、さりげないだけに、聞かれたほうはドキリとする。なにせ世に言う正業に就いていない身だからして、問われてもきちんとは答えられないからだ。「まあ、なんとか」などと、曖昧な返事をするしかなかった。義父の質問は、もとより娘の身を案じてのことである。もっと景気のいい返事を聞いて安堵したかったのだろうが、一度もそのようには答えられなかった。私も「義父」と呼ばれる立場になってより、娘婿に会うたびに問いたくなる。ただし相手はドイツ人だから、さりげなくも何も、どう尋ねてよいのかがわからない。そんなドイツ語は、学校で教えてくれなかったからなア(笑)。この正月はあちこちの家で、正業に就いている男たちにも、さりげなくも鋭い質問が投げかけられているのではあるまいか。季語は「御降り(おさがり)」。元来は元日に降る雨を言ったようだが、いまでは三が日の雨降りを言う。雪にも使う場合がある。「御降りのかそけさよ父と酒飲めば」(相生垣瓜人)。こちらは、実父だ。父親と呑んではいるけれど、会話ははずんでいない。初春の雨の音が、かそけく聞こえてくるばかり。父と息子との関係は、たいていがこのようなものだろう。そこに、味わいもあるのだが。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


February 2622001

 春寒に入れり迷路に又入れり

                           相生垣瓜人

句。相生垣瓜人(あいおいがき・かじん)は、洒脱な俳風で知られた人。1985年(昭和六十年)二月に、米寿で亡くなっている。「三寒四温」とは冬の季語だが、二月如月の季節は気温が高くなったり低くなったりと、さながら「迷路」のように温度に消長がある。そんな消長を繰り返しながら季節は本格的な春へと赴くわけだが、揚句の「迷路」の実感は自身の病状と、それに伴う心情にかけられているのだろう。身体の状態がまさに「三寒四温」のように一進一退を繰り返し、ここにきて「又」寒くなってきた。この「迷路」は遊園地などの人工的なそれではないから、無事に抜け出られるかどうかはわからない。天然自然の「迷路」に入り込んで、さて、オレには「又」暖かい春が来るのか来ないのか。過去には何度も「春寒」の危機を脱していることがあるので、なおさら「又」に象徴される心情は複雑だ。「米寿」といえば八十八歳。これくらいまで生きると、世間ではよく「天寿を全うした」などと言いあいながら、葬式もしめっぽくならない例が多い。そんな言い草に腹を立て、「死んだこともないくせに『天寿を全うした』などと、よくもヌケヌケと言えるものだ」と言ったのは、米寿にははるかに及ばぬ年令で亡くなった詩人の北村太郎であった。死ぬ当人にしてみれば、ついに「迷路」から脱出がかなわなかったという残念があるかもしれぬのだから。俳誌「馬酔木」〈1985年4月号〉所載。(清水哲男)


April 2242001

 先人は必死に春を惜しみけり

                           相生垣瓜人

ハハと笑って、少ししてから神妙な気分に……。掲句は、出たばかりの「俳句研究」(2001年5月号)に載っている宇多喜代子「読み直す名句」で知った。この連載記事は同じ雑誌の坪内稔典のそれと双璧に面白く、愛読している。宇多さんの選句のセンスが好きだ。以下、宇多さんの説明(部分)。「惜春の情とは、本来、自然にわき出るものである。それをあたかも義務のように『必死に』なって春を惜しんでいる。たしかに古い時代のインテリたちは、競って春を惜しむ句を残している。なにごとにも『必死に』になってしまうものを、おかしがっているような句である」。その通りなのだろうが、私の解釈はちょっと違う。実は、そんなに暢気な句ではなくて、自戒の一発ではなかろうか。俳句に夢中になると、季節が気になる。眼前当季に血がのぼり、それこそ必死に季節を追いかけまわす。ひいては季節を追いかける癖がつきすぎて、ブッキッシュな季語にまで振り回され、「季語が季節か、季節が季語か」。なにやら朦朧としている症状に、当人だけは気がつかぬ。そんな自分のありように、はっと気がついたのが折しも暮れの春。おそらくは「惜春」の兼題に難渋しつつ、歳時記めくりつつ、思えば自分には「自然に」春を惜しむ心がないと知ったのだ。したがって、皮肉でも何でもなく、すいっと吐いたのが、この一句。「先人『も』」とやらなかったところが、作者の人柄だ。めったに作句はせねど、毎日このコラムを書いていると、こういうふうにも読んでみたくなる。日曜日だし、いいじゃん……。と、見る間にも、行春を近江の人に越されけり。つまり、ここで神妙になったというわけ。(清水哲男)


