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January 0512001

 手毬の子妬心つよきはうつくしき

                           石原舟月

人の女の子が毬(まり)つきをしている。見ていると、なかに相当に負けず嫌いの子がいて、一番になりたいと何度でもつき直している。「妬心(こしん)」が強いのだが、他の争わない子と比べて、その子が最も美しく見えた。真剣の美だ。手毬にかぎらず、男女の別なく、たしかに真剣な表情は美しい。同時に作者は、この小さな気性の激しい女の子の未来に、ちらと思いを馳せたにちがいない。「妬心}の強さが心配だからだ。美しい女の子の姿に、淡いが暗い影がさっと走り抜けている……。ところで、毬つきといえば唄がつきもの。地方によってさまざまだろうが、よく例に出される古い唄では「本町二丁目の糸屋の娘、姉は二十一、妹ははたち、妹ほしさに宿願かけて、伊勢へ七たび熊野へ三たび、愛宕様へは月参り」があり、ちっちゃな女の子には意味などわかるまい。水上涼子の「手毬唄十は東京なつかしと」は、新しい手毬唄だ。私の育った山口県山陰側では、もっぱら「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ」と歌われていた。九州に近い土地の故だろうか。つづけて「センバヤマ(表記不詳)には狸がおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ焼いてさ食ってさ」と歌い、おしまいは「それを木の葉でちょいとかくす」となる。最後に毬を股の間から後ろにまわし、お尻のところで受け止めるのである。中世からはじまったという手毬つきも、とんと見かけることもなくなった。時も時節も変わりゆき、そして遊びも変わっていく。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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