April 1342002

 先人は必死に春を惜しみけり

                           相生垣瓜人

多喜代子が「俳句研究」(2001年5月号)で紹介していた句。思わず吹きだしてしまった。皮肉たっぷりな句だが、しかし不思議に毒は感じられない。惜春の情などというものは自然にわき出てくるのが本来なのに、詩歌の先人たちの作品を見ていると、みな「必死に」なって行く春を惜しんでいる。どこに、そんな必要があるのか。妙なこってすなア。とまあ、そんな句意だろう。この句を読んでから、あらためて諸家の惜春の句を眺めてみると面白い。事例はいくらでもあげられるが、たとえば先人中の先人である芭蕉の句だ。『奥の細道』には載っていないけれど、同行の曽良が書き留めた句に「鐘つかぬ里は何をか春の暮」がある。旅の二日目に、室の八島(現・栃木市惣社)で詠んだ句だ。「何をか」は「何をか言はんや」などのそれで、入相の鐘(晩鐘)もつかないこの里では、何をたよりに春を惜しめばよいのかと口をとんがらかしている。だったら別に惜しまなくてもいいじゃんというのが、瓜人の立場。天下の芭蕉も、掲句の前では形無しである。はっはつは。なお「春の暮」は、いまでは春の夕暮れの意に使われるが、古くは暮春の意味だった。その点で、芭蕉の用法は曖昧模糊としている。たぶん、暮春と春夕の両者にかけられているのだろう。詠んだのが、旧暦三月二十九日であったから。(清水哲男)


November 22112002

 草々の呼びかはしつつ枯れてゆく

                           相生垣瓜人

なことを言うようだが、私はこの句に暖かいものを感じる。光景は、一見うら寂しい雰囲気のなかにあるけれど、お互いに声をかけあいながら「枯れて(滅びて)ゆく」ことなどは、私たち人間には決して起きないからだ。人間はてんでんバラバラに枯れてゆき、冬の「草々」は共に枯れてゆく。どちらが寂しいか……。作者は「呼びかはしつつ枯れてゆく」草々に、むしろ羨望の念すら覚えているのだと思う。これらの草々には、人間とは違って、それぞれの名前もなければ個性なんてものもない。すなわち、類としての存在として掴まれている。ここがポイントだ。もとより人間だとて類としての存在からは逃れようもないわけだが、名前があったり個性があると信じていたりするので、理屈上はともかく、すっかり類のことは忘れて生きている。「個」を見て「類」を見ず。だから、まごうかたなき人類の一員でありながら、自分の類に観念的にしか反応することができない。そこへいくと、草々は違う。句のように擬人化してみると、よくわかる。彼らは「共生」を観念としてではなく、実質実態として遂げているのだ。いつだって「呼びかはしつつ」生きて滅んでゆく。たとえおのれは枯れてしまっても、来春の新しい芽吹きが待っている。その希望を楽しめる。人間だって、類としては新しい芽吹きは常にあるくせに、それを楽しめない。自分一代で、何もかも終わりさ。「死んで花実が咲くものか」などと、それこそ変なことを言ったりする。まことに厄介だ。「冬枯」に分類。『微茫集』所収。(清水哲男)


May 0552004

 螫さるべき食はるべき夏来りけり

                           相生垣瓜人

夏。この言葉に触れただけで、何かすがすがしい気分になる。♪卯の花の匂ふ垣根に ほととぎすはやも来鳴きて 忍音(しのびね)もらす夏は来ぬ。佐佐木信綱の「夏は来ぬ」が、自然に口をついて出てきたりする。私自身もかつて「美しい五月」という短い詩を書いたことがあって、この季節になるとふっと思い出す。立夏の雰囲気にうながされるようにして、自然にすらすらと書けた詩だった。俳句でもすがすがしさを詠んだものが大半だが、なかにはぽろっと掲句のように臍が曲がったようなのもある。来る夏の鬱陶しさを詠んでいる。あっと、その前にお勉強だ。出だしの漢字「螫」を読める方は少ないだろう。むろん私も読めなかったので、漢和辞典を引いたクチだ。音読みでは「せき」、訓では「さ(す)」と読む。つまり「螫(さ)さるべき」と発音し、意味は「毒虫がさ(刺)す」ということだそうだ。ということで句意は、とうとう蚊などの虫に刺され食われる鬱陶しい季節がやってきたなあ、イヤだなあと、そんなところだろう。すがすがしいなんぞと、呑気なことは言ってられないというわけだ。すがすがしさを言う人は、考えてみれば、初夏のごく短期間をイメージしているのだけれど、作者はそのもっと先の本格的な長い夏場を思い浮かべている。それが同じ季語を使いながらも、句の気分の大きな差となって現れてくるのだ。面白いものである。しかし、立夏と聞いて夏の鬱陶しさを思うのは、あながち偏屈な感受性と言うわけにもいかないだろう。それは例えば「立冬」と聞いて、多くの人が長い冬の暗い雰囲気を想起するのと、精神構造的には同じことだからだ。したがって当然、先の臍曲り云々は取り消さねばなるまい。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1962005

 悲壮なる父の為にもその日あり

                           相生垣瓜人

語は「父の日」で夏。六月の第三日曜日。母の日に対して「父の日」もあるべきだというアメリカのJ・B・ドット夫人の提唱によって1940年に設けられた。俳句の季語として登場したのは戦後もだいぶ経ってかららしく、1955年(昭和三十年)に発行された角川版の歳時記には載っていない。克明に調べたわけではないが、手元の歳時記で見ると、1974年(昭和四十九年)の角川版には載っているので、一般的になりはじめたのはこのあたりからなのだろう。その解説に曰く。「母の日ほど一般化していないようだが、徐々に普及しつつある」。定着するのかどうか、なんとなく自信のなさそうな書きぶりだ。現在の角川版からは、さすがにこの一行は省かれているけれど、比較的新しい平井照敏の編纂になる河出文庫版(1989年)でも、筆は鈍い。「母も父もともに感謝されてしかるべきだが、父の日は母の日に比べてあまりおこなわれないようである。てれくさいのか、こわいのか、面倒なのか、父はなんとなく孤独な奉仕者である」。したがって掲載されている例句もあまりふるわず、そんななかで、掲句は積極的に「そうだ、父の日があってしかるべきだ」と膝を打っている点で珍しい。現代に見られるように、父親と友だちのようにつきあうなど考えられず、ただただ存在自体がおそろしかった時代の句だ。そんな父親との関係とも言えぬ関係のなかで、一家を背負った父の「悲壮」をきちんと汲み取っていた作者の優しい気持ちが嬉しい。悲壮の中味はわからないが、戦中戦後の困難な時代の父親のありようだろうと、勝手に読んでおく。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)他に所載。(清水哲男)


April 1942006

 覚めきらぬ者の声なり初蛙

                           相生垣瓜人

語は「初蛙(はつかわず)」で春、「蛙」に分類。今年はじめての蛙の声を聞いた。その声が、まだ完全には眠りから覚めていない人の声と同じように聞こえたと言うのである。言われてみれば、初蛙の声はなんだかそのようでもあり、あれが寝ぼけ声だとすると、鳴いている姿までが想像されて、なんとなく可笑しい。この句を紹介した本(『忘れられない名句』2004)のなかで、福田甲子雄は「こんな発想はなかなか初蛙の鳴き声を聞いても思いに至らない」と書き、句の説得性については「声なり」と断定して、「ごとし」とか「ような」といった直喩の形式をとっていないからだと説明した。その通りであって、この断定調が作者独特の感性に客観性を持たせ、瓜人ワールドとでも言うべきユニークな世界を構築している。私がそう聞きそう思ったのだから、そのままを書く。下手に他人の顔色をうかがったりはしない。だから逆に、その理由を書かなくてもすむ短詩型では読者を納得させ得るのだろう。同書で福田も引用しているが、能村登四郎はこのような瓜人ワールドを指して、「瓜人仙郷とよばれる脱俗の句境で、いうなれば東洋的諦観が俳句という寡黙な詩型の中に開花した独自の句風」と言っている。わかったようなわからないような説明だが、要するにみずからの感性に絶対の確信を持ってポエジーを展開したところに、作者最大の魅力があらわれているのだと思う。『微茫集』(1955)所収。(清水哲男)


January 1912008

 ヴァンゴッホ冷たき耳を截りにけり

                           相生垣瓜人

ッホが自らの耳を傷つけたのは1888年、クリスマスもほど近い12月23日。太陽をもとめて移り住んだ南仏の町アルルで、当時同居し、制作活動を共にしていたゴーギャンとの激しい諍いの果てであったという。春の水に映る跳ね橋、星月夜のカフェ、真夏の太陽そのものの輝きを放つひまわり。ゴッホは、アルルに滞在した四百日余りで、油絵、素描合わせて三百枚以上を描いたといわれている。掲句、実際は耳たぶの先をきり落としたのだというから、切る、ではなく、裁つ、きり離す、の意のある、截る、なのだろう。比較的いつもひんやりしている耳たぶだが、寒さがつのる冬には、ことさらその冷たさが際だつ。作者は、そんな感覚を失ってちぎれそうな自分の耳たぶに触れ、ふとゴッホに思いをはせたのだろうか。右手にカミソリを持ったゴッホが、左手で思わず掴んだ自らの耳たぶ。それは、やわらかくたよりなく、まるで自分自身の弱さの象徴のように思えたのかもしれない。冷たし、にある悲しみは、熱い血となって、その傷口から流れ出たことだろう。この後、ゴーギャンはタヒチに移り住み、ゴッホは1890年、三十七年の生涯を自らの手で閉じたのだった。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


June 2462008

 邪悪なる梅雨に順ひをれるなり

                           相生垣瓜人

ひは、従うの意。毎日続く邪悪な雨に渋々従っているのだという作者には、他にも〈梅雨が来て又残生を暗くせむ〉〈梅雨空の毒毒しきは又言はじ〉〈卑屈にもなるべく梅雨に強ひられし〉と、よほど梅雨の時期がお嫌いだったようである。雲に隠れた名月を眺め、炎天にわずかな涼しさを詠み取る俳人に「あいにくの天気はない」というが、これもやせ我慢や強がりから出る言葉だろう。そこに風雅の心はあるのだと言われれば納得もするが、たまには「嫌いは嫌い」とはっきり言ってくれる句にほっとし、清々しさを感じることもある。『雨のことば辞典』(倉嶋厚著)に「雨禁獄(あめきんごく)」という言葉を見つけた。大切な日に雨ばかり降ることに立腹した白河院が、雨を器にいれて牢屋に閉じ込めた故事によるという。雨乞い、晴乞い、ひいては生け贄をもってうかがいを立てるなど、天災にはきわめてへりくだったやり方が採用されていた時代に、なんと大上段の構えだろう。しかし、この八つ当たり的な措置に愛嬌と童心を感じるのも、また掲句に浮かぶ微笑と等しいように思う。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)


March 2132009

 大男にてもありける利久の忌

                           相生垣瓜人

休忌(利久忌)は、旧暦二月二十八日。今年でいうと、三月二十四日にあたる。そして利休の身長は、残されている鎧から推測すると180cm位だったらしい。利休、茶道、侘び茶という連想から、こじんまりと枯れた雰囲気の人物像を勝手に想像してしまっていたが、考えてみれば戦国時代、お茶を点てるのも命がけであり、利休にしろ始めからおじいさんだったわけではない。それにしても、秀吉の身長が、通説の140cmは不確かとはいえ、少なくとも小柄だったことは間違いないとすれば、二人の心理的関係の別の側面も想像される。この句は、利休は大男であった、という、ちょっと意外とも思われる事実を、やや詠嘆をもって詠んでいる。それを知っていれば、そうなんだよね、と思いながら、知らなければ、へえそうなんだ、と思いながら、利休の生涯にそれぞれがふと心を留めるだろう。正座と和菓子が大の苦手で、茶道はとても近寄りがたいが、利休という人物にはちょっと興味をひかれるのだった。「新日本大歳時記 春」(2000・講談社)所載。(今井肖子)


January 0412011

 初鴉わが散策を待ちゐたり

                           相生垣瓜人

くて大きな鴉は、その頭の良さに狡猾を感じさせるところもあり、多くの人に嫌悪される傾向にある。一方、「初鴉」が季語にもなっている由縁は、日常における迷惑な鳥という姿以外に、古くから神の使者としての役割りも担っている。烏信仰として知られる熊野三山の各大社で配布される神札は鴉が絵文字となっており、現在でも護符として使用され、神とのつながりを保っている。掲句はいつもの散策コースに必ずいる鴉が今日は特別な初鴉となって作者の前に現れたのである。一年のほとんどを嫌われ者として過ごす鴉だが、このときだけは堂々と吉兆の象徴として、そのつややかな黒い姿もどことなく神々しく見えてくるから不思議である。歳時記で見られる初鴉、初雀、初鳩。人間の生活とともに繁殖してきた鳥たちへの役どころはどれも清々しく好ましい。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)


February 0122015

 天の邪鬼虎落笛をば吹き遊ぶ

                           相生垣瓜人

五は「吹き遊(すさ)ぶ」とルビがあります。そこに、へそ曲がりな天の邪鬼のふるまいが表れています。天の邪鬼は、虎落笛(もがりぶえ)で冬の烈風を吹き遊んでいる。それを聞く人は、寒々とした心持ちになりますが、性根の曲がっている天の邪鬼は、聞いて怯える子どもらを笑い飛ばしています。しかし、天の邪鬼には悪気はなく、ふつうに冬将軍を楽しんでいるだけなのでしょう。だからかえってたちが悪い。そのような、天の邪鬼を主体とした句作が面白く、それは、季節を詠んでいるということにもなります。句集には他に、「虎落笛胡笳の聲にも似たらむか」があり、「胡笳(こか)」は、アシの葉を巻いて作った笛で、悲しい音が出るそうです。また、「徒然に吹く音あれや虎落笛」。この句の主体も、風が竹垣を奏でる冬を広くとらえたものでしょう。なお、「もがり」は古くは「殯」で、高貴な人を仮葬すること。後にその木や竹の囲いをもがりと呼びました。それが、戦場で防衛するための柵となり、虎落の名がついたといいます。以降、転じて、人を通さない縄をもがり縄と言い、横車を押す者、ゆすりたかりをもがり者というのもそこから出てきているようです。だから、天の邪鬼が虎落笛で遊ぶのは、然るべきなんですね。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(小笠原高志)




